31 / 40
第31話 引き受けないという誠実
しおりを挟む
第31話 引き受けないという誠実
朝の王宮は、昨日よりも落ち着いていた。
責任の境界線が引かれたことで、
誰が何を決め、誰が何を担うのか——
その輪郭が、ようやく共有されたからだ。
クロエは回廊を歩きながら、その空気の変化をはっきりと感じていた。
「……静かだけど、
止まってはいない」
人々は動いている。
ただ、無理に急いでいない。
*
午前、クロエは小さな相談を受けていた。
相手は、若手の文官。
緊張した面持ちで、書類を抱えている。
「……クロエ様、
少しだけ、お時間を……」
「はい」
クロエは足を止め、
相手の視線と同じ高さに立った。
「……今回の支援運用について、
現地側から、
追加の要望が来ています」
「どのような内容ですか」
「……こちらの管理下にある部分まで、
踏み込んだ提案で……
正直、
判断に迷っています」
彼の声には、
不安と期待が混じっていた。
*
——期待。
この場で、
クロエが判断を引き受けてくれるのではないか。
そういう、無意識の期待。
クロエは、すぐには答えなかった。
「……あなたは、
どう考えていますか」
若い文官は、少し驚いたように瞬きをする。
「……私、ですか」
「はい」
「……現地の事情は理解できます」
言葉を探しながら、続ける。
「ですが、
こちらの責任範囲を越える部分については、
一度、整理が必要だと……」
クロエは、静かに頷いた。
*
「その考えを、
まず、
担当部署で共有してください」
若い文官の表情が、
わずかに曇る。
「……クロエ様は、
関与されない、
ということでしょうか」
その問いは、
恐る恐るだった。
*
「はい」
クロエは、はっきりと答えた。
「今回は、
私が引き受けるべき判断ではありません」
一瞬、
空気が止まる。
「……それは」
若い文官は、
言葉を詰まらせる。
「……突き放している、
ように感じますか」
クロエは、
穏やかに問い返した。
*
「……少しだけ」
正直な答えだった。
「でも」
クロエは、続ける。
「私がここで判断を引き受けたら、
あなたの考えは、
その場で終わってしまいます」
若い文官は、
息を呑む。
「……終わって、
しまう?」
「はい」
クロエは、
言葉を重ねる。
「あなたが迷い、
考え、
責任の範囲を意識したことが、
“正しかったかどうか”を、
自分で確かめる機会を、
失ってしまいます」
*
若い文官は、
しばらく黙り込んだ。
そして、
小さく息を吐く。
「……楽な答えを、
求めていました」
「それ自体は、
悪いことではありません」
クロエは、微笑んだ。
「ですが、
楽な答えを、
常に与え続けることは——」
一拍置く。
「誠実ではありません」
*
若い文官は、
深く頭を下げた。
「……わかりました」
「……一人で抱え込まないでください」
クロエは、最後にそう付け加える。
「引き受けない、というのは、
放り出すことではありません」
*
昼過ぎ。
クロエは中庭で、
少し離れた場所から、
文官たちの議論を眺めていた。
先ほどの若い文官も、
輪の中にいる。
彼は、
先ほどよりも、
落ち着いた表情で話していた。
「……この部分は、
こちらの責任になります」
「現地の意見は、
参考にしますが……」
言葉は、
まだぎこちない。
だが、
逃げてはいない。
「……引き受けない、
という選択」
それは、
相手に考える余地を残すこと。
*
夕刻、クロエはアストールと回廊を歩いていた。
「今日は、
断ったな」
「……はい」
「後味は」
クロエは、少し考えてから答える。
「……軽くは、
ありません」
「当然だ」
アストールは、即座に言った。
「引き受けないというのは、
冷たい選択に見える」
「……でも」
「だが、
引き受け続けるほうが、
もっと冷たい場合もある」
クロエは、静かに頷いた。
*
夜。
クロエは自室で、
今日の出来事を思い返していた。
助けなかった。
答えを出さなかった。
前に立たなかった。
それでも——。
「……逃げていない」
そう、はっきりと言えた。
誰かの責任を奪わないこと。
誰かの考える力を、
信じること。
それもまた、
誠実の一つの形だ。
クロエは、
灯りを落とす。
引き受けないという選択は、
楽ではない。
誤解も生む。
孤独も伴う。
だが——
それは、
誰かを一人の存在として
尊重するという行為でもあった。
その実感を胸に、
クロエは静かに目を閉じた。
朝の王宮は、昨日よりも落ち着いていた。
責任の境界線が引かれたことで、
誰が何を決め、誰が何を担うのか——
その輪郭が、ようやく共有されたからだ。
クロエは回廊を歩きながら、その空気の変化をはっきりと感じていた。
「……静かだけど、
止まってはいない」
人々は動いている。
ただ、無理に急いでいない。
*
午前、クロエは小さな相談を受けていた。
相手は、若手の文官。
緊張した面持ちで、書類を抱えている。
「……クロエ様、
少しだけ、お時間を……」
「はい」
クロエは足を止め、
相手の視線と同じ高さに立った。
「……今回の支援運用について、
現地側から、
追加の要望が来ています」
「どのような内容ですか」
「……こちらの管理下にある部分まで、
踏み込んだ提案で……
正直、
判断に迷っています」
彼の声には、
不安と期待が混じっていた。
*
——期待。
この場で、
クロエが判断を引き受けてくれるのではないか。
そういう、無意識の期待。
クロエは、すぐには答えなかった。
「……あなたは、
どう考えていますか」
若い文官は、少し驚いたように瞬きをする。
「……私、ですか」
「はい」
「……現地の事情は理解できます」
言葉を探しながら、続ける。
「ですが、
こちらの責任範囲を越える部分については、
一度、整理が必要だと……」
クロエは、静かに頷いた。
*
「その考えを、
まず、
担当部署で共有してください」
若い文官の表情が、
わずかに曇る。
「……クロエ様は、
関与されない、
ということでしょうか」
その問いは、
恐る恐るだった。
*
「はい」
クロエは、はっきりと答えた。
「今回は、
私が引き受けるべき判断ではありません」
一瞬、
空気が止まる。
「……それは」
若い文官は、
言葉を詰まらせる。
「……突き放している、
ように感じますか」
クロエは、
穏やかに問い返した。
*
「……少しだけ」
正直な答えだった。
「でも」
クロエは、続ける。
「私がここで判断を引き受けたら、
あなたの考えは、
その場で終わってしまいます」
若い文官は、
息を呑む。
「……終わって、
しまう?」
「はい」
クロエは、
言葉を重ねる。
「あなたが迷い、
考え、
責任の範囲を意識したことが、
“正しかったかどうか”を、
自分で確かめる機会を、
失ってしまいます」
*
若い文官は、
しばらく黙り込んだ。
そして、
小さく息を吐く。
「……楽な答えを、
求めていました」
「それ自体は、
悪いことではありません」
クロエは、微笑んだ。
「ですが、
楽な答えを、
常に与え続けることは——」
一拍置く。
「誠実ではありません」
*
若い文官は、
深く頭を下げた。
「……わかりました」
「……一人で抱え込まないでください」
クロエは、最後にそう付け加える。
「引き受けない、というのは、
放り出すことではありません」
*
昼過ぎ。
クロエは中庭で、
少し離れた場所から、
文官たちの議論を眺めていた。
先ほどの若い文官も、
輪の中にいる。
彼は、
先ほどよりも、
落ち着いた表情で話していた。
「……この部分は、
こちらの責任になります」
「現地の意見は、
参考にしますが……」
言葉は、
まだぎこちない。
だが、
逃げてはいない。
「……引き受けない、
という選択」
それは、
相手に考える余地を残すこと。
*
夕刻、クロエはアストールと回廊を歩いていた。
「今日は、
断ったな」
「……はい」
「後味は」
クロエは、少し考えてから答える。
「……軽くは、
ありません」
「当然だ」
アストールは、即座に言った。
「引き受けないというのは、
冷たい選択に見える」
「……でも」
「だが、
引き受け続けるほうが、
もっと冷たい場合もある」
クロエは、静かに頷いた。
*
夜。
クロエは自室で、
今日の出来事を思い返していた。
助けなかった。
答えを出さなかった。
前に立たなかった。
それでも——。
「……逃げていない」
そう、はっきりと言えた。
誰かの責任を奪わないこと。
誰かの考える力を、
信じること。
それもまた、
誠実の一つの形だ。
クロエは、
灯りを落とす。
引き受けないという選択は、
楽ではない。
誤解も生む。
孤独も伴う。
だが——
それは、
誰かを一人の存在として
尊重するという行為でもあった。
その実感を胸に、
クロエは静かに目を閉じた。
0
あなたにおすすめの小説
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
虐げられた皇女は父の愛人とその娘に復讐する
ましゅぺちーの
恋愛
大陸一の大国ライドーン帝国の皇帝が崩御した。
その皇帝の子供である第一皇女シャーロットはこの時をずっと待っていた。
シャーロットの母親は今は亡き皇后陛下で皇帝とは政略結婚だった。
皇帝は皇后を蔑ろにし身分の低い女を愛妾として囲った。
やがてその愛妾には子供が生まれた。それが第二皇女プリシラである。
愛妾は皇帝の寵愛を笠に着てやりたい放題でプリシラも両親に甘やかされて我儘に育った。
今までは皇帝の寵愛があったからこそ好きにさせていたが、これからはそうもいかない。
シャーロットは愛妾とプリシラに対する復讐を実行に移す―
一部タイトルを変更しました。
王太子妃専属侍女の結婚事情
蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。
未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。
相手は王太子の側近セドリック。
ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。
そんな二人の行く末は......。
☆恋愛色は薄めです。
☆完結、予約投稿済み。
新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。
ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。
そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。
よろしくお願いいたします。
旦那様には愛人がいますが気にしません。
りつ
恋愛
イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。
※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。
あなただけが私を信じてくれたから
樹里
恋愛
王太子殿下の婚約者であるアリシア・トラヴィス侯爵令嬢は、茶会において王女殺害を企てたとして冤罪で投獄される。それは王太子殿下と恋仲であるアリシアの妹が彼女を排除するために計画した犯行だと思われた。
一方、自分を信じてくれるシメオン・バーナード卿の調査の甲斐もなく、アリシアは結局そのまま断罪されてしまう。
しかし彼女が次に目を覚ますと、茶会の日に戻っていた。その日を境に、冤罪をかけられ、断罪されるたびに茶会前に回帰するようになってしまった。
処刑を免れようとそのたびに違った行動を起こしてきたアリシアが、最後に下した決断は。
君といるのは疲れると言われたので、婚約者を追いかけるのはやめてみました
水谷繭
恋愛
メイベル・ホワイトは目立たない平凡な少女で、美人な姉といつも比べられてきた。
求婚者の殺到する姉とは反対に、全く縁談のなかったメイベル。
そんなある日、ブラッドという美少年が婚約を持ちかけてくる。姉より自分を選んでくれたブラッドに感謝したメイベルは、彼のために何でもしようとひたすら努力する。
しかしそんな態度を重いと告げられ、君といると疲れると言われてしまう。
ショックを受けたメイベルは、ブラッドばかりの生活を改め、好きだった魔法に打ち込むために魔術院に入ることを決意するが……
◆なろうにも掲載しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる