正解を出さない私たちが、それでも前に進めた理由

鷹 綾

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第32話 揺らぎを許す場

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第32話 揺らぎを許す場

 朝の空気は、少し重かった。

 雲が低く垂れ込めているわけではない。
 雨の気配があるわけでもない。

 それでも、王宮の廊下を歩く人々の足取りには、
 どこか迷いが滲んでいた。

「……揺らぎが、
 表に出てきた」

 クロエは、静かにそう感じていた。

 責任の境界線が引かれ、
 引き受けないという選択が共有され——
 今度は、
 それでも割り切れない感情が、
 少しずつ浮かび上がってきている。

     *

 午前、共同進行の打ち合わせが開かれた。

 参加者は、これまでよりも多い。
 王宮側、現地側、調整役。

 議題は明確だが、
 空気は張り詰めていた。

「……この案についてですが」

 中堅の文官が、慎重に口を開く。

「現地の裁量を広げる形になります」

 すぐに、別の声が上がる。

「ですが、
 その分、
 責任の所在が曖昧になります」

「前回、
 境界線を整理したばかりでは?」

 意見は、真っ向から対立していた。

     *

 以前なら、
 この段階で誰かが場を収めていた。

 結論を出す人間が、
 前に出ていた。

 だが——
 今日は、誰もそうしない。

 クロエも、
 黙っている。

     *

「……正直に言います」

 地方代表の一人が、
 ゆっくりと手を挙げた。

「私たちは、
 まだ不安です」

 その言葉に、
 場が静まる。

「一緒に考える、
 という形はありがたい」

「ですが……
 自分たちが、
 本当に判断していいのか」

 声が、わずかに震える。

「失敗した時、
 責められるのではないか、
 という恐れが、
 消えきっていません」

     *

 その告白は、
 誰かを責めるものではなかった。

 ただ、
 隠してきた感情を、
 そのまま置いただけだ。

     *

 王宮側の文官が、
 すぐに反応する。

「……それは、
 こちらの説明不足です」

 彼は、言葉を選びながら続けた。

「責任を渡す、
 ということと……
 責任を押し付ける、
 ということの違いを」

「十分に、
 伝えきれていませんでした」

 場に、
 小さな揺れが走る。

     *

「……不安があるままでも、
 進めるのでしょうか」

 別の地方代表が、
 問いを投げた。

「覚悟が固まるまで、
 待つべきでは?」

 それは、
 もっともな問いだった。

     *

 クロエは、
 ここで初めて口を開いた。

「……揺らいだままでも、
 進めます」

 視線が集まる。

「揺らぎがあることを、
 隠さなければ」

 声は、静かだ。

「不安があるから、
 止まるのではありません」

「不安を認める場が、
 ないから、
 止まってしまうのです」

     *

 誰かが、
 息を呑む音がした。

「……揺らぎを、
 許す場」

 クロエは、
 言葉を続ける。

「迷いがあることを、
 弱さとして扱わない場です」

「“まだ決めきれない”
 と言っていい」

「“自信がない”
 と言っていい」

     *

「それでも、
 一緒に考え続ける」

 その一文が、
 空気を変えた。

     *

 中堅の文官が、
 ゆっくりと頷く。

「……不安を、
 議事録に残しましょう」

「消さずに」

 別の者が、
 続ける。

「判断の前提として」

 誰かが、
 小さく笑った。

「……それは、
 少し怖いですが」

「でも、
 正直ですね」

     *

 議論は、
 すぐにまとまらなかった。

 だが、
 声は荒れなかった。

 揺らぎを出しても、
 拒絶されない。

 その安心が、
 場を支えていた。

     *

 昼過ぎ、
 打ち合わせは一区切りを迎える。

 結論は出ていない。
 だが、
 揺らぎが、
 場に置かれたままになっている。

 それだけで、
 十分だった。

     *

 中庭で、
 クロエは立ち止まった。

 風が、
 少し冷たい。

「……揺らぎを許す、
 ということは」

 不安を消すことではない。

 揺れても、
 立っていられる場所を、
 作ることだ。

     *

 夕刻、ア伴ストールが隣に立つ。

「今日は、
 少し、
 重かったな」

「……はい」

「だが、
 必要な重さだ」

 クロエは、
 小さく頷く。

「軽い答えで、
 覆える段階は、
 もう過ぎています」

     *

 夜。

 クロエは自室で、
 今日の議事録を見返していた。

 そこには、
 決定事項と並んで、
 不安や迷いが、
 そのまま記されている。

 ——判断に不安あり
 ——責任の重さに懸念
 ——現地側の覚悟は途上

「……消されていない」

 それが、
 何よりの前進だった。

 揺らぎを許す場は、
 完成された組織ではない。

 だが、
 壊れにくい。

 不安を抱えたままでも、
 人は、
 前に進める。

 その実感を胸に、
 クロエは静かに灯りを落とした。
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