婚約破棄された伯爵令嬢、王の目となる

鷹 綾

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第一話 切り捨てられた令嬢

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第一話 切り捨てられた令嬢

 その言葉は、驚くほど事務的だった。

「――婚約は、ここまでにしましょう」

 スキーム・コンシール伯爵は、そう告げると、まるで帳簿の一項目に線を引くかのように視線を外した。王都の応接室は、磨き上げられた床と厚い絨毯に音を吸われ、沈黙だけが重く残る。傍らに控える使用人たちは、主の決断に合わせて息を潜めていた。

 ミシェル・ドミニク伯爵令嬢は、ゆっくりと瞬きを一つした。驚愕も、悲嘆も、そこにはない。彼女は椅子から立ち上がると、軽く礼をして答える。

「はい、はい、わかりました。了承します」

 それだけで十分だったはずだ。だが彼女は、扉へ向かいながら、振り返りもせずに付け加えた。

「――お話は以上でよろしい? 今、それどころじゃありませんの」

 言葉の端に、わずかな急ぎが混じっていた。スキームは眉をひそめる。拒絶されたのは彼の方だというのに、なぜこの女は、婚約破棄を受けた直後に、こんなにも淡々としていられるのか。胸中に小さな棘が刺さったが、彼はそれを考えないことにした。

 ミシェルが応接室を出ると、廊下の先で待っていた侍女が一歩進み出た。顔色が悪い。

「お嬢様……急使が。ドミニク伯爵様が……」

「……わかっています」

 ミシェルは歩みを止めず、短く答えた。数刻前、父が危篤だという知らせはすでに届いている。婚約破棄の席に向かったのは、義務だった。終わらせるべき手続きを終わらせ、戻るべき場所へ戻る。その順序を、彼女は最初から決めていた。

 馬車が動き出す。王都の喧騒が遠ざかり、窓の外の景色が流れていく。ミシェルは背筋を伸ばしたまま、膝の上で指を組んだ。心が凪いでいるのは、感情がないからではない。今は、それを取り出す余裕がないだけだ。

 ドミニク伯爵家は、王国創立以来の忠臣の家である。派手さはなく、しかし確実に国を支え続けてきた。その当主が、今、命の淵に立っている。娘として、伯爵令嬢として、彼女にできることは一つしかなかった。

 屋敷に到着すると、使用人たちが一斉に頭を下げた。廊下を進むごとに、空気が張り詰めていく。寝室の扉の前で、老執事が深く一礼した。

「……お待ちしておりました」

 室内は静かだった。父は寝台に横たわり、呼吸は浅い。ミシェルはそっと近づき、椅子に腰掛ける。手を取り、微かな温もりを確かめた。

「……帰りました、お父様」

 返事はない。それでも彼女は、必要な言葉を、淡々と紡いだ。領地の状況、王都での動き、そして――婚約が終わったこと。父のまぶたが、ほんのわずかに動いた気がした。

 夜が更け、ろうそくが短くなる頃、医師が静かに首を振った。ミシェルは立ち上がり、深く一礼する。涙は流れなかった。泣くのは、役目を果たした後だ。

 翌朝、鐘が鳴った。ドミニク伯爵、逝去。屋敷には重い沈黙が降りる。親族も、近隣の貴族も、皆が理解していた。次に当主となるのは、ただ一人の娘――ミシェルである。

 女であることを理由に、囁きは生まれた。しかし、正式な異議は出なかった。王国において、ドミニク伯爵家の忠誠は、それほどまでに重い。ミシェルは、淡々と継承の手続きを進め、書に署名する。

 その日の午後、王都からの急使が到着した。

「国王陛下より。至急、登城せよとの命です」

 使用人たちがざわめく中、ミシェルは封蝋を確かめ、静かに頷いた。

「……承りました」

 婚約を失い、父を失い、伯爵位を継いだ。そのすべてが、まだ一日のうちに収まっている。彼女は窓の外を見た。空は高く、雲はゆっくりと流れている。

 一方その頃、コンシール伯爵邸では、スキームが落ち着かない足取りで部屋を歩いていた。婚約を切り捨てたのは正しい判断だった――そう、何度も自分に言い聞かせる。

「……証拠は、ない。掴まれる前に切った。問題ない」

 だが胸の奥で、不安がくすぶる。ドミニク伯爵家は、王の信任が厚い。しかも、あの娘は――妙に冷静だった。

 スキームは、窓を閉め、書類棚に視線を走らせた。帳簿は整っている。表向きは、何も問題ない。そう、表向きは。

 知らぬ間に、歯車は回り始めていた。

 ミシェル・ドミニク伯爵。
 彼女自身もまだ知らない形で、運命は次の役目を用意している。

 それは、私情を挟まぬ裁きの席。
 王の目として、国を見る役目だった。
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