18 / 25
第十八話 美しすぎる帳簿
しおりを挟む
第十八話 美しすぎる帳簿
北へ向かう街道は、整備が行き届いていた。
石畳は欠けることなく続き、街道沿いの道標は新しい。宿場町には余裕があり、倉庫は満ち、治安も良い。旅人の目から見れば、理想的な領地だった。
「……噂どおりですね」
馬車の窓から外を眺め、ノイマンが静かに言う。
「ええ。
整いすぎています」
ミシェルは、手元の帳面に視線を落とす。そこに記された数字は、どれも端正で、乱れがない。税収、支出、備蓄、公共投資。すべてが“模範的”だった。
「前回の巡察記録でも、高評価です」
「前回、ですね」
ミシェルは、その言葉に引っかかりを覚えた。
「誰が、巡察したのですか」
「伯爵でした。
……北方の、別の領主です」
ミシェルは、ゆっくりと頷いた。
伯爵が伯爵を評価する。
それ自体は、制度上おかしくない。だが――
「互いに傷つけない評価ほど、信用できないものはありません」
ノイマンは、苦笑した。
「神学でも、同じです。
互いに罪を見ない者同士は、やがて罪を語らなくなる」
馬車は、北方伯爵領の城門前で止まった。
歓迎は控えめだが、無礼はない。儀礼は正しく、対応は迅速。城内は静かで、使用人の動きに無駄がない。
領主――ヴェルナー伯爵は、応接の間で二人を迎えた。
「遠路ご苦労。
巡察の件は、承っている」
彼は、柔らかな物腰で頭を下げる。年は四十前後。落ち着きがあり、威圧感はない。
「帳簿も、すでに準備しております」
机に並べられた書類は、完璧だった。
紙の質、綴じ方、筆跡。どれも一級品。
「……美しい」
ノイマンが、思わず呟く。
「誉め言葉として、受け取ってよろしいでしょうか」
ヴェルナー伯爵は、微笑んだ。
「努力しておりますので」
ミシェルは、帳簿を一冊手に取る。
頁をめくる音が、静かな室内に響く。
数字は、整っている。
あまりにも。
「備蓄量が、毎年ほぼ同じですね」
「自然災害が少ない土地ですから」
「それでも、収穫量には揺れが出るはず」
ミシェルは、顔を上げる。
「揺れがないのは、不自然です」
ヴェルナー伯爵は、表情を変えない。
「統計処理の結果でしょう」
その答えは、理屈としては正しい。
だが――
「統計は、現実を丸めます。
しかし、現実そのものを消すことはできない」
ミシェルは、帳簿を閉じた。
「領内の倉庫を、見せてください」
一瞬だけ、ヴェルナー伯爵の指が動いた。
「もちろん。
ですが、順序というものが――」
「不要です」
短い否定。
ノイマンが、補足するように言う。
「拒否は、疑念を深めます」
ヴェルナー伯爵は、わずかに息を吐いた。
「……ご案内しましょう」
倉庫は、確かに満ちていた。
穀物袋は整然と積まれ、管理札も正確だ。
だが、ミシェルは、袋の一つに手を触れた。
「軽い」
「……」
「量はある。
ですが、質が落ちています」
ノイマンが、袋を開ける。中の穀物は、見た目は良いが、混ぜ物がある。
「量を保つために、質を落とした。
帳簿上の数字は、同じまま」
ミシェルは、静かに告げる。
「これは、領民の口に入るものです」
ヴェルナー伯爵の額に、汗が滲んだ。
「それは……一時的な措置で……」
「一時的、が毎年続いている」
ミシェルは、倉庫を見渡す。
「帳簿は、美しい。
ですが――」
一拍、置く。
「この領地は、痩せています」
ノイマンが、低く続ける。
「神に捧げる寄進も、形式だけ。
祈りはあれど、実がない」
ヴェルナー伯爵は、口を閉ざした。
ここに至って、彼は理解する。
この二人は、帳簿だけを見に来たのではない。
「……どう裁かれる」
問いは、震えていた。
「即時処断は、ありません」
ミシェルは、きっぱりと言った。
「あなたは、不正を“巧妙に”行ったわけではない。
優秀であるがゆえの、怠慢です」
それは、免罪ではない。
だが、断罪でもない。
「改善命令を出します。
期限は、三か月」
「……従います」
ヴェルナー伯爵は、深く頭を下げた。
城を出た後、ノイマンが言った。
「処断しなかったのですね」
「ええ」
ミシェルは、街道を見つめる。
「恐怖だけでは、国は痩せる。
正すべきは、正す」
馬車が再び動き出す。
噂は、また形を変えて広がるだろう。
――美しい帳簿でも、逃げ切れない。
――だが、正せば、救われる。
裁きは、一つではない。
それを示すことも、また巡察の役目だった。
北へ向かう街道は、整備が行き届いていた。
石畳は欠けることなく続き、街道沿いの道標は新しい。宿場町には余裕があり、倉庫は満ち、治安も良い。旅人の目から見れば、理想的な領地だった。
「……噂どおりですね」
馬車の窓から外を眺め、ノイマンが静かに言う。
「ええ。
整いすぎています」
ミシェルは、手元の帳面に視線を落とす。そこに記された数字は、どれも端正で、乱れがない。税収、支出、備蓄、公共投資。すべてが“模範的”だった。
「前回の巡察記録でも、高評価です」
「前回、ですね」
ミシェルは、その言葉に引っかかりを覚えた。
「誰が、巡察したのですか」
「伯爵でした。
……北方の、別の領主です」
ミシェルは、ゆっくりと頷いた。
伯爵が伯爵を評価する。
それ自体は、制度上おかしくない。だが――
「互いに傷つけない評価ほど、信用できないものはありません」
ノイマンは、苦笑した。
「神学でも、同じです。
互いに罪を見ない者同士は、やがて罪を語らなくなる」
馬車は、北方伯爵領の城門前で止まった。
歓迎は控えめだが、無礼はない。儀礼は正しく、対応は迅速。城内は静かで、使用人の動きに無駄がない。
領主――ヴェルナー伯爵は、応接の間で二人を迎えた。
「遠路ご苦労。
巡察の件は、承っている」
彼は、柔らかな物腰で頭を下げる。年は四十前後。落ち着きがあり、威圧感はない。
「帳簿も、すでに準備しております」
机に並べられた書類は、完璧だった。
紙の質、綴じ方、筆跡。どれも一級品。
「……美しい」
ノイマンが、思わず呟く。
「誉め言葉として、受け取ってよろしいでしょうか」
ヴェルナー伯爵は、微笑んだ。
「努力しておりますので」
ミシェルは、帳簿を一冊手に取る。
頁をめくる音が、静かな室内に響く。
数字は、整っている。
あまりにも。
「備蓄量が、毎年ほぼ同じですね」
「自然災害が少ない土地ですから」
「それでも、収穫量には揺れが出るはず」
ミシェルは、顔を上げる。
「揺れがないのは、不自然です」
ヴェルナー伯爵は、表情を変えない。
「統計処理の結果でしょう」
その答えは、理屈としては正しい。
だが――
「統計は、現実を丸めます。
しかし、現実そのものを消すことはできない」
ミシェルは、帳簿を閉じた。
「領内の倉庫を、見せてください」
一瞬だけ、ヴェルナー伯爵の指が動いた。
「もちろん。
ですが、順序というものが――」
「不要です」
短い否定。
ノイマンが、補足するように言う。
「拒否は、疑念を深めます」
ヴェルナー伯爵は、わずかに息を吐いた。
「……ご案内しましょう」
倉庫は、確かに満ちていた。
穀物袋は整然と積まれ、管理札も正確だ。
だが、ミシェルは、袋の一つに手を触れた。
「軽い」
「……」
「量はある。
ですが、質が落ちています」
ノイマンが、袋を開ける。中の穀物は、見た目は良いが、混ぜ物がある。
「量を保つために、質を落とした。
帳簿上の数字は、同じまま」
ミシェルは、静かに告げる。
「これは、領民の口に入るものです」
ヴェルナー伯爵の額に、汗が滲んだ。
「それは……一時的な措置で……」
「一時的、が毎年続いている」
ミシェルは、倉庫を見渡す。
「帳簿は、美しい。
ですが――」
一拍、置く。
「この領地は、痩せています」
ノイマンが、低く続ける。
「神に捧げる寄進も、形式だけ。
祈りはあれど、実がない」
ヴェルナー伯爵は、口を閉ざした。
ここに至って、彼は理解する。
この二人は、帳簿だけを見に来たのではない。
「……どう裁かれる」
問いは、震えていた。
「即時処断は、ありません」
ミシェルは、きっぱりと言った。
「あなたは、不正を“巧妙に”行ったわけではない。
優秀であるがゆえの、怠慢です」
それは、免罪ではない。
だが、断罪でもない。
「改善命令を出します。
期限は、三か月」
「……従います」
ヴェルナー伯爵は、深く頭を下げた。
城を出た後、ノイマンが言った。
「処断しなかったのですね」
「ええ」
ミシェルは、街道を見つめる。
「恐怖だけでは、国は痩せる。
正すべきは、正す」
馬車が再び動き出す。
噂は、また形を変えて広がるだろう。
――美しい帳簿でも、逃げ切れない。
――だが、正せば、救われる。
裁きは、一つではない。
それを示すことも、また巡察の役目だった。
0
あなたにおすすめの小説
四人の令嬢と公爵と
オゾン層
恋愛
「貴様らのような田舎娘は性根が腐っている」
ガルシア辺境伯の令嬢である4人の姉妹は、アミーレア国の王太子の婚約候補者として今の今まで王太子に尽くしていた。国王からも認められた有力な婚約候補者であったにも関わらず、無知なロズワート王太子にある日婚約解消を一方的に告げられ、挙げ句の果てに同じく婚約候補者であったクラシウス男爵の令嬢であるアレッサ嬢の企みによって冤罪をかけられ、隣国を治める『化物公爵』の婚約者として輿入という名目の国外追放を受けてしまう。
人間以外の種族で溢れた隣国ベルフェナールにいるとされる化物公爵ことラヴェルト公爵の兄弟はその恐ろしい容姿から他国からも黒い噂が絶えず、ガルシア姉妹は怯えながらも覚悟を決めてベルフェナール国へと足を踏み入れるが……
「おはよう。よく眠れたかな」
「お前すごく可愛いな!!」
「花がよく似合うね」
「どうか今日も共に過ごしてほしい」
彼らは見た目に反し、誠実で純愛な兄弟だった。
一方追放を告げられたアミーレア王国では、ガルシア辺境伯令嬢との婚約解消を聞きつけた国王がロズワート王太子に対して右ストレートをかましていた。
※初ジャンルの小説なので不自然な点が多いかもしれませんがご了承ください
今さら遅いと言われる側になったのは、あなたです
有賀冬馬
恋愛
夜会で婚約破棄された私は、すべてを失った――はずだった。
けれど、人生は思いもよらない方向へ転がる。
助けた騎士は、王の右腕。
見下されてきた私の中にある価値を、彼だけが見抜いた。
王城で評価され、居場所を得ていく私。
その頃、私を捨てた元婚約者は、転落の一途をたどる。
「間違いだった」と言われても、もう心は揺れない。
選ばれるのを待つ時代は、終わった。
【完結】捨てられた悪役令嬢は大公殿下との新たな恋に夢を見る
花草青依
恋愛
卒業パーティで婚約破棄を言い渡されたエレノア。それから間もなく、アーサー大公から縁談の申込みが来たことを知る。新たな恋の始まりにエレノアは戸惑いを隠せないものの、少しずつ二人の距離は縮まって行く。 ■《夢見る乙女のメモリアルシリーズ》1作目 ■王道の恋愛物
あなたのことなんて、もうどうでもいいです
もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。
元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。
不実なあなたに感謝を
黒木メイ
恋愛
王太子妃であるベアトリーチェと踊るのは最初のダンスのみ。落ち人のアンナとは望まれるまま何度も踊るのに。王太子であるマルコが誰に好意を寄せているかははたから見れば一目瞭然だ。けれど、マルコが心から愛しているのはベアトリーチェだけだった。そのことに気づいていながらも受け入れられないベアトリーチェ。そんな時、マルコとアンナがとうとう一線を越えたことを知る。――――不実なあなたを恨んだ回数は数知れず。けれど、今では感謝すらしている。愚かなあなたのおかげで『幸せ』を取り戻すことができたのだから。
※異世界転移をしている登場人物がいますが主人公ではないためタグを外しています。
※曖昧設定。
※一旦完結。
※性描写は匂わせ程度。
※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載予定。
【完結】✴︎私と結婚しない王太子(あなた)に存在価値はありませんのよ?
綾雅(りょうが)要らない悪役令嬢
恋愛
「エステファニア・サラ・メレンデス――お前との婚約を破棄する」
婚約者であるクラウディオ王太子に、王妃の生誕祝いの夜会で言い渡された私。愛しているわけでもない男に婚約破棄され、断罪されるが……残念ですけど、私と結婚しない王太子殿下に価値はありませんのよ? 何を勘違いしたのか、淫らな恰好の女を伴った元婚約者の暴挙は彼自身へ跳ね返った。
ざまぁ要素あり。溺愛される主人公が無事婚約破棄を乗り越えて幸せを掴むお話。
表紙イラスト:リルドア様(https://coconala.com/users/791723)
【完結】本編63話+外伝11話、2021/01/19
【複数掲載】アルファポリス、小説家になろう、エブリスタ、カクヨム、ノベルアップ+
2021/12 異世界恋愛小説コンテスト 一次審査通過
2021/08/16、「HJ小説大賞2021前期『小説家になろう』部門」一次選考通過
【完結】前代未聞の婚約破棄~なぜあなたが言うの?~【長編】
暖夢 由
恋愛
「サリー・ナシェルカ伯爵令嬢、あなたの婚約は破棄いたします!」
高らかに宣言された婚約破棄の言葉。
ドルマン侯爵主催のガーデンパーティーの庭にその声は響き渡った。
でもその婚約破棄、どうしてあなたが言うのですか?
*********
以前投稿した小説を長編版にリメイクして投稿しております。
内容も少し変わっておりますので、お楽し頂ければ嬉しいです。
捨てられた令嬢と、選ばれなかった未来
鍛高譚
恋愛
「君とは釣り合わない。だから、僕は王女殿下を選ぶ」
婚約者アルバート・ロンズデールに冷たく告げられた瞬間、エミリア・ウィンスレットの人生は暗転した。
王都一の名門公爵令嬢として慎ましくも誠実に彼を支えてきたというのに、待っていたのは無慈悲な婚約破棄――しかも相手は王女クラリッサ。
アルバートと王女の華やかな婚約発表の裏で、エミリアは社交界から冷遇され、"捨てられた哀れな令嬢"と嘲笑される日々が始まる。
だが、彼女は決して屈しない。
「ならば、貴方たちが後悔するような未来を作るわ」
そう決意したエミリアは、ある人物から手を差し伸べられる。
――それは、冷静沈着にして王国の正統な後継者、皇太子アレクシス・フォルベルト。
彼は告げる。「私と共に来い。……君の聡明さと誇りが、この国には必要だ」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる