『選ばれなかった孤児は、同じ時間を生きることを選んだ』

鷹 綾

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第15話 婚約という名の役割

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第15話 婚約という名の役割

 その日は、朝の空気から違っていた。
 屋敷全体が、どこか浮き足立っている。

 使用人たちの足取りが早い。
 廊下で交わされる声が、妙に低く、短い。

(……来たな)

 ウェイフは、紅茶の香りを鼻先で感じながら、静かに確信していた。
 理由は分からない。
 けれど、前世の記憶が告げている。

 これは、節目だ。

 朝の礼儀教育は、いつもより厳しかった。

「姿勢が甘い」

「呼吸が浅い」

「目線が安定していません」

 一つ直すと、次が来る。
 終わりが見えない。

(……試されている)

 ウェイフは、歯を食いしばらず、淡々と修正を重ねた。
 感情を見せない。
 疲労も、苛立ちも。

 教育係は、最後に一言だけ告げた。

「今日は、午後の予定を空けておきなさい」

 理由は、言わない。

 昼食は、部屋で一人。
 運ばれてきた料理は、いつもより豪華だった。

(……分かりやすい)

 胃が重くなる。

 午後、呼ばれたのは応接の間だった。
 男爵と男爵夫人、そして――実の娘が揃っている。

 娘は、椅子に腰掛けながら、楽しそうに微笑んでいた。

「来たわね」

 その声には、隠す気のない優越が滲んでいる。

「座りなさい」

 男爵が、恩着せがましく顎をしゃくる。

 ウェイフは、言われた通りに座った。
 背筋を伸ばし、手は膝の上。

「お前を、ここへ迎えた理由を、そろそろ教えておこう」

 男爵の声は、落ち着いている。

「……はい」

「公爵家との縁談だ」

 その一言で、空気が固まった。

(……やっぱり)

 予想通り。
 それでも、胸の奥が冷える。

「アバルト・ハウザー公爵」

 名前が出た瞬間、娘がくすりと笑った。

「知ってる?
 三百年も生きてる化け物ですって」

 嘲るような声音。

「……まあ、噂は噂だ」

 男爵は軽く手を振る。

「だが、公爵家は公爵家。
 懇意にしておけば、我が家の立場も安泰だ」

 男爵夫人が、扇子越しにウェイフを見る。

「だから、あなたが行くのよ」

 淡々と。
 当然のように。

「……私が、ですか」

「当然でしょう?」

 娘が、待ってましたとばかりに口を挟む。

「私が、あんな化け物のところへ行くわけないじゃない」

 言葉は、遠慮がない。

「あなたは孤児。
 失うものも、後ろ盾もない」

 はっきりとした線引き。

「その代わり――」

 男爵が続ける。

「衣食住は保証してやる。
 孤児として生きるより、よほど良い人生だ」

(……取引)

 ウェイフは、理解した。

 これは、慈善でも、縁談でもない。
 交換条件だ。

 沈黙が落ちる。

 男爵は、返事を待っている。
 娘は、答えが分かりきっている顔で笑っている。

(……拒否権は、ない)

 前世の感覚が、冷静に告げる。

 ここで拒めば、どうなるか。
 孤児院へ戻される?
 それとも、もっと悪い形で切り捨てられる?

(……選ばされた)

 ウェイフは、ゆっくりと口を開いた。

「……承知しました」

 その声は、静かで、揺れがない。

 娘が、満足そうに笑った。

「よかった。
 これで、役に立つわね」

 男爵は、大きく頷く。

「よし。
 これからは、婚約者としての教育を追加する」

 ――その瞬間。

 空気が、変わった。

 今までの礼儀は、基礎だった。
 ここからは、“商品”としての仕上げだ。

 部屋を出たあと、ウェイフは長い廊下を一人で歩いた。
 足音が、やけに大きく響く。

(……婚約)

 その言葉を、心の中で転がす。

(……介護要員、かしら)

 思わず、内心で苦笑した。

 三百年生きた化け物。
 噂だけが膨らんだ存在。

(……でも)

 前世の記憶が、ふと囁く。

(……こういう話ほど、裏がある)

 部屋に戻り、椅子に腰を下ろす。

「……孤児のほうが、自由でよかった」

 小さく呟いてから、首を振る。

(……今は、役割を演じる)

 従順な養女。
 物分かりのいい婚約者。

 その仮面の裏で――
 情報を集める。

 公爵とは何者か。
 本当に化け物なのか。
 この婚約は、誰のためのものか。

 ウェイフは、静かに目を閉じた。

 選ばされた役割なら、
 使い切ってやる。

 それが、生き残るための、
 彼女なりの答えだった。
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