『選ばれなかった孤児は、同じ時間を生きることを選んだ』

鷹 綾

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第25話 噂の綻び

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第25話 噂の綻び

 施療院への訪問から数日が過ぎた。
 公爵邸の中は、表向き何も変わらない。だが、空気の流れは確実に違っていた。

 朝の報告に並ぶ文面が、わずかに変化している。
 否定的な言い回しが減り、代わりに「様子見」「判断がつかない」といった曖昧な言葉が増えた。

(……噂が、揺れている)

 ウェイフは、書庫の机で帳面を閉じた。
 施療院で見せた姿は、誇れるものではない。
 ただ、自然で、無理のない振る舞いだった。

 それだけで、噂は思った以上に脆かった。

「来ているな」

 影武者の老人が、窓際で言った。

「何が、ですか」

「探りだ。
 否定できなくなった連中は、裏を取りに来る」

 その言葉通り、昼前に来客があった。
 名目は、遠縁の貴族からの挨拶。
 だが、視線の動きが目的を語っている。

「婚約者様に、ぜひ一言ご挨拶を」

 丁寧だが、距離を測るような声。

 ウェイフは、静かに応じた。

「どうぞ」

 応接の間で交わされる会話は、当たり障りのないものだった。
 だが、質問の端々に、噂の影が見える。

「……お育ちは、どちらで?」

「孤児院です」

 隠さない。
 飾らない。

 相手は、一瞬だけ言葉に詰まった。

「それでも、こうして……」

「今があります」

 短い答え。
 それ以上、付け加えない。

 相手は、探る材料を失ったように口を閉じた。

 来客が去ったあと、影武者の老人が小さく笑う。

「隠さない、というのは強いな」

「隠すほど、立派な過去でもありません」

 ウェイフは、静かに言った。

「でも、否定する理由もない」

 それが、噂にとって最も厄介だった。

 午後、アバルトが戻ってきた。
 珍しく、表情にわずかな疲れが見える。

「……外が、騒がしい」

「はい。
 でも、以前とは違います」

 ウェイフは、報告書を差し出す。

「“弱い”“哀れ”という言葉が減っています」

「代わりに?」

「“分からない”“予想外”が増えました」

 アバルトは、目を細めた。

「十分だ」

 それは、勝利宣言ではない。
 だが、確かな手応え。

「次は、どう動きますか」

 ウェイフが尋ねる。

「動かない」

 即答だった。

「噂が綻び始めたとき、
 こちらが動くと、また物語を与えてしまう」

 なるほど、と頷く。

「彼らに、勝手に迷わせる」

 それは、残酷なほど冷静な戦術だった。

 夕方、庭を歩いていると、使用人の一人が声をかけてきた。

「ウェイフ様……」

 どこか、緊張している。

「町で……男爵家の娘が、噂を流していると」

 その名を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに冷える。
 だが、驚きはない。

(……当然、来る)

「内容は?」

「“孤児が公爵家を利用している”
 “白い結婚は、愛されていない証拠”……」

 聞き慣れた言葉だ。

「ありがとうございます」

 ウェイフは、淡々と礼を言った。

 夜、アバルトに報告すると、彼は一瞬だけ考え込んだ。

「……放っておく」

 同じ答え。

「ですが」

 ウェイフは、言葉を選ぶ。

「今回は、特定の人物が動いています」

「分かっている」

 アバルトは、静かに続ける。

「だからこそ、今は動かない」

 視線が、彼女に向けられる。

「君は、どうしたい」

 選択を、委ねてくる。

 ウェイフは、少し考えた。

「……私は」

 言葉を探す。

「何かを“証明”したいわけではありません」

 静かな声。

「ただ、
 嘘で作られた物語に、
 私の人生を使われたくない」

 アバルトは、深く頷いた。

「それでいい」

 夜更け、ウェイフは窓辺に立った。
 月が、雲の合間から覗く。

(……噂の綻び)

 それは、外から力を加えたからではない。
 噓が、重さに耐えきれなくなっただけ。

 孤児だったことも、
 白い結婚も、
 今の立場も。

 すべてが、事実としてそこにある。

 だからこそ、
 噂は、崩れ始めている。

 ウェイフは、静かに目を閉じた。
 次に来る波を、
 逃げずに受け止める覚悟を、胸に抱きながら。
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