婚約破棄? では、その誠実さはどちらに置いていらしたのですか?

鷹 綾

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第十一話 回らない政務

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第十一話 回らない政務

 セリシアが公爵邸を去って三日。

 王宮の執務室では、朝から怒号が響いていた。

「この数字は何だ!」

 机を叩いたのは、レオンハルト・ヴァルディア。

 王太子の顔には、隠しきれない苛立ちが浮かんでいる。

「北港の収益が……先月より大幅に減少しております」

 側近が冷や汗をかきながら報告する。

「減少? そんなはずはない。先日、私が交渉をまとめたばかりだ」

「は、はい。ですが、ルヴァリエ商会からの出荷が止まっておりまして……」

 ぴたり、と空気が止まる。

「止まっている?」

「優先契約の再確認が必要との通達が……」

 レオンハルトの眉間に皺が寄る。

「再確認だと? 何を確認する必要がある」

「……婚約破棄に伴う契約の再整理、と」

 その言葉に、王太子は舌打ちした。

「またあの女か」

 氷の令嬢。

 冷たい視線。

 淡々とした声。

 あの場での“清算”という言葉が、今さらのように胸に刺さる。

「殿下」

 別の側近が口を挟む。

「西の商会からも、条件見直しの申し出が来ております」

「なぜだ!」

「ルヴァリエ家が動いたようで……」

 椅子が軋む音を立てる。

 レオンハルトは立ち上がった。

「公爵家は、私の味方ではなかったのか」

 自分の功績。

 自分の判断。

 そう思っていた。

 だが、いま崩れ始めているのは、足元の数字。

「殿下」

 扉が開き、ミレイナが顔を覗かせた。

「お忙しいの?」

 柔らかな笑顔。

 だが、執務室の空気の重さに、わずかに戸惑う。

「少し立て込んでいる」

「まあ、大変」

 近づき、机の上の書類を覗き込む。

「……これ、難しそうね」

 正直な感想。

「理解できるか」

 苛立ち混じりの問い。

「ええと……数字がたくさん……」

 無邪気な笑み。

 レオンハルトは、ほんの一瞬、言葉を失った。

 以前なら、隣に立つのはセリシアだった。

 数字を即座に読み解き、問題点を指摘し、代替案を示す。

 だが、いまは違う。

「殿下、無理なさらないで」

 ミレイナが手を伸ばす。

「わたくしは、殿下が笑っていられるのが一番嬉しいの」

 その言葉は甘い。

 だが、問題は解決しない。

「……いまは、笑っている場合ではない」

 レオンハルトは書類を掴んだ。

「ルヴァリエ家の件はどうなっている」

「公爵は、返答を待つとのことです」

「返答?」

「清算内容の提示を待っていると」

 机に拳が落ちる。

「あの女……」

 だが、その怒りの奥に、微かな不安が芽生えている。

 契約は、ただの形式ではない。

 王宮の運営費の一部。

 港の利権。

 領地再編の優遇措置。

 すべてが絡み合っている。

 それを理解していたのは、誰か。

「殿下?」

 ミレイナが首を傾げる。

「何か、お手伝いできることは?」

「……」

 言葉が出ない。

 手伝えることが、ないと分かっているから。

「今日は休んでいろ」

 短く言う。

「え?」

「舞踏会続きで疲れているだろう」

「でも――」

「下がれ」

 声が強くなる。

 ミレイナは一瞬だけ傷ついた顔をしたが、すぐに微笑みを作った。

「分かったわ。無理しないでね」

 扉が閉まる。

 静寂。

 レオンハルトは椅子に崩れ落ちた。

 政務が回らない。

 小さなほころびが、次々と表面化する。

 外交の約束。

 商会との利率。

 税の調整。

 すべてが、微妙な均衡の上にあった。

 その均衡を保っていたのは。

「……セリシア」

 無意識に名が漏れる。

 すぐに顔をしかめる。

 愛を選んだのだ。

 後悔はしない。

 だが。

 数字は嘘をつかない。

 そして、その数字がいま、静かに崩れ始めている。

 窓の外、王都の街はいつもどおりに動いている。

 だが、見えない場所で、歯車が噛み合わなくなっていた。

 王太子の机の上で、未処理の書類が積み上がる。

 それは、始まりに過ぎなかった。
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