婚約破棄? では、その誠実さはどちらに置いていらしたのですか?

鷹 綾

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第十六話 戻れない選択

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第十六話 戻れない選択

 王宮の執務室は、夕刻になっても灯りが消えなかった。

 机の上には、未処理の書類と赤い修正印が並ぶ。

 レオンハルトは、何枚目か分からない報告書を乱暴に閉じた。

「……足りない」

 短い呟き。

 王庫からの補填案は出た。

 だが、それは応急処置に過ぎない。

 優遇措置が消えた穴は、想像以上に深い。

「殿下」

 側近が一歩進み出る。

「公爵家との再協議を正式に打診するのはいかがでしょう」

「頭を下げろと?」

 鋭い視線。

「契約上は、対等でございます」

「……」

 沈黙が落ちる。

 対等。

 それはつまり、王太子という立場だけでは押し切れないという意味だ。

「条件は」

「現状維持では難しいかと」

「追加の対価か」

 レオンハルトは奥歯を噛み締めた。

 婚約破棄は、愛の選択だった。

 だが、現実は冷酷だ。

 契約は感情を見ない。

 そこへ、ミレイナが控えめに入ってきた。

「お話中?」

「構わない」

 彼女は机の上の書類をちらりと見る。

「まだ、港のこと?」

「ああ」

「……公爵様は、なんと?」

「清算の提示を待つと」

 その言葉に、ミレイナの胸がひやりとする。

 清算。

 あの夜の言葉。

 冷たい声。

 静かな視線。

「殿下」

 彼女は意を決して言った。

「わたくし、公爵様にお会いしてみましょうか」

「何を言っている」

「謝罪を」

 小さな声。

「婚約破棄で、ご迷惑をおかけしたと」

 側近が息を呑む。

 レオンハルトの表情が硬くなる。

「必要ない」

「でも――」

「これは政務だ」

 強い口調。

「私の責任だ」

 その言葉は正しい。

 だが、どこか空虚だ。

 ミレイナは俯いた。

「わたくしのせいではない、とおっしゃるのね」

「そうではない」

「でも、わたくしがいなければ」

 言葉が途切れる。

 沈黙。

 レオンハルトは立ち上がった。

「選んだのは私だ」

「……」

「後悔はしない」

 言い切る。

 だが、その拳は白くなるほど握られている。

 夜。

 王宮の回廊を、側近が急ぎ足で進む。

 新たな報告が届いたのだ。

「殿下、至急」

「何だ」

「北港の使用料引き上げにより、小規模商会が撤退を始めております」

「撤退?」

「利益が出ないとの判断です」

 連鎖。

 ひとつ動けば、またひとつ。

 歯車は止まらない。

「対策は」

「短期補助金案がございますが、財源が」

「王庫から出せ」

「限界がございます」

 限界。

 その言葉が重く落ちる。

 窓の外、王都の灯りはいつもと変わらない。

 だが、見えない場所で流れが変わっている。

 レオンハルトは窓辺に立つ。

「……戻せるか」

 誰にともなく呟く。

 婚約を。

 優遇措置を。

 均衡を。

 だが、戻らない。

 契約は一度解かれた。

 信用も。

 ミレイナは、自室で一人座っていた。

 ドレスの裾を握りしめる。

「わたくしは、選ばれたのに」

 なのに、笑顔だけでは足りない。

 氷の令嬢は、泣かなかった。

 追い出されても、叫ばなかった。

 ただ、清算と言った。

 その意味が、いま少しずつ形を持ち始めている。

 王宮の中心で。

 王太子とその隣に立つ少女は、静かに追い詰められていた。

 選択は、もう戻らない。

 そして清算は、まだ終わっていない。
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