婚約破棄? では、その誠実さはどちらに置いていらしたのですか?

鷹 綾

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第十九話 提示された清算書

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第十九話 提示された清算書

 王宮の応接間。

 重厚な扉が閉まり、空気が張り詰める。

 長い楕円卓の向こうに座るのは、アルドリック・ルヴァリエ公爵。

 その表情は穏やかで、怒りも嘲りも見えない。

 ただ、静かだ。

 対面に、レオンハルト・ヴァルディア王太子。

 側近と財務官が控える。

「本日はお時間をいただき、感謝いたします」

 公爵が淡々と口を開く。

「本題に入りましょう」

 机の上に、分厚い書類が置かれる。

「こちらが、清算書でございます」

 財務官が息を呑む。

 表紙をめくる。

 そこに並ぶのは、冷徹な数字。

 北港優遇措置解除に伴う差額。

 契約解消違約条項。

 信用失墜による損害補填。

 今後の再契約に必要な保証金。

 どれも条文に基づく、正当な請求。

「……この額は」

 レオンハルトの声が低くなる。

「契約通りでございます」

 公爵は一切揺れない。

「婚約を前提とした優遇措置は消滅。よって、差額精算は当然」

「違約条項まで含めるのか」

「婚約破棄は一方的でございました」

 その一言が重い。

 舞踏会での宣言。

 あの場の空気。

 レオンハルトの喉が動く。

「公爵家は、敵対を望むのか」

「望みません」

 即答。

「我々は契約を守るだけです」

 怒りではない。

 復讐でもない。

 ただの“処理”。

 それが一番、逃げ場をなくす。

 財務官が小声で告げる。

「殿下……支払いは可能ですが、王庫は半年以上逼迫いたします」

「分かっている」

 歯を食いしばる。

「支払う」

 その言葉が落ちた瞬間、空気が変わる。

「ありがとうございます」

 公爵は軽く頷いた。

「再契約の件ですが」

「まだ続きがあるのか」

「優遇措置を再開するには、新たな保証が必要でございます」

「保証?」

「信用です」

 静かな言葉。

「婚約という形は消えました。ゆえに、別の形で」

「具体的には」

「王家による長期固定契約。ならびに公爵家への関税優遇」

 条件は重い。

 だが、拒めば港は回らない。

 レオンハルトは、しばし沈黙した。

 ここで断れば、王庫はさらに削られ、商会は離れる。

 受ければ、王家の譲歩が公になる。

「……受ける」

 低い声。

 それは敗北宣言ではない。

 だが、優位は完全に失われた。

「正式文書は後日」

「承知いたしました」

 公爵は立ち上がる。

「殿下」

「何だ」

「我が家は、感情では動きません」

 その一言だけを残し、去っていった。

 応接間に沈黙が落ちる。

「……感情ではない、か」

 レオンハルトは呟く。

 婚約破棄は、感情で選んだ。

 だが、国は感情で動かない。

 夜。

 ミレイナは結果を聞き、唇を噛んだ。

「払うのね」

「ああ」

「それで終わるの?」

「少なくとも、港は回る」

 だが、心の奥に残る違和感は消えない。

 支払うことで終わるのは、金の問題だけ。

 信用は戻らない。

 社交界では、すでに噂が広がっていた。

「王太子が折れたらしい」

「公爵家は強いわね」

「氷の令嬢の家ですもの」

 その名は出ない。

 だが、誰もが知っている。

 四面楚歌に見えたのは、誰だったのか。

 王宮の窓から見える王都の灯り。

 港の船は、やがて戻るだろう。

 だが、失われたものは戻らない。

 清算は金で終わった。

 だが、本当の清算は、これから始まる。
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