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【第一部】香月からの距離
10.わすれられない距離(暁視点)
ドアが閉まる音は、思っていたより小さかった。
香月が帰ったあと、俺はしばらく動けずにいた。
玄関に背を向けたまま、ただ立っている。
心臓の打ち方が、少しおかしい。早いわけでも、乱れているわけでもない。一定のリズムで、重く打ち続けている。
拒否した。
自分で決めて、自分の口で言った。
それなのに、胸の奥がじんと痛む。
キッチンに戻って、さっき淹れたコーヒーを一口飲む。完全に冷めていた。
香月が来る前から、分かっていた。
今日は、そういう日になると。
連絡が来たとき、胸が跳ねた。「少しなら」と返したのは、本音でもあり、抑制でもあった。
会えば、嬉しい。
それは、今も変わらない。
でも、香月の言葉は、やっぱり曖昧だった。
前みたいに。
その一言で、全部思い出してしまう。期待して、期待しないふりをして、何も言われないまま隣にいて、勝手に満たされて、勝手に苦しくなる。
あの時間は、確かに幸せだった。
同時に、ずっと不安定だった。
だから、今日は線を引いた。
嫌いになったわけじゃない。
むしろ逆だ。
好きだから、近づけなかった。
ソファに腰を下ろすと、急に身体が重くなる。
香月が座っていた場所が、まだ少しだけ温かい気がした。
思わず、そこに触れそうになって、手を止める。
また始まる。
そう思った。
「期待しないって決めても、無理になる」
あの言葉は、香月に向けたものでもあるけれど、自分への警告でもあった。
スマホが震える。
一瞬、香月かと思って画面を見る。
違った。
ため息をついて、伏せる。
連絡が来なくて、ほっとしている自分がいる。
同時に、来なかったことに落胆している自分もいる。
その両方が、嫌だった。
シャワーを浴びて、ベッドに入る。
電気を消しても、眠気は来ない。
天井を見つめながら、考える。
もし、あのまま「いいよ」と言っていたら。
また、香月の生活の隙間に滑り込んでいただけだ。
彼女がいる場所には入れない。でも、完全に切られるわけでもない。
その中途半端な位置が、一番苦しい。だから、今日は拒否した。
正しいかどうかは、分からない。
ただ、これ以上、自分を消耗させたくなかった。
布団の中で、小さく息を吐く。
香月が悪いわけじゃない。
俺が、弱いだけだ。
それでも、願ってしまう。
次に会うときは、曖昧な場所じゃなくて、ちゃんと「選ばれる側」でありたい、と。
そんなことを思ってしまうから、まだ、終わっていないのだと分かる。
目を閉じる。
この距離なら、壊れない。
そう言い聞かせながら。
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