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【第一部】香月からの距離
11.はなれていく距離
ひと月経っても、暁から連絡は来なかった。
それ自体は、不思議なことじゃない。最後に会ったとき、距離を置くと言われたのだから。
それでもオレは、一日に何度もスマホを確認していた。
通知がないことを、確かめるために。
仕事は相変わらず忙しい。
彼女との関係も、壊れてはいない。
それなのに、どこにも集中できなかった。
そんな状態のまま迎えた今日は、暁の勤め先との合同会議だった。
暁に会えるかもしれない、という事実に胸が小さく跳ねる。
少し早く着いてしまったので、無意識のまま暁の部署へ足を向けた。
「……体調不良?」
暁の同僚が口にしたその四文字が、心臓を冷たく撫でた。
みんなパソコンにかじりついているなか、暁の椅子だけがぽっかりと空いている。主のいないその場所には、規則正しく並んだ書類と、使い込まれたペン立てがあるだけだ。
ふらりと席に近づくと、微かな空気の揺らぎが鼻腔を突いた。
彼女が選んだあの甘ったるい香水ではない。
暁がずっと大切にしていて、オレにだけ許してくれていた、清潔で、少しだけ苦い、剥き出しの肌のような匂い。
(……なんで、ここにだけ残ってるんだよ)
執着が、指先を震わせる。
俺は誰も見ていないことを確認し、暁のデスクの縁を、折れんばかりの力で握りしめた。
冷たいアルミの感触が、そこに暁がいないという事実を突きつけてくる。
身体の芯が、引き裂かれるように冷えた。
その後の会議の内容なんて、一文字も頭に入らなかった。
暁が苦しんでいるかもしれない。
その考えが、頭から離れない。
拒否された夜のことを思い出す。
落ち着いた声。整理された言葉。
あれは、余裕なんかじゃなかったのかもしれない。
もし、暁が苦しんでいる理由のひとつが、オレだったら……?
会議後、しばらく席を立てなかった。
連絡する理由を、頭の中で何度も組み立てては壊す。
心配だから。
仕事で関わるから。
暁の同僚から聞いたから。
どれも、今の距離では正解にならなかった。
別の会社。別の生活圏。
オレが踏み込める理由は、もう残っていなかった。
結局、スマホはポケットにしまったまま、帰路についた。
ショーウィンドウに映る自分の顔は、はっきりと疲れている。
そこに、一瞬だけ暁の顔が重なった。
気づいていなかった。
いや、正確には、気づかないふりをしていた。
暁は、ずっと無理をしていた。
……オレはアイツを支えているつもりで、実際は寄りかかっていただけだった。
家に帰っても、落ち着かなかった。
テレビをつけて、すぐに消す。
彼女からメッセージが来ても、内容が頭に入らない。
ソファに座り込み、両手で顔を覆った。
もし、あのまま戻っていたら。
拒否されなかったら。
そんな仮定が、次々浮かぶ。
でも、本当に怖かったのは、別のことだった。
このまま、完全に関わらなくなっていったら。
暁が苦しんでいることに、オレは一切気づけず、
ただ静かに、疎遠になっていく。
それが、胸を締めつけた。
スマホを手に取る。
今度は、迷わなかった。
『大丈夫か』
短い文。
言い訳もしない。
送信して、深く息を吐く。
返事は、すぐには来なかった。
待つ時間が、やけに長い。
ようやく画面が光る。
『平気』
『ちょっと休めって言われただけ』
平気な人間は、仕事を休まない。
そう思いながらも、その言葉を否定する資格がない自分がいる。
無理するな
そう打って、指が止まった。
それを言う立場なのか。
それを言える距離なのか。
結局、送ったのは、これだった。
『何かあったら言って』
少し間を置いて、返信が来る。
『ありがとう』
それだけ。
たった一言なのに、胸の奥がじんわり熱くなる。
その夜、ほとんど眠れなかった。
暁のことを考えていたわけじゃない。
考えないようにしていただけだ。
それでも、気づいてしまった。
オレにとって暁は、いなくなってから大事さが分かる存在じゃない。
壊れそうになって、初めて、失う怖さを突きつけてくる存在だった。
その事実が、次の一歩を、否応なくオレに迫っていた。
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