詩片の灯影③ 〜言葉を音に乗せて〜

桜のはなびら

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人情

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 親の代から地元の不動産屋として続いていた『有限会社加地商事ゆうげんがいしゃかじしょうじ』という何の飾りも個性も付与されていない屋号の不動産屋を継いだ加地知治かじともはるは、中規模の不動産会社で数年修業した経験を持つ以外は特別な背景はなく、剛腕さも辣腕さもカリスマ性も類稀な才覚も個性もなかったが、ただひたすらにコツコツと、父の代から続く人脈を大事にし、地域に根を下ろし、誰でもできることを誰よりも丁寧にやってきた。

 加地は数十年にわたり、小さな不動産屋を小さなまま、護ってきた。
 数十年の間で事業が大きくなることは無かったが、その間に経済界や不動産業界で起こったありとあらゆる激動を、小さいまま乗りこなしてきた隠れた実力者だった。


 小さな不動産屋の加地社長は、社員をちゃん付けで呼んだり女性社員を女の子と呼んだり、三十代後半になっても一切結婚をしようとしない紗杜に良い人はいないのかと尋ねたりと、時流にまるで乗れていなかったが、経営者ならではの抜け目なさはあるものの根っからの人の好さを、紗杜や社員たちは好ましく捉えていて、社長の在り方を好意的に受け入れていた。

 求人広告では言葉だけで存在している「アットホームな職場」というものが、『有限会社加地商事』には実存していた。

 特に紗杜は、社長には父親に対して抱く気持ちに近しい感情があり、社長もまた紗杜を含めた従業員の面倒をよく見ていた。
 

 紗杜は情が深い。
 家族友人はもちろんのこと、地域にも、会社にも、社長にも、同僚にも、商店街にも、顧客にも、物件オーナーにも。
 かかわった対象へは、時におせっかいと呼べるほどの手間をかけようとする性質があった。

 それは、彼女が所属しているサークル内でも発揮されていて、いつの頃からか当たり前のように新人担当の役割を請け負っていたし、サークル内の子どもや学生や未成年者へは、ついつい構いたくなったり、何かを食べさせてあげたくなってしまっていた。

 紗杜もまた、今の社会の時流には乗れていない、人情を良しとする古いタイプの人間なのだろうと言う自覚を持っていた。
 人情が悪いわけではない。
 人情の押し付けや、己の価値観によって判断した「善かれと思うこと」が、必ずしも相手にとって良いこととは限らないことがある。
 どれだけ善意があろうが、相手のためになっていない独りよがりな人情は、相手が迷惑だと思った瞬間、嫌がらせという名の迷惑行為に堕ちてしまう。

 そういうことが起こり得るのだと、紗杜は充分に自覚し注意し、客観性を持ち相手の心情を汲んだ上で、出されたゴーサインに従ってお節介を焼いている。

 幸いなことに、今のところ紗杜を本気で嫌う人や、紗杜のお節介を厭うている人は居なかった。


 
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