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第二話 神様二人と同居生活開始

3.

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満月が輝く、静かで美しい夜だった。
舟を浮かべられるほどの広い池に、その金色の光が水面に揺れる。

この先の山に住まわす、神様御二方。
昼間見たその光景が頭に焼きついて離れず、寝つけそうもない。
それで、今日からお世話になることになったこの屋敷の、庭園を散策していた。 

見事に整えられた、花や木々。
橋を渡り、池泉に浮かぶ中島で一旦足を止めて、寝殿と庭の奥をぐるりと見渡す。
これほど素晴らしい庭園は初めてだ。
夜ですらこのように美しいのだから、昼間に寝殿から見る景色は、さぞや綺麗なのであろう。
あの手入れの行き届いた神社を思えば、そこの宮司様のお屋敷だもの、このような庭が造られていることも不思議ではないか…。
そのようなことを考えながら、再び歩き出した。
ゆっくりとした歩調で、美しさを存分に味わいながら庭の奥へと進む。
小さな滝の前を過ぎたところで、道の脇に木でできた小さな階段を見つけた。
あれは、どこへ繋がる階段なのだろう…。
道順からは逸れるが、興味の方が勝って、その階段を登った。

木々の隙間をを通り抜けると、視界が開ける。
その先には、一本の立派な桜の木が立っていた。
「…わぁ……」
思わず漏れ出る感嘆の声。
満開の桜の花が、満月の明るい光に照らされて、白く浮かび上がる。
ひらひらと舞い落ちてくる花びらは銀色に輝いて見え、まるでここだけは別世界かのよう。
あまりもの美しさに見惚れていると、ザッと強い風が吹きつけた。
「きゃ……」
驚いて、思わず目を閉じる。
風がおさまるのを待って、ゆっくりと目を開くと、視線の先、桜の木の下に、漆黒の羽を携えた男の人と、月光に反射して美しい漣をうつ銀髪の男の人が佇んでいた。

…あれは———。

昼間見た、あの水浴びの光景を一瞬思い出して、心を奪われる。
視線が合ってしまった事にはっとして、すぐさま頭を下げた。
またも直視してしまうなんて。
私はなんという無礼者なのだろう…。

「…やはり、お前には見えているのだな」
「あ…、大変なご無礼を…」
「よい」
頭を下げたまま謝ろうとすると、穏やかな声で制された。
「謝る必要などない。顔を上げて、こちらを見よ」
神様が仰っているのだからと、顔は上げたものの、本当に私なんぞが見てよいものなのか判断がつかず、視線を上げられない。
「見てもよいのだぞ」
心の内を読まれたように、もう一度そう言われた。
それでもなお躊躇っていると、ふわりと暖かい風が頬を撫でる。
気がつくと、御二方が私を見て優しい表情で微笑んでいるのが分かった。

…今の風は……?
きっとそのせいで、視線を上げてしまったのだ。
穏やかな夜なのに、突然強い風が吹いたり、暖かく心地よい風が吹いたりするのは何故だろう。

「ふふ。彼は風が操れるのだ」
銀髪の男の人がもう1人をちらりと見てから、私の心の声に答えをくれた。
「貴方様は心が読めるのですか…?」
思わず、尋ねてしまう。
「いいや。其方の表情が分かりやすくてな。我は宇迦之御魂と申す。其方の名は何と申す?」
「やはり、お稲荷様でいらしたのですね…。私は千夜と申します」
「千夜、か。良い名だな」
「俺は修行中の天狗だ。千夜、よろしくな」
「天狗様…」
「この縁に、千夜にひとつ、よいものを見せてやろう」
天狗様がそう仰って、私がまばたきをひとつするうちに、目の前にいらっしゃった御二方は私の両隣へと移動していた。
驚いて、御二方の顔を交互に見てしまう。
どちらとも、私に優しく微笑み、目の前を見るよう目配せされた。

先程と同じような、ふわっと軽い風が吹いて、目の前の桜から、花びらが舞い上がる。
月夜に輝く白銀のそれは、宙を舞ってまるで雪のように私たちの上に降りそそぐ。
風が色づき、桜色の紗のようなものに優しく包まれる感覚がした。
春の夜はまだまだ冷えるはずなのに、此処は温かく、そして美しく、見たこともない幻想の世界。
「…綺麗」
思わず、そう呟いていた。
「それは良かった」
天狗様の嬉しそうな声が隣から聞こえる。
本当は、答えてくれた天狗様の方を向いて話を聞くべきだと思うのだけれど、どうしても、この目の前に広がる美しい光景から目を離すことができなかった。


「…千夜!大丈夫か?」
「あ……、うん」
彗の焦ったような声に、ハッとして返事をする。
気づけば、私の目の前は彗の胸、がっしりと肩を抱かれていた。
「ひゃあ!!」
男の人に抱きしめられているっていう状況に驚いて、そこから逃れようとする私。
「あ、コラ。今、よろめいたばっかりだろ。落ち着くまでじっとしてろ」
「あああ!あのっ、それは大丈夫…。彗の手を握っていいかどうか悩んで、思考停止しただけだから」
「えっ?」
彗はそう聞き返すと、私の顔を見て、可笑しそうに声を出して笑った。
思考停止したこともだけど、今もこうやって彗の腕の中にいること、笑われていること、全部が恥ずかし過ぎて、火を吹くほどに顔が熱い。
「千夜は、今も純粋なままなんだな」
私の肩を抱いていた手が離れて、かわりにぽんぽんと頭を撫でられる。
「さ、今度こそ帰るぞ」
次は私に選択権はなく、彗が私の手をとって、そのまま歩き出した。

…男の人と、手を、繋いでる。
意識すればするほどに、心臓のドキドキが止まらない。

「千夜、動きがロボットみたいになってるぞ」
「えっ!?あっ、ごめ…ごめん……」
隣に並んで歩く彗の顔を見上げると、困ったような顔で笑われた。
ヤバイ。
手を繋ぐとか、そういう妄想は散々してきたのに!
本番ではまったくもって役に立たない!!
てゆーか、頭真っ白で、何を妄想してたかすら思い出せないよっ。
「…千夜は、弓の扱いもうまいんだな」
頭の中でゴチャゴチャ考えていると、彗の落ち着いた声がする。
弓って、部活のハナシ?
彗の声のトーンと話の内容で、さっきまでの緊張が一瞬で解けた。
「え…?」
「さっき、悪霊を射抜いただろ」
「え!?なっ、何で知ってるの?」
「見てたから」
「は?」
「正確に言うと、使いを出していたから、ソレの目を通して見た」
「余計に分かんない!」
なにその、神サマ用語みたいなやつ。
使いとか目を通して見たとか、どういうこと??
また別の意味で頭の中が混乱してしまう。

「俺の使いは、鴉だ。昨日のことが気になって、千夜に護衛をつける意味で飛ばしておいた。千夜に危険が迫ると、すぐに分かるようにしてある」
「カラス…。あ!そういえばカラスが飛んでるのは見た」
「それだ。あの悪霊はあまり強いモノではなかったから、鴉を通じて始末しようとしたら、千夜が矢で射ったから驚いたんだ」

…私が昨日、危険な目に遭ったこと、気にしてくれてたんだ。
今日も助けようとしてくれてたんだ。
それなのに、出て行って欲しいとか思っちゃって、ホントごめん!!
『出て行って欲しい』の部分をさすがに声に出しては言えないと判断して、心の中で謝る。

「あ、そのカラスのお陰で、私の学校とか帰る時刻とか分かったの?朝、そんな話しなかったから、迎えに来てくれると思ってなかった」
「いや、千夜の学校や習い事などはもともと全て把握しているよ」
「えっ!?なんで!??」
「…俺を誰だと思ってる」
ビックリして騒ぐ私に、彗は余裕の笑みを見せる。
…そうか。
「神サマ、だもんね」
「そーゆーコト」
ははっと笑う彗を見て、自分もつられて微笑んでいることに気がついた。
ドキドキいってた心臓は、落ち着いている。
そういえばさっき、彗の手を握る握らないで思考停止した時に、頭の中に流れてきた映像の中でも、私が困っている時にさりげなくフォローしてくれたのは彗だった。

「今日は少し、遠回りして帰ろう」
「うん、いいけど。どうして?」
彗に手を引っ張られて、いつもの家路とは違うルートに連れて行かれる。
「…千夜は、憶えていないだろうけど。俺たちと千夜が初めて出会ったのは、今のこの季節だったんだ」
そう話す彗の表情は、とても柔らかくて、昔を思い出して懐かしんでいるのが分かった。
昨日は、蓮と比べてあんまり笑わないし、硬派っぽいって思ったんだけど、違うなあ。
常にニコニコしているタイプじゃないけど、ちゃんと笑うし、優しい顔してることが多い。
そういえば、今朝見た夢の中でも、蓮と彗はすごい笑顔で楽しそうにしてたじゃない。
「あっ!今日の夢!!」
「また夢を見たのか?」
「うん、今日の夢はいつものやつじゃなくて、初めて彗と蓮に出会った時のものだった」
そう話す私の顔を見て、驚いている彗。
「2人が、川で水遊びしてて…」
「そうそう。アイツとふざけて遊んでたら、のぞき見してる娘がいてねえ」
「ちょっ…!」
「はははっ。あの時は擬体化してたわけじゃないし、まさか人間に見られるなんて思ってなくて、心底驚いたんだよ」
あの時の私も、神様を見るなんてと驚いてたな…。
「だけど、あの時の2人は、ものすごくキレイだった。昔の私も、2人のあまりの美しさに、動けないでいたよ」
多分、これから先も、あんなにキレイだと思える人は出てこないだろうな。
そう思えるくらい、今朝の夢の中の2人は、笑顔も纏っている空気も、すべてがキレイだった。

彗もあの時の事を思い出しているのかな。
あれから会話もなく、お互い黙ったまま歩いた。
しばらくすると、突然、彗が足を止めて私を見る。
「千夜、桜の木のことも憶えているか?」
「あ……」
もしかして、さっき思考停止したときに流れてきた映像…?
「よろけた時に、映像が頭の中に浮かんだ。庭の奥にある桜のこと…?」
「そう。あの時、見せてあげたものを千夜は気に入ってて、たまに話をしていたから。今日、見せてあげよう思ってね」
「ほんと!?」
嬉しくて、食い気味に返事をすると、彗はにっこりと笑った。
「…ここだ」
立ち止まったところから、手を引かれて2、3歩進んで曲がった角の先。
そこは、住宅街の中にある、小さな神社だった。
その建物の奥に桜の木が見える。
灯籠の小さな明かりはついているものの、奥の方はすごく暗そうだ。
「夜なのに、入っていいの?」
「ここはアイツの神社だからな。平気だよ」
彗に言われて入り口の石柱を見ると、"稲荷神社"と書かれている。
…そっか、蓮の神社なんだ。
夜の神社って怖いんだけど、彗が一緒だから大丈夫だよね。
繋いでいる手に、少しだけ力が入る。

桜の木なら家の近くの公園にもあるのにな、とか思っていたんだけど、この神社の桜の木の前まで来て、彗がどうしてここに連れてきてくれたのかが分かった。

大きくて立派な桜の木。
まわりの建物からの光はなく、満月に浮かび上がる夜桜がとても美しい。

———あの時と、同じだ。

そう思った瞬間。
ふわりと暖かい風が吹いて、満開の桜の花びらが舞い上がる。

頭の中で流れた映像と同じ。
それは月の光を受けて、雪のようにキラキラと輝きながら私の上に降ってくる。
オーロラのベールのような風に包まれて、自分も宙に浮いているような感覚に襲われた。
月が、桜が、風が。
こんなに美しいものだったなんて、ほんの今まで知らなかった。
目に見えるものだけではない、今いるこの空間そのものが、息を呑むほどに幻想的で美しい…。

そっか、こんなに綺麗な光景、公園の桜なんかじゃダメだ。
他の誰にも、見せたくないもの。

他の、誰にも……。
あの時も、そう思ったような、気がした。

「…すごい、綺麗だった……」
最後の花びらが地面に落ちたのを見届けて、私はようやく声を出した。
「再会の記念と、あと昨日祝ってやれなかったから、千夜への誕生日プレゼントも兼ねて」
「あ、ありがとうっ!」
「どういたしまして」
微笑む彗に少しだけドキドキする。
さっきのあの美しい光景を見せてもらったからなのか、初めて男の人にプレゼントっていうものをもらったからなのか。
すごくすごく幸せな気持ちで胸がいっぱい…。
「さあ、そろそろ帰ろう。遅くなるとアイツがうるさいしな」
彗にそう言われて、再び手をひかれて歩き出す。

しばらく黙ったまま歩いた。
さっきのあの桜のことを、幾度となく頭の中で思い出す。
記憶として見るよりも体感したことが、ものすごく不思議で、考えるほどに心が温かくなる。
「…ねえ、彗」
マンションのすぐそばまで来た時に、一緒に帰る道で初めて、私から話しかけた。
「どうした?」
「さっきの…ああいうキレイなもの」
「うん」
「お願いしたら、また見せてくれる…?」
自分でも、なぜそう訊ねたのか分からない。
無意識のうちに、そう口走っていた。
私の顔を見た彗は驚いた表情で一瞬固まって、すぐに笑顔になる。
「もちろん。千夜が望むのなら」
「嬉しい」
素直に、そう思って言葉にした。
「俺も嬉しいよ。千夜からそんな可愛い願い事をされるなんてな」

…そっか。
昔の私は、願い事は一切口にしなかったんだっけ。
だからなの?
あの無意識に出てきた言葉は。

昔の私は、本当は2人に甘えたかった———?


「あ、そうだ千夜」
ぐうううぅぅぅぅ……
彗に話しかけられたタイミングで、私のお腹の音が鳴る。
「ひゃっ!!」
「ぶはっ!」
自分のお腹の音に驚いて変な声が出る私と、思わず吹き出す彗。
シリアスな考え事してただけに、余計に恥ずかしい気持ちになる。
私ってば、なんでこうもカワイイ女子になりきれないんだろ!
「今日も元気がいいな」
「やっ、あの…、今日お昼が少なくて…っ」
言い訳をしている間、彗は堪えきれない笑いを漏らしていた。
「ちょうど、晩ご飯の話をしようとしてたんだ。その様子だと、もりもり食べられそうだな」
「モリモリって!」
一応、女子なのに、そんなこと言われるなんて恥ずかし過ぎる。
「今日の晩ご飯は期待していていいぞ」
「え?」
…期待?
作ってくれているってこと?
思わず彗の顔を見ると、目が合ってニヤリと笑われる。
「さあ、腹ペコで倒れる前に帰ろう!」
「あっ、ちょっと、待って…!」

突如、早足で歩き出す彗に引っ張られるようにして、マンションのエントランスに入った。
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