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  マンションにあるこの一階の住戸じゅうこは4LDKになっていて、上条家の子どもたちが兄弟七人だけで住んでいた。両親は夫婦水入らずで隣の住戸に住んでいる。

 彼らもはじめはここでいっしょに住んでいた。しかしふたりはいい歳をしていまだラブラブの新婚気分がぬけておらず、常に子どもと住んでいるといろいろと不都合があると云っていた。そんな彼らは五年前に隣が売り家になると、すぐにそれを購入して出ていってしまったのだ。

 それからできた妹が、年の離れた藍里と由那だ。
 もともと両親は共働きでほとんど家におらず、居たとしても幼児の面倒はみないし家事もしない。それならば別居は親の世話をしないですむぶん、育己としてはラクだった。それに教育上、両親には幼い子どものまえで盛られたくはない。

 そんなわけでいま、親のいないこの家の実質的な責任者は、上条家の長子である自分になっていた。

 育己は玄関に一番近い部屋までやってくるといちど足をとめた。ここがこの家で一番広い部屋で、大学二年の自分と高校三年の壱加、そして育己が面倒を見ている藍里が使っている。
 そうっとドアを開けると、案の定、拗ねているらしい壱加が敷いた布団にすっぽりもぐりこんでいた。

「いっちゃーん。ほら、よしよしよー」
 藍里がちいさな手でこんもりとした丸い布団をなでなでしている。その姿は愛らしくもあり、とても頼もしかった。彼女は熱心なあまり、育己が部屋に入ってきたことには気づいていない。育己はくすくすと声を殺して笑う。

「いっちゃーん。お元気だして? みんないっちゃんが大好きよ」
(ほんと、藍里かわいー、たまんない)
 壱加を口説きながら、布団をトントンとあやすように叩いたり、よいしょよいしょとひっぺがそうとしたりしているのだ。育己はふたりに忍びよった。

「いっちゃん? あっちゅんだっていっちゃんが大好きよ?」
「うるさいっ。藍里、あっちいけ」

 壱加のちょっと上擦っている声に、思わずにんまりとしてしまう。
(壱加もね。ほんと、かわいい)

「あっ、あっちゅん⁉」
 もうすこしで布団に手が届くというところまで来たのに、惜しくも藍里にバレてしまった。彼女がだした声で壱加が布団から身体を起こしたので、
「きゃっ」
 反動でちいさな身体がころんと転がった。

「育己……?」
「ただいま」
 うっすら目もとを赤くして見上げてくる壱加に笑いかける。

「お! いっちゃん出てきたっ! 元気になってよかったね」
 にっこり笑った藍里が壱加に触れようとすると、壱加はその手を振りはらった。
 
 いささか力が強すぎたようだ。大きくベチッ! と音が響くと、叩いた壱加のほうが「あっ」と、驚いて固まってしまった。手を引っこめた藍里のほうはというと、「藍里は大丈夫よー」と、手をぱたぱたさせている。

「ん。でも、藍里ちゃん、ちょっと手を見せて」
「はい、どうぞ」
 育己は幼い手をとった。
「藍里ちゃんここね、ちょっと怪我しているよ。あっちいって舞ちゃんに絆創膏貼ってもらっておいで」
 擦過傷さっかしょうを指さして、頬にチュッとキスをする。
「はいっ」

 任務をもらった藍里が足取り軽く部屋をでていくと、気まずそうな顔をした壱加とふたりきりになった。

「……ごめん」
 育己は眉尻を落として云った壱加に近寄ると、彼の額に手をあてた。
「壱加、それはまたあとで藍里に云ってあげて。それよりも……」

 平熱の高い壱加の肌が、育己の指さきに体温を伝えてくる。ひんやりした育己の指が気持ちいいのか、壱加はうっとりと瞳を閉じた。

 睫毛には涙の粒が絡んでいて彼がこっそり泣いていたのだとわかる。それでも彼がなにも自分に問うてこないので、ちょっと意地悪な気持ちになってこちらもとぼけてしまうのだ。

「どうしたの? こんな時間から布団被って。……しんどい?」
 白々しい自分に呆れはするが、微妙な関係にある自分たちには、いまはこういうふうにしかコミュニケーションのとりかたはない。

「ううん。ちょっと眠かっただけ」
「……そっか」

 本心を云わない彼にれてしまうが、自分がそうさせているのだから仕方ないと苦笑いするしかない。彼にだけ勇気をだせと、育己に云えるはずはなかった。
 そしてそのかわりのようにして、いつも自分は彼の気持ちを試す。

「……俺はリビングあっちに戻るけど、壱加は? どうする? もうすこし寝ておく?」
 
 答えがわかっているクセに、自分はあえて彼にこうして訊く。
(俺って本当、臆病で意地が悪い)

「……俺もいく」

(応えはわかっているのにね)
 
 ほら、彼は絶対に自分についてくる。 
 幼いころに出会った壱加は、一瞬で自分に懐いてしまった。そのときから彼は血のつながる親のもとを離れて、こうして上条家のなかに混ざりこんでしまっている。

 ずっと育己から離れることのなかった壱加は、いまも自分にべったりで、そしてこのさきもきっとずっとそうなのだろう。
 




「あっ! 壱加ッ! あんたこんなちいさな子に怪我させてなに考えてるのよっ⁉ かわいそうじゃない」
「……ふん」
「なにそれ? だいたいいっつも壱加は藍里にきついのよ。妹なんだからやさしくしてあげなよ」
「それ、妹の立場のお前が云うの?」
「どういう意味よ?」

 キッと壱加を睨みつけた舞子に、良和が「お、壱加もたまにはいいこと云うね! もっと云ってやれ!」とはやしたてた。

「舞ちゃん、藍里は大丈夫よ? だからいっちゃんと仲良くしてあげてね」
「やーん。藍里ちゃん、やさしいぃっ。壱加なんて甘やかさなくてもいいのにぃっ」
「まいちゃんもいつもやさしいよ? それにとってもかわいいよ?」
「藍里ちゃんありがとぉぉ。大好きっ。ちぅしていーい?」
「はいどうぞ」

 抱きしめた幼児に丸い頬を差しだされた舞子は「ううんっ」と首を横にふった。

「舞ちゃん、お口がいいっ。藍里ちゃんのお口にちゅうしたい!」
「まいちゃん、それはだめよ」
「なんで?」
 舞子が大きな目をきょとんとさせる。

「だってお口のちゅうは、世界で一番大好きなひととするのよ?」
「えぇえ……。まいちゃんじゃダメ?」
 わざとらしく目をうるうると潤ませて女子高生が幼児に迫る。しかしもちろんそんなワザが幼児に通用するわけがない。

「うん。お口のキスは未来の旦那さまとするんです」
 彼女はきっぱり断られてしまった。
「ね、あっちゅん?」
「ははは。そうだよねぇ。藍里ちゃん」
 育己は確認してきた藍里に、ウインクを投げた。どれだけ忙しくても、育己は藍里への教育は怠っていない。

「ガーン。じゃあ、ほっぺで我慢するわ。藍里ちゃんだいちゅきっ。ちゅきちゅき。ちぅちぅ」
「やーん。ゆんちゃんもー」
 藍里にキスする舞子に末っ子の由那が飛びついた。由那の膝が舞子の腹にめりこんだが、彼女は顔を顰めただけで耐えてみせ、にっこり笑う。
「ゆんちゃんのことも大好きよーっ。ちゅきちゅきちゅき」

(なんてかわいいんだ……)

 育己は拳を握りしめると、心のなかでくぅぅっと泣いた。
 三人の弟も三人の妹も、そして縁があって一緒に住んでいる壱加のことも、育己にとってはいとしくてたまらない存在だった。
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