上 下
96 / 109

96

しおりを挟む
 ずっと我慢していた言葉を吐きだすと、せつなくて胸が痛んだ。
 このセリフを彼に抱かれたときに云えていたら、あの甘くて蕩けそうなセックスに、さらに精神的な解放感まで加えられたに違いない。天にでも昇るような至福に包まれたのかもしれないなと、想像して苦笑した。

 でも伝えられるわけがない。
 好きだとうっかり口にして、彼をげんなりさせたり、重いと思われでもしてしまえば、元も子もない。これ以上篠山の負担にはなりたくないし、万が一でも彼に罪悪感を持たせるわけにはいかなかった。
 それにもしそんなことを口にして、彼にそんなつもりはなかった、と否定されてしまうと、自分は耐えられそうにない。 

 それなのに、なにが「つきあわないか」だと? 
(ばかばかばか。篠山さんのバカ!)
 無神経。無節操。エロがっぱ。
 彼のために、昨日の自分はとても頑張った。一生懸命近藤の身代わりを務めた。彼を興ざめさせないように、いろいろ我慢した。あんなに頑張ったのに――。

 それなのにあの男は……と、また堂々巡りの問答をいちからはじめそうになって、そこでふと、神野は足をとめた。
 いや、ちょっとまて。
 自分は本当に彼に「好きだ」と口にしなかったのだろうか? うっかり口を滑らせてはいないか? ぎくっとして顔を強張らせた神野は焦燥感に唇を咬みながら、恐る恐る自分の中の記憶をたどっていった。

 じきに脳裡に蘇る数時間まえの己の嬌態に、頬が赤らんでくる。相変わらずの節操のなさに滅入りつつも、記憶の底を突いてみると……。
――好きだよ。
 そんな言葉が鼓膜に響いた気がしてくる。気のせいだろうか。もしくは自分は寝たあとに、そんな夢でも見たのだろうか。

 よもや、それは意識を手放すまえに本当に己の口からでた言葉だったのではないか。 
「うそ…‥」
 口に手をやり蒼くなる。
「や…‥、俺、云った⁉ うそっ、うそっ」
 だから、篠山は気を遣って「つきあうか」と、あんなことを云いだしたのか? 同情して? それとも浮薄な気持ちで?
「どうしよう……、どうしよう…‥」
 声は頼りなく、いまにも涙色に染まりそうだった。



                    *



 リビングの扉が閉まる音で目が覚めた篠山は、腕の中から神野がいなくなっていることに気がついた。トイレだろうと思ってすぐにまた目を瞑ったのだが、それからしばらくしても彼が戻ってこないので、まさかと思ってベッドから出て探してみたのだ。

 案の定、神野は家から姿を消していて、ダイニングテーブルの上に書置きだけを残していた。
 それには昼にまた来るというようなことが書いてあったが、そう云いつつもぱったり姿を現さなくなるようなことを、彼は平気でする。
 ここ数ヶ月の間に、彼の態度と行動がころころと変わるところを、自分はなんども見てきていた。つぎは二、三日顔を出さなくなるのだろうか、それとも二週間? 下手すると一カ月だとか云わないか。

 神野とはちゃんと話さないといけないと思っていたのだ。昨夜がそのいい機会だったのだろうが、それはまたそれ、彼にうっかり乗せられて、そして彼にうっかり乗ってしまっていた。

 まぁそれでも、結果それでよかったのだと思っていたりするのは、考えておかなければならないこと、そして彼と話あうことで見つけようとしていた答えを、一足さきにだすことができていたからだ。

 昨夜、久しぶりに神野を抱いて、自分が彼に惚れているということが充分にわかった。だったらそのことをさっさと本人に告げてしまい、今後の身の振りかたをある程度決めておきたい。仕事と人生の効率をよくするために、プライベートをすっきりさせ充実させておくというのが、篠山のポリシーだ。


しおりを挟む

処理中です...