上 下
97 / 109

97

しおりを挟む
 だったらと、セックスのあと善は急げと神野に告白して「つきあわないか」と告げたのだが、しかし彼は考えもせずに断りをいれてきた。しかも、話しのつづきは起きてからでいいか、という考えも甘かったようだ。まさか書置きひとつ残して出ていくとは予想もしなかった。

 それでもまたすぐに彼に会えるのなら、いい。早々に話をつけられたら週のはじめには爽快な気分で仕事に打ちこめるのだから。仮にフラれて失恋したとしても、結果が得られず燻りつづけるよりは、なんぼもましだ。
 しかし今朝のタイミングを逃して、これでまたしばらく神野に避けられでもしてしまったら話しがつけられないではないか。そうなるといろいろと、もういろいろと問題がでてきてしまって、自分は精神的ダメージと過労のせいで倒れてしまいそうだった。
 それで篠山はリビングの時計を見てひとつ溜息を吐くと、彼を追うことを選んだのだ。




 身を切るような寒さのなか、もしかしたら途中で彼に追いつくかもしれないと思い、やや歩調をはやめてアパートへの道を歩いた。それでも会えずじまいでついにアパートの敷地間近までやってくると、金木星の垣根の向こうにぼけっと突っ立ている神野をみつけた。
「神野!」
「篠山さん⁉」
「おい、待て!」
 振り返った彼はあろうことかそそくさと逃げていこうとした。なぜ逃げるんだ、と困惑しつつも、リーチの差で簡単に腕を掴んで捕らえてしまう。

「放してくださいっ」
「こら、大きな声をだすなよ。近所に響くだろ?」
 細い腕を振りまわして暴れる彼に、こいつと出会ったときにもこんなシチュエーションがあったなと懐かしみながら、さて、どうしようかと考えた。

 時間が時間だ。ゆっくり話たいと思ってもこのまま彼らの部屋にあがれば、春臣を起こすことになる。それでは春臣がかわいそうだし、なによりも話が彼に筒抜けになるのは、都合が悪い。下手な結果を招いて、向こう何年も春臣に揶揄われつづけるのはごめんだった。春臣に見つからないうちにさっさと家に連れ戻ろう。

「ほら、帰るぞ。てか、お前ここでなにしてたんだ?」
 近所迷惑を考えてか、もがきながらも静かになった彼に訊く。
「べつに なにもしていません。篠山さん、手を離してください。もう帰りますから」
「いいや。ちょっとお前に話があるから、:家(うち)に戻るぞ」
 マンションからここまで歩いて十分もかからないというのに、自分よりも随分さきに出てきていた彼がここにいるといことは、けっこう長い時間ここで立っていたことになる。
 手をとって確かめてみると、やはりそれは氷のように冷たくなっていた。篠山はその手を握ると自分の手ごとコートのポケットにいれてしまう。

 よく見れば神野は鼻の頭も寒さで赤くしていて、篠山にマフラーをもってこなかったことを失敗だと思わせた。風邪をひかすまえに、さっさと帰宅するしかない。
「ほら、ちゃんと歩け」
「話ってなんですか? ここでしてください」
「……気になっていたことがある」
 引っぱられてぐずぐず歩く神野は、すぐにでも足を止めてしまいそうな雰囲気だ。これ以上ごねられて逃げられるまえにと、篠山は話しを切りだした。

「お前、なんで泣いていたんだ?」
「――気持ちよすぎたんです。ただ単に生理的なものですよ」
 云ってぷいっと横を向いた彼は、ついに足を止めてしまった。もうひっぱっても歩こうとしてくれない。ちょうど金木星の垣根まで戻ったところだった。アパートの敷地からすら出ることが叶わないとは……。
「違う」
「違いません。なんで、本人が云っていることなのに違うとか云うんですか」

「だって、違うだろ? ――お前、悲しそうな顔してたじゃないか?」
「――そんなこと」
「寝るまえにも、目に涙溜めてただろ? 俺に云いたいことがあったんじゃないのか?」
「…………」
 しばらく地面を睨みつけながら黙りこんだ神野は、ようやく口を開いたかと思ったら、また「離してください」と云って、ポケットの中から手を引き抜いた。


しおりを挟む

処理中です...