歌姫ギルと黄金竜

青樹加奈

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第1章 ギル

1.竜の平原にて

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「さあ、ギル、走るのよ。走って逃げないと、竜が来るわよ」
「やめて、ヴェールを返して!」
 私はイルマに頼んだ。ここは「竜の平原」と呼ばれる野原だ。見渡す限り、木一本、立っていない。膝ほどの緑の草が一面生えているだけだ。イルマ達は首都ケルサに通じる林の中から、私を追い出した。これでは、黄金が大好きなあの竜があっさり私を見つけてしまう。どうしよう、どうしたらいいの。
 ガツッ!
 痛い! 頭に何か! 石だ。イルマ達は、とうとう、私に石を投げ始めた。
「やめて!」
「ほらほら、走って野っ原の真ん中に行くんだよ! そしたら、竜が飛んでくる! きゃはは」
 このあたりを飛んでまわる竜は金が大好きだ。金色の物を見つけるとさっとかぎ爪で掴んで飛んで行ってしまう。私は、かあさん譲りの金髪なのだ。いつもは、ヴェールを巻いている。このあたりの金髪の人達はみなヴェールを巻いたり帽子を被って竜から金髪を隠すのだ。それなのに。
 私は走った! 仕方なく。野原を超えた向うは森だ。あそこまで逃げられたら、身を隠せる。私は必死になって走った。イルマ達の笑い声が聞こえる。
「ギルベルタ・アップフェルト! あんたなんか、どっかに行っちまいな! もう、二度と戻ってくるんじゃないよ!」
 私は泣きながら走った。どれくらい走っただろう。息があがる。心臓が破裂しそう。あ! 痛い! こけた!
 イルマ達の笑い声が風に乗って微かに届く。振り返ると、遠くにイルマ達が私を指差して笑っているのが見えた。
 どうして? どうして、私がこんな目にあうの?
 わかってる、私の声、この声のせいなのだ。
 でも、でも、私にはこの声しかない。
 私は立ち上がった。大きく吸って息を整える。
 どうせ、竜に掴まって死ぬなら、最後に一世一代の歌を歌って死のう。
 私は竜の平原の真ん中に立った。蒼穹の空。白い雲が点々と浮かぶ。優しい春の日射し。
 びゅうぅ、風が私の祖末なスカートをはためかせる。
「ア―――――ッ!」
 私は風に向って叫んだ。声を調整する。肩の力を抜き、胸一杯に空気を吸い込む。
 そして、私は歌った。力一杯歌った。故郷の歌を。
 竜の平原に響き渡る私の歌。
 高く、低く、私は力の限り歌った。
 これが最後の歌。
 母さん、父さん、待ってて。もうすぐ、私もそちらに行きます。
 見上げた空に小さな点が現れた。金色に光る点。
 ああ、来た。あれが、竜だ。黄金竜だ。死が刻一刻と近づいて来る。
 さあ、おいで、竜よ。美しい竜よ。
 私の最後の歌を聞く者よ。

 その時、遠くに蹄の音が聞こえた。こっちに近づいてくる? 私は振り返った。
 一人の騎士が、馬を疾走させて私の方へ。あっと思うまもなく、私は騎士に抱き上げられていた。
 騎士はマントを私にかぶせた。金髪がマントに隠れる。
「しっかり掴まってろよ」
 騎士は馬を全速力で駆けさせた!
 すぐ目の前の森が遠い。早く、早く、お願い!
 竜の羽音が聞こえた。間一髪、私達は森に飛び込んだ。木立の陰に身をひそめる。マントの影からそっと見上げると竜が頭の上で旋回している。竜の鳴き声が辺に響く。竜の羽根が起す風が顔にあたる。竜よ、どっかへ行って。お願い。母さん、父さん、私を守って!
 どれくらい経っただろう。やがて、竜は諦めて飛んで行った。
「大丈夫か?」
「は、はい、助けて、いただいて、本当にありがとうございました」
 私は泣き出した。怖かった。怖かったよー。わぁーん!
 私は騎士様の胸にすがって泣いた。
「もう、大丈夫だ。そんなに泣くな」
 騎士様が呆れている。でもでも、涙が溢れて止らない。体の震えが止らない。
「すっ ひっく! ううう、すいません。ひっく! えっえっえ!」
「泣くな!」
 騎士様は大声で私を一喝された。なんて大声!
 私はまじまじと騎士様を見上げた。
「ほら、これで涙を拭け」
 騎士様がハンカチを出してくれた。私は夢中でハンカチで涙を拭いた。嗚咽は止っていた。
「何故あんな所で歌っていた? ヴェールも被らずに! 竜に襲われるとは思わなかったのか? それともおまえはよそ者か?」
「あの」
 私は溢れて来る哀しみを飲み込んだ。
「私は無理矢理ここに追い払われたんです。ヴェールをとられて」
「なんだと! 誰にだ?」
 私は答えにつまった。言ったら、イルマ達が咎めを受けるかもしれない。
「あ、騎士様、あの、どうか、お許し下さい」
 騎士様が眉根を寄せて私を見ている。
「女、名前はなんという?」
「ギル、ギルベルタ・アップフェルト。ギルとお呼び下さい」
 騎士様がわずかにため息をついた。
「何故、歌っていた?」
「私は、その、歌手です。いえ、歌手見習いです。竜が来る事はわかっていました。それで、死ぬなら最後に思いっきり歌って死のうと」
「それで、歌っていたのか」
「はい」
「美しい歌声だった。おまえはどこに住んでいる? 送っていこう」
 私は天涯孤独だ。父さんは、戦で戦って死んだ。母さんも戦から逃げる途中、私を庇って死んだ。私は逃げて逃げてこの国に流れついた。私は今、劇場主のポランさんのお情けで劇場の屋根裏に住まわせてもらっている。私の声をポランさんは認めてくれたから。だけど、歌手のイルマ達に妬まれて追い出された。私には帰る家などないのだ。
「あの、私は、その、帰る家がないんです」
「何! 家がない!?」
 私は仕方なく騎士様に事情を話した。
「あの、あの、イルマ達を咎めないで下さい。私の声のせいなんです」
 騎士様は私をじっと見た。騎士様の緑の瞳に私はいたたまれなくなった。エメラルドのように煌めく瞳。
「今からそなたを屋敷へ連れて行く」
「え!」
 どうしよう? 悪い人には見えないけど、でも。
「心配するな。叔母上が病いで臥せっているのだ。済まぬが、一曲歌ってやってくれぬか?」
 私はほっとした。
「は、はい、叔母上様の為に一所懸命歌わせてもらいます。命をお助けいただいたのに、何も御礼が出来ないと心苦しく思っていました。歌で御礼が出来るなら、精一杯歌わせてもらいます」
「そうか、助かる。俺は……、レオン・バルトだ。よろしくな」
 騎士様がふっと笑った。
 騎士様の切れ長の目がとってもきれいだ。黒髪、緑の瞳、浅黒い肌。灰色の上着に黒いマント、皮の帽子という祖末な身なりなのに気品がある。
 騎士様と私は馬に揺られながら森を抜けた。瀟洒な館が見えて来た。館に入ると、執事らしい人が現れた。
「よくお越し下さいました」と言って深々と頭を下げる。
「ゲラン、すまんが女官長を呼んでくれ。この子はギルベルタ・アップフェルト。歌手見習いだそうだ。竜に襲われそうになっていた所を助けた。素晴らしい歌声をしている。服装を整えてやってくれ。叔母上の為に歌わせる」
「は、承知しました」
 私は別室で女官長さんから新しいドレスを着せられた。女官長さんは、カペル夫人という。支度が出来ると、カペル夫人は私を別の部屋に連れて行った。
 行く途中、通ったホール、階段、廊下、素晴らしかった。凄いお屋敷だ。こんなに美しいお屋敷は見た事がない。紅色の絨毯が敷かれた廊下。羽目板で覆われた壁。所々に掛けられた肖像画、色取り取りの花が活けられた花瓶、猫足の花台、どれをとっても美しい。
 案内された部屋に入ると、騎士様が待っていた。痩せた女の人がベッドにいて、たくさんの枕を背中にあてて起きている。
 騎士様は私を見ると言った。
「ふむ、なかなかいい。叔母上、あなたの為にカナリアを捕まえて来ました」
「まあ、かわいらしいカナリアだこと!」
 奥様の頬に赤みがさした。私は腰をかがめて挨拶をした。
「あの、ギルベルタ・アップフェルトと申します。お見知りおきを」
「ほほほ、私はアナベル・フォン・ローゼンタール。今日は、どんな歌を聞かせてくれるのかしら?」
「はい、あの、今、町ではやっている歌なんです。とても、きれいな歌です」
 私はいつも劇場で歌っている歌を歌った。軽い曲を三曲歌って、一番難しい歌を最後に披露した。遠く離れた恋人を想って娘が星空に願う歌。「銀の星一つ」という歌だ。私は、丁寧に歌い上げた。この歌は高音部のビブラートが難しい。でも、私は歌いきった。
 アナベル様と騎士様、まわりにいた侍女や侍従達が皆拍手してくれた。
「まあ、なんて素晴らしい声の持ち主なの! レオン、今日はありがとう、寿命が伸びる思いをしたわ」
 騎士様が私に言った。
「しばらく、廊下で待っていてくれないか? ゲラン、この娘を廊下へ」
 廊下に出た私は不安な気持ちで一杯だった。一体、何が話し合われているのだろう。それに私はこれからどうしたらいいのだろう。私には行く所がない。いえ、一つだけ。私がこの国に流れついた時、助けてくれた魔女様。あの方をもう一度、頼ってみようか? でも、ご迷惑かもしれない。
 やがて、ガチャリとドアが開いた。執事のゲランさんが出て来て、「こちらへ」と言う。私はもう一度、アナベル様の部屋に入った。
 私はアナベル様の前に神妙に立って待った。知らずに両手を握りしめていた。
「ギルベルタ、私はあなたの声に惚れ込みました。これからはこの屋敷で暮らしなさい。あなたには、音楽の先生をつけるわ。国立劇場で歌えるようにがんばるのよ」
 私は唖然とした。ここに住む? この美しいお屋敷に! その上、音楽の先生で国立劇場って、うっそー!
「あの、あの、そんな、まさか!」
「いいえ、私はこれでも、音楽には詳しいの。あなたの歌声は素晴らしいわ。必ず、国立劇場で王侯貴族の前で歌う歌手になれるわ。自信を持ちなさい」
「でもでも、ここに住むなんて!」
「レオンから聞いたわ。あなた、住む所がないんでしょう」
「あ、はい」
「だったら、遠慮しないで」
「あの、あの、ありがとうございます! なんと御礼を言ったらいいか……」
「そう思うなら、精進しなさい。もし、あなたが、国立劇場の歌手になれなかったら、即刻、屋敷から追い出すわ。忘れないで!」
「はい! はい、必ず! 必ず御期待に応えてみせます。私、誓います!」
 私は必死に叫んでいた。

 私はアナベル様の屋敷で暮らすようになった。
 暮らすようになって初めて知ったのだが、アナベル様は、侯爵夫人だった。侯爵夫人は、夫に先立たれ、今は広い屋敷に召使い達と暮らしている。三人のお子様方はそれぞれ結婚したり、独立して別の所にいるらしい。侯爵夫人はすっかり隠遁生活に入ってしまい、宮廷にも滅多に出仕されないのだと言う。
 私はその話を女官長のカペル夫人から聞きびっくりした。侯爵といえば、すっごく身分の高い人だ。その方が私の世話して下さる。私は畏れ多いと思った。侯爵夫人に話すと、
「ほほほ、気にしなくていいのよ。歌姫のタマゴを育てるのは貴族の嗜みよ」
 と言われてしまった。
 侯爵夫人は、私に数人の教師をつけて下さった。歌の教師だけでなく、一般教養とか語学とか作法とかだ。
 私は毎日、朝から数人の先生について講義を聞き、声楽のレッスンを受けた。音楽の先生、ナハイド先生はひげの生えた気難しい先生だ。私は先生が選んだ歌を練習した。また、楽譜を初見で歌う訓練をさせられた。
 私は侯爵夫人の為に時々歌を歌った。一曲だけの時もあるし、二曲、三曲の時もある。そして、侯爵夫人は必ず、私の欠点を指摘した。それはとても的確で、ナハイド先生も侯爵夫人には一目置いているようだった。

 騎士様は侯爵夫人のお見舞いに、時々やってきた。そして、私を見るとからかった。
「君はいくつだ?」
「十六です」
「十六? それにしちゃあ、小さいな! せいぜいヴェールを高く巻きたまえ。大人に見えるぞ」
「騎士様!」
「レオンでいい。勉強の方は進んでいるか?」
「は、はい。えーと、レ、レ、レオン」
 私は頬が熱くなった。騎士様のようなりっぱな男の人を名前で呼び捨てにした事などない。
「くくく、はーっはっはっは。もっとさりげなくレオンと呼べんのか? 練習してみろ。レオンだ」
「レ、レオン」
「もう一度」
「レオン」
「そうだ。いい子だな」
 レオンが気軽に私の頭をぽんぽんとする。私は頭を振ってレオンの手をよけた。
「触らないで! 私、子供じゃありません。例え頭でも殿方に馴れ馴れしく触ってもらいたくありません!」
 私はつんとした。するとまたまた、レオンが笑いだす。
「はっはっは、これは失礼、フロイライン・ギル、くっくっく」
 こんな調子でレオンは私をよくからかった。

 いつもの午後、私は図書室で歴史書のノートを取っていた。
 突然、テラスに面した両開きの窓からレオンが入ってきた。
「レオン!」
「ギル、馬に乗れるか?」
「は? えーっと、一応」
「そうか、乗れるのか、つまらん、教えてやろうと思ったのに……。乗れるなら遠乗りに行こう。勉強ばかりしていると太るぞ」
「もう、ほっといて下さい!」
「いいから、遠乗りに行こう。一時間くらい抜け出しても本は待っててくれるさ」
 結局、私はレオンに連れ出された。
 厩では二頭の馬に鞍がおかれて待っていた。私達は館の裏手にある牧草地を駆け抜け、林の中に入った。樹々の間を行く。小さな泉の側に出た。清らかな水が湧いている。まわりには色とりどりの花が咲いていた。
「ギル、ここで休もう。ほら、街で流行っている菓子だ。食べてみろ、うまいぞ! たくさん食べないと大きくなれんぞ」
「もう、私の背が低いのをからかわないで!」
 レオンは笑いながら、馬具の中から菓子の包みを出すとぽんと私に放った。レオンがマントを草むらの上に広げる。その上に座って、私はレオンから貰った包みを開いた。中には見た事がないお菓子が入っていた。甘い香りがする。粉砂糖がかかっていて美味しそうだ。つまむとふわふわしている。私はつまみ上げて、かぶりついた。中からクリームがあふれる。おいしい!
 私は夢中になって食べた。喉が詰まる。胸をどんどんと叩いた。
「くっくっくっく、君を見ていると退屈せんな、ほら水だ」
 レオンがコップに泉の水を汲んでくれた。私はごくごくと飲んだ。う、今度は水が気管に!
「げほげほ」
 咳き込む私。笑い転げるレオン。
「もう、げほげほ」
 レオンは笑いを納めると、私をまじまじと見た。指を私の頬に。
「クリームがついてる」
 レオンは私の頬についていたクリームを長い指先ですくい取るとそのまま舐めた。
「ふむ、いい味だ」
「もう、気安く触らないでって言ったでしょ」
「だったら、さっさと口の周りを吹きたまえ、貴婦人なら口の周りをクリームだらけにして菓子を食べたりせんぞ」
「え! うそ!」
 私はあわてて口の周りに手をやった。あれ、何もついてない。泉に自分の顔を映してみる。やはり、ついていない。
「クリームなんてついてないじゃない! もう、またからかって!」
 レオンが吹き出した。
「どうせ、私はからかい甲斐のある子供ですよ」
 私がつんとすると、またしてもレオンがくすくすと笑う。
「それより何か一曲歌ってくれないか?」
「いやです! からかってばかりの人には歌って上げません!」
 レオンは驚いた顔をしたが、やがて嬉しそうに言った。
「そういわず、珍しい菓子を持って来てやったろう」
 私は仕方なくお菓子を貰った御礼に歌った。ところが、レオンときたら、私の歌を聞きながら眠ってしまったのだ。失礼な奴と私は憤慨したが、レオンは疲れていたのかもしれないと思い直した。
 私はレオンの寝顔を覗き込んだ。閉じられたまぶたを縁取る睫毛が長い。端整な顔立ちだ。初めて会った時も、気品があると思った。
 一体、レオンはどこの誰なのだろう?
 侯爵夫人を叔母上と呼ぶのだから、奥様の甥御さん?
 と言う事は貴族ですっごく身分の高い人?
 だけど、こういっちゃあなんだけど、身なりが貧しい。今日も灰色の上着に黒いマント、皮の帽子だ。貴族様なら、絹の上着に羽根つきの帽子をかぶる筈だ。うーん、これはどういう事なんだろう?
 なんとなく聞いてはいけないような気がして私は聞けないでいる。

 レオンはそれからも侯爵夫人のお見舞いにやってきた。侯爵夫人へのお見舞いが終わると、レオンは、晴れた日は私を遠乗りに連れて行ってくれたし、雨の日は暖炉の前で一緒にお茶を飲んだ。相変わらずレオンは私をからかったが、私も負けずにレオンをからかった。
 私が、レオンに反発したり言い返したりすると、レオンは妙に嬉しそうな顔をした。私はレオンの気持ちがわからなかったが、レオンと軽い冗談を言い合うのは楽しかった。
 侯爵夫人の病いは急速に回復していった。侯爵夫人を診ていたお医者様、マルグレイブ先生の診断によると侯爵夫人の病いは気鬱の病いで、私という歌姫を育てる仕事が出来て、気力が出て来たのだという。
 侯爵夫人の病気が良くなると、レオンは来なくなった。私は淋しかった。レオンに会えるのを楽しみにしている自分がいた。
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