鯨井イルカ

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紫色の渦の前で

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 目の前の暗闇に、紫色の渦が浮かんでいる。
 渦は収縮と膨張を繰り返し、ザワザワと音を立てている。
 そんな光景がずっと続いている。

 どこに移動するわけでもない。
 何かが始まるわけでもない。

 ただ、紫色の渦が収縮と膨張を繰り返している。
 ザワザワとした音を立てながら。

 どのくらいこの光景を眺めていただろうか。

 いつの間にか、ザワザワという音に何か別の音が混じり始める。


  ――ぶ――――の――だ―


 その音は、何か意味を持った音のようにも聞こえる。


  ぜ―――お――――い――


 数年間悪夢を見続けてきたが、こんなことは初めてだ。

 
  ―ん――――え―せ―――


 いや、もしかしたら、気づかなかっただけなのかもしれない。


  ―――、―ま―――――。


 もしくは、意図的に、忘れたのかもしれない。
 こんな言葉、聞きたくもないのだから。



  ぜ ん ぶ 、 お ま え の せ い だ 。


 
 紫の渦は、ハッキリとした声で、そう言い放った。
 私は咄嗟に反論の言葉を探した。
 しかし、声を上手く出すことができない。
 そうしている間にも、渦は私を責め続ける。


  ぜ ん ぶ 、 お ま え の せ い だ 。


 そんな言葉と共に、渦は収縮と膨張を繰り返す。
 徐々に姿を変えながら。

 いつの間にか、渦には紫色の顔が浮かび上がった。

 家族、友人、同僚、上司、後輩、知人、見知らぬ人。
 そんな無数の顔が、紫色に染まり、連なり、渦を巻いている。
 収縮と膨張を繰り返しながら。

  全部、お前のせいだ。

  全部、お前のせいだ。

  全部、お前のせいだ。

 無数の顔が、何故か私を非難する。

 私が、何をしたというのか?

 そんな問いを投げかけても、顔達は答えない。

  全部、お前のせいだ。

 その代わり、私をなじる言葉を発し続ける。
 
 あまりに苛立ちが募る状況に、我慢ができなくなった。
 そのため、私は紫の渦の元へ足を進めた。 
 そして、渦の目の前で足を止め、全体を見渡した。
 すると、一番苛立ちを覚える顔が見つかった。
 
  全部、お前のせいだ。
  全部、お前のせいだ。
  全部、お前のせいだ。

 その顔は、他の顔より騒がしく非難の言葉を繰り返している。
 まるで、喚き散らすように。


 
 だから、私は、その顔を思い切り殴り潰した。


 
 そこで、轟音と共に目が覚めた。
 窓の方向から、ザアザアと雨の音が聞こえる。
 雨が強いためなのか、昨日よりも頭痛が酷い気がする。
 しかし、すぐに壁を殴りつけた拳が痛み始め、頭痛は気にならなくなった。
 痛む箇所に目をやると、滲んだ視界の中に、血の滲んだ手の甲が映った。
 私は目元を拭って起き上がり、救急箱を探すことにした。

 それから、手のケガを処置し、身支度をし、満員電車に乗り込んだ。
 雨のせいで、電車の中はいつもにも増して超満員だ。
 そのためか、いつもより強めに空調がかかっている。
 
 車内に響く空調の音に、先ほどの夢を思い出す。
 それと共に、右手の傷がピリピリと痛んだ。


 恐ろしい光景を見るよりも、ずっと嫌な夢だった。
 それでも、ただの夢なのだから、気にしても仕方ない。


 そんなことを繰り返し考えているうちに、電車は下車駅へ到着した。

 それから、電車を降り、勤め先に到着し、執務室に入った。
 軽く頭を下げながら、ほぼ滞りなく挨拶を済ませ、自分の席につく。
 すると、背後から誰かが近づいてくる気配がした。

「少し、いいか?」

 振り返ると、上司が真剣な面持ちで立っている。

「はい、大丈夫です」

 私は返事をし、上司は軽く頷く。
 そして、二人して会議室に移動し、予定していた打ち合わせを始める。
 
 今回の件、お前に非がないのは分かっている。
 ただ、先輩として、もう少し早く気づいてやることはできなかったのか。
 それと、今、他の仕事のフォローに回ったら、担当している仕事はどうなる。
 あちらの仕事は、これ以上失敗できない。
 もしも、何か起きたとしても、上司としてどこまでフォローできるか分からない。
 それに、もしもお前が体を壊すことになったりしたら……

 そんなことを口にしながら、上司はチラチラと私に視線を送った。

「ご心配なさらずに。これ以上問題が発生するようなら、私が始末書を提出しますから」

 私がそう答えると、上司は苦笑を浮かべた。

「そうか、悪いな」

 そして、どこか淋しげな声で、力なく呟いた。
 どうやら、彼の望んでいた回答をすることができたようだ。

 予定調和の打ち合わせを切り上げると、私は会議室を後にした。
 上司はまた別の打ち合わせがあるらしく、会議室に残ったままだった。
 執務室に戻ると、私はより一層過密になった業務に取りかかった。

 業務に集中しているうちに、昼の休憩時間になった。
 私は、何気なくポケットからスマートフォンを取り出した。
 すると、一件のメッセージを受信していた。
 それに加え、大量の不在着信と一件の留守番電話も。
 思わず、深いため息が口からこぼれた。
 それと同時に、右手の傷がピリピリと痛んだ。
 
 私は痛みを堪えながら、まずはメッセージを確認した。
 送り主は、中学時代の旧友だった。
 私が同窓会を欠席するせいで、レストランの貸し切りができなくなった。
 そんな恨み言が、つらつらと長文で書かれていた。
 私は、よくもここまで長文を書けるものだ、と感心しながら、謝罪の言葉を返信した。
 
 旧友からのメッセージも、あまり気分のいいものではないことは確かだ。
 しかし、これから聞く留守番電話に比べればまだマシなのだろう。

 私は執務室を出て、廊下の隅へ移動した。
 それから、スマートフォンを操作し、留守番電話を再生する。

 今月の生活費が、まだ振り込まれていない。
 それなのに、連絡もよこさないなんてどういうつもりだ。
 年寄りを飢え死にさせる気か。
 周りの同年代は優雅に趣味を楽しんでいるのに。
 こんなに惨めな思いをさせるなんて。
 大学まで出させてやったのに、恩知らず。
 お前が進学したせいで、金がなくなったということを分かっているのか。
 そういう薄情なところは、アイツにそっくりだ。
 そうだ、お前のせいでアイツとずっと別れられなかったのに。
 それなのに、お前は家族を見捨てるつもりなのか。
 お前なんか育ててやるんじゃなかった。


  今不幸なのは、全部、お前のせいだ。

 
 耳から少し離したスピーカーから、大声が聞こえる。
 要は、仕送りが遅れたことを憤っているのだろう。
 それと、不幸な気持ちを誰かに聞いて欲しかった、というのもあるかもしれない。
 ともかく、早く銀行に行って、必要な分の振り込みを済ませよう。
 それから、謝罪の連絡も入れておかなくてはいけない。


 私達は、血のつながった家族なのだから。


 スマートフォンをしまうと、右手の傷がピリピリと痛んだ。
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