8 / 18
取り越し苦労と不吉なメッセージ
しおりを挟む
その後、紗江子は普段通りに業務をこなし、大きなトラブルもなく終業時間を迎えた。社屋を出て駅のホームにたどり着くと、自然と安堵のため息がこぼれた。
結局のところ、なにかミスをするかもしれないという朝の不安は、取り越し苦労に終わった。
きっと、白金課長への苦手意識が薄れた嬉しさが、婚約破棄のショックを上回ったからだ。これも、神谷さんがくれた香水のおかげかな……。なら、ちゃんとお礼を言わなきゃ。
そんなことを考えながら、バッグからスマートフォンを取り出した。画面には、誰からのメッセージも表示されていない。
紗江子はメッセージアプリを起動して、誠とのやり取りを読み返した。
紗江子さんからの連絡なら、
いつでも歓迎しますから。
画面にそのメッセージが表示されると、紗江子の指は止まった。この言葉が本当なら、感謝のメッセージを送っても、誠が迷惑に思うことはないはずだ。それどころか、むしろすごく喜ぶのだろう。
それでも、忙しいときにいちいちメッセージを送るな、という幸二の言葉を思い出し、メッセージを作る指が止まってしまう。
「間もなく、二番線に列車がまいります」
ためらっているうちに、電車がホームに到着した。
紗江子は軽く目を伏せると、スマートフォンをバッグにしまい、車両に乗り込んだ。
メッセージを送る決心がついたのは、食事と入浴を終えたあとだった。
お疲れ様です。
今日は神谷さんの香水のおかげで、
苦手だった上司と
少し仲良くなれました。
素敵なプレゼントをいただき
本当にありがとうございました。
ベッドに腰掛けながら、作ったメッセージを何度も読み返す。
「お礼を言われて……、嫌な気分にはならない、よね……」
そう呟いてから、紗江子はコクリと頷き、送信アイコンをタップした。
すると、すぐにメッセージに既読マークがつき、目を輝かせたウサギのスタンプが返ってきた。あまりの速さに驚いているうちに、画面には返信が表示される。
お疲れ様です。
あの香水が紗江子さんの
役に立ったのなら、
とても嬉しいです!
気に入ってくれて、
本当にありがとうございます!
そんなメッセージのあとに、再び目を輝かせウサギのスタンプが送られてきた。紗江子は画面をみつめたまま、頬を緩めた。
まさか、お礼にお礼を返されるなんて……。そうだ、あの香水はけっこう高価な物のはずだし……、やっぱりメッセージだけじゃなくて、ちゃんとお礼をした方がいいよね。
こちらこそ、
ありがとうございます。
改めてお礼にうかがいたいのですが、
どこか都合のいい日はありますか?
それなら、
これから来ていただいても、
まったく問題ないですよ。
即座に返された突飛なメッセージに、思わず身体の力が抜けた。
さすがに、今からだと
お礼の品も用意できないので、
また、別の日に。
失礼しました。
でも、俺としては
紗江子さんさえいてくれれば、
他になにもいらないんですけどね。
歯の浮くようなメッセージとともに、頭を下げるウサギのスタンプが送られてくる。紗江子は苦笑を漏らしながら、メッセージを入力した。
それなら、
土曜日にうかがってもいいですか?
ええ、かまいませんよ。
なんなら、金曜の夜からでも、
こちらは一向にかまいませんので。
金曜の夜という言葉に、三日前の情事が思い出された。肌を優しくなぞる骨張った細い指や、耳にかかる熱っぽい吐息や、覆い被さる熱い身体の感触が蘇り、背筋が粟立つ。
誠の誘いに乗れば、嫌なことを忘れられるほどの快感を再び味わえるのかもしれない。
では、予定を確認してから、
また改めて、連絡しますね。
紗江子は即答できず、短く曖昧に返信した。
分かりました。
予定が分かったら、連絡ください。
いつでも都合をつけますから。
ありがとうございます。
では、今日はもう遅いので、
このくらいに。
おやすみなさい。
おやすみなさい。
俺はまだしばらく起きてるので、
なにかあれば、
遠慮なく連絡くださいね。
誠のメッセージに、おじぎをする猫のスタンプを返信し、メッセージアプリを閉じた。それから、スマートフォンを持ったまま、ベッドに倒れ込む。
「どうしよう、かな……」
そんな言葉が、思わず口から漏れた。
たしかに、婚約破棄の痛手は予想以上に軽く済んでいる。それでも、幸二のことを完全に忘られたわけではない。
逡巡していると、スマートフォンから振動が伝わった。
また、誠からのメッセージだろうと思いながら、画面を覗き込んだ。
しかし、画面に表示されていたのは、メッセージアプリではなく、SNSアプリの通知だった。首を傾げながら通知をタップすると、見覚えのないアカウントからメッセージが届いていた。
メッセージを開いた途端、紗江子の表情は凍りついた。
突然のメッセージ、ごめんなさい。
長谷川幸二さんの後輩の
野村愛菜と申します。
長谷川先輩のことについて、
お話ししたいことがありますので
ご都合のいい日に、
お会いすることはできませんか?
「本当の愛に気がついたんだ。彼女は自分がどんなにつらくても、笑顔で俺を支えてくれた」
幸二の声が鮮明に蘇る。
「それに比べて、君は……」
侮蔑に満ちた声が頭に響く中、紗江子の指は無意識のうちに誠の連絡先を呼び出していた。
結局のところ、なにかミスをするかもしれないという朝の不安は、取り越し苦労に終わった。
きっと、白金課長への苦手意識が薄れた嬉しさが、婚約破棄のショックを上回ったからだ。これも、神谷さんがくれた香水のおかげかな……。なら、ちゃんとお礼を言わなきゃ。
そんなことを考えながら、バッグからスマートフォンを取り出した。画面には、誰からのメッセージも表示されていない。
紗江子はメッセージアプリを起動して、誠とのやり取りを読み返した。
紗江子さんからの連絡なら、
いつでも歓迎しますから。
画面にそのメッセージが表示されると、紗江子の指は止まった。この言葉が本当なら、感謝のメッセージを送っても、誠が迷惑に思うことはないはずだ。それどころか、むしろすごく喜ぶのだろう。
それでも、忙しいときにいちいちメッセージを送るな、という幸二の言葉を思い出し、メッセージを作る指が止まってしまう。
「間もなく、二番線に列車がまいります」
ためらっているうちに、電車がホームに到着した。
紗江子は軽く目を伏せると、スマートフォンをバッグにしまい、車両に乗り込んだ。
メッセージを送る決心がついたのは、食事と入浴を終えたあとだった。
お疲れ様です。
今日は神谷さんの香水のおかげで、
苦手だった上司と
少し仲良くなれました。
素敵なプレゼントをいただき
本当にありがとうございました。
ベッドに腰掛けながら、作ったメッセージを何度も読み返す。
「お礼を言われて……、嫌な気分にはならない、よね……」
そう呟いてから、紗江子はコクリと頷き、送信アイコンをタップした。
すると、すぐにメッセージに既読マークがつき、目を輝かせたウサギのスタンプが返ってきた。あまりの速さに驚いているうちに、画面には返信が表示される。
お疲れ様です。
あの香水が紗江子さんの
役に立ったのなら、
とても嬉しいです!
気に入ってくれて、
本当にありがとうございます!
そんなメッセージのあとに、再び目を輝かせウサギのスタンプが送られてきた。紗江子は画面をみつめたまま、頬を緩めた。
まさか、お礼にお礼を返されるなんて……。そうだ、あの香水はけっこう高価な物のはずだし……、やっぱりメッセージだけじゃなくて、ちゃんとお礼をした方がいいよね。
こちらこそ、
ありがとうございます。
改めてお礼にうかがいたいのですが、
どこか都合のいい日はありますか?
それなら、
これから来ていただいても、
まったく問題ないですよ。
即座に返された突飛なメッセージに、思わず身体の力が抜けた。
さすがに、今からだと
お礼の品も用意できないので、
また、別の日に。
失礼しました。
でも、俺としては
紗江子さんさえいてくれれば、
他になにもいらないんですけどね。
歯の浮くようなメッセージとともに、頭を下げるウサギのスタンプが送られてくる。紗江子は苦笑を漏らしながら、メッセージを入力した。
それなら、
土曜日にうかがってもいいですか?
ええ、かまいませんよ。
なんなら、金曜の夜からでも、
こちらは一向にかまいませんので。
金曜の夜という言葉に、三日前の情事が思い出された。肌を優しくなぞる骨張った細い指や、耳にかかる熱っぽい吐息や、覆い被さる熱い身体の感触が蘇り、背筋が粟立つ。
誠の誘いに乗れば、嫌なことを忘れられるほどの快感を再び味わえるのかもしれない。
では、予定を確認してから、
また改めて、連絡しますね。
紗江子は即答できず、短く曖昧に返信した。
分かりました。
予定が分かったら、連絡ください。
いつでも都合をつけますから。
ありがとうございます。
では、今日はもう遅いので、
このくらいに。
おやすみなさい。
おやすみなさい。
俺はまだしばらく起きてるので、
なにかあれば、
遠慮なく連絡くださいね。
誠のメッセージに、おじぎをする猫のスタンプを返信し、メッセージアプリを閉じた。それから、スマートフォンを持ったまま、ベッドに倒れ込む。
「どうしよう、かな……」
そんな言葉が、思わず口から漏れた。
たしかに、婚約破棄の痛手は予想以上に軽く済んでいる。それでも、幸二のことを完全に忘られたわけではない。
逡巡していると、スマートフォンから振動が伝わった。
また、誠からのメッセージだろうと思いながら、画面を覗き込んだ。
しかし、画面に表示されていたのは、メッセージアプリではなく、SNSアプリの通知だった。首を傾げながら通知をタップすると、見覚えのないアカウントからメッセージが届いていた。
メッセージを開いた途端、紗江子の表情は凍りついた。
突然のメッセージ、ごめんなさい。
長谷川幸二さんの後輩の
野村愛菜と申します。
長谷川先輩のことについて、
お話ししたいことがありますので
ご都合のいい日に、
お会いすることはできませんか?
「本当の愛に気がついたんだ。彼女は自分がどんなにつらくても、笑顔で俺を支えてくれた」
幸二の声が鮮明に蘇る。
「それに比べて、君は……」
侮蔑に満ちた声が頭に響く中、紗江子の指は無意識のうちに誠の連絡先を呼び出していた。
0
あなたにおすすめの小説
替え玉の私に、その愛を注がないで…。~義姉の代わりに嫁いだ辺境伯へ、身を引くはずが……持ちかけられたのは溺愛契約。
翠月 瑠々奈
恋愛
ベルン皇国の辺境伯ソラティスが求めたのは、麗しき皇都の子爵令嬢レイアだった。
しかし、彼の元へ届けられたのは、身代わりに仕立て上げられた妹のラシーヌ。
容姿も性格も全く違う姉妹。
拒絶を覚悟したラシーヌだったが、ソラティスは緋色の瞳を向けて一つの「契約」を持ち掛けた。
その契約とは──?
ソラティスの結婚の理由、街を守る加護の力。そして、芽生える一つの恋。それに怯える拙い拒み。
※一部加筆修正済みです。
結婚から数ヶ月が経った頃、夫が裏でこそこそ女性と会っていることを知りました。その話はどうやら事実のようなので、離婚します。
四季
恋愛
結婚から数ヶ月が経った頃、夫が裏でこそこそ女性と会っていることを知りました。その話はどうやら事実のようなので、離婚します。
地獄の業火に焚べるのは……
緑谷めい
恋愛
伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。
やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。
※ 全5話完結予定
婚約破棄寸前だった令嬢が殺されかけて眠り姫となり意識を取り戻したら世界が変わっていた話
ひよこ麺
恋愛
シルビア・ベアトリス侯爵令嬢は何もかも完璧なご令嬢だった。婚約者であるリベリオンとの関係を除いては。
リベリオンは公爵家の嫡男で完璧だけれどとても冷たい人だった。それでも彼の幼馴染みで病弱な男爵令嬢のリリアにはとても優しくしていた。
婚約者のシルビアには笑顔ひとつ向けてくれないのに。
どんなに尽くしても努力しても完璧な立ち振る舞いをしても振り返らないリベリオンに疲れてしまったシルビア。その日も舞踏会でエスコートだけしてリリアと居なくなってしまったリベリオンを見ているのが悲しくなりテラスでひとり夜風に当たっていたところ、いきなり何者かに後ろから押されて転落してしまう。
死は免れたが、テラスから転落した際に頭を強く打ったシルビアはそのまま意識を失い、昏睡状態となってしまう。それから3年の月日が流れ、目覚めたシルビアを取り巻く世界は変っていて……
※正常な人があまりいない話です。
仮面王の花嫁
松雪
恋愛
婚約者を腹違いの妹に奪われ、新しい相手も見つからず修道院に行く覚悟を決めたルチア。修道女となるため髪を切った日の夜、王城から「国王がルチアを妻に望んでいる」という書簡を持った使者がやって来た。
しかし、従兄弟であり恋仲だったニールが国王のせいで死に至った過去を持つルチアは、国王からの求婚を喜べずーー。
捨てられた私は遠くで幸せになります
高坂ナツキ
恋愛
ペルヴィス子爵家の娘であるマリー・ド・ペルヴィスは来る日も来る日もポーションづくりに明け暮れている。
父親であるペルヴィス子爵はマリーの作ったポーションや美容品を王都の貴族に売りつけて大金を稼いでいるからだ。
そんな苦しい生活をしていたマリーは、義家族の企みによって家から追い出されることに。
本当に家から出られるの? だったら、この機会を逃すわけにはいかない!
これは強制的にポーションを作らせられていた少女が、家族から逃げて幸せを探す物語。
8/9~11は7:00と17:00の2回投稿。8/12~26は毎日7:00に投稿。全21話予約投稿済みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる