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臭気と香気
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セットの崩れた髪と不精ヒゲ、着崩れたシャツとシワまみれのスーツのパンツ。そんな姿の幸二を前に、紗江子は身動きが取れなくなった。
「随分と遅かったな、仕事で泊まり込みになったのか?」
「……」
笑顔で投げかけられた言葉に、返事ができない。
「まあ、部屋も散らかってるし、忙しかったんだな」
「……」
「でも、このくらいなら許容範囲だから大丈夫だよ」
幸二は当然のように喋り続けるが、まったく状況が理解できない。
「……どうしたんだ、ずっと黙り込んで?」
「……なんで、ここにいるの?」
ようやく絞り出した声で問い返すと、幸二は笑顔を歪ませた。
「なぜって、婚約者の家にいくのに、いちいち連絡が必要か?」
一方的に破棄したくせに、何を今更。そんな言葉を必死に堪えた。今下手に刺激したら何が起こるか分からないし、そんな言い争いをしたいわけではない。
「そうじゃなくて、なんで部屋に入れたの?」
「え、だって鍵は開いてただろ」
「……え?」
「とぼけなくてもいいよ。合い鍵を持ってない俺がいつ来てもいいように、開けておいてくれたんだろ?」
そんなはずはない。
金曜の夜、泊まりの荷物を持ってここを出たとき、たしかに鍵をかけたはずだった。
「ははは。紗栄子のそういう一途なところ、やっぱり可愛いね」
歪んだ笑顔を浮かべたまま、幸二は近づいてくる。
逃げないと。そう思ったときにはすでに、歪んだ笑顔が目の前にあった。
アルコールと皮脂と汗が混じった臭いが、嫌でも漂ってくる。
「少し自分勝手なところも、今では可愛いと思うよ」
そんな言葉とともに、汗ばんだ手が頬に触れた。嫌な感触と臭気に、吐き気が込み上げる。一刻も早くこの距離から逃げ出したい。少し前までは、なんとも思わなかったのに。
「紗江子、愛してる」
近づいてくる顔に、全身が粟立つ。
そして――
「……っ、やめて!」
――とっさに頬を張っていた。
「……紗江子?」
幸二は頬をさすりながら、呆然とした表情を浮かべている。それが無性に、癇に障った。
「……今更なんなの!? 一方的に婚約を破棄したのは、そっちじゃない!」
怒鳴りつけられて、幸二は目を見開いた。今まで喧嘩をしても、紗江子の方から折れて、声を荒らげることはなかった。
「後輩にちょっと親切にされたからって勘違いして調子に乗って……、現実を突き付けられたら、被害者面して『可哀想なボクを慰めて』? ふざけるのも大概にして! 自分勝手なのはどっちよ!?」
「う……」
反論をしようとした幸二だったが、言葉がうまくまとまらない。ただ、視点の定まらない目をして、小さなうめき声を出すだけだった。
「私にはもう、幸二なんかと違って、優しい恋人がいるの! 二度と顔を見せないで……」
「なんだとっ!?」
「きゃぁっ!?」
突然、紗栄子は肩を掴まれ、扉に強く押しつけられた。
「俺という婚約者がいながら、他の男に手を出されたのか!? この――!!」
猥雑な罵り言葉とともに、手に力が込められる。肩に指が食い込む痛みに、うっすらと涙が浮かんできた。
「久しぶりだから優しくしてやろうと思ったけど……、少し痛い目を見せないといけないみたいだな」
口元を歪ませた笑みが間近に迫り、指がさらに肩に食い込んでいく。
誰か助けて。
そう祈りながら、目を閉じると――
「紗江子さん! 大丈夫ですか!?」
――扉の外から、誠の声が響いてきた。
「……ん?」
幸二は眉をひそめて、ほんの少し手の力を緩める。
その一瞬の隙を紗栄子は見逃さなかった。
「っ放して!!」
「うぐっ!?」
渾身の力を込めて、膝で蹴り上げる。すると、当たりどころが悪かったのか、幸二は肩から手を離し、うめき声をあげてうずくまった。
そんな様子に目もくれずに、扉を開け放ち外へ飛び出す。その先には、焦った表情の誠が立っていた。
「紗江子さん!?」
「神谷さん!」
なりふり構わず、紗栄子は誠に抱きついた。身体が温かな腕と、リンゴに似た香りに包まれる。
「……無事で、本当によかった」
優しい声とともに抱き返され、骨張った手が頭をなでた。その途端、今まで堪えていた震えが、全身を襲った。
「怖かった、です……」
「もう、大丈夫ですよ」
誠は宥めるような口調でそう言うと、抱き寄せる腕に力を込める。
それから、誠は紗江子を抱きしめ、頭をなで続けた。
身体の震えが落ち着いてくると、紗栄子は再び誠にキツく抱きついた。
「ドアを開けたら、幸二が部屋の中にいたんです……。それで、ちょっと言い合いになって、それからドアに叩きつけられて……」
状況を説明するうちに、再び身体が微かに震え出した。誠はそれを落ち着かせるように、背中をぽんぽんとなでた。
「そうでしたか……、それなら戻ってきて正解でしたね」
「すみません……、神谷さんはちゃんと忠告してくれてたのに……」
「紗栄子さんが謝ることじゃないですよ。悪いのはすべて、あの男です。なので……」
誠はそこで言葉を止めると、玄関の扉に顔を向けた。
「……キッチリと落とし前をつけさせないと、いけないですね」
そう言い放つ顔に、身の毛もよだつほど冷たい笑みが浮かぶ。
しかし、心地よい香りのする胸に顔を埋める紗江子に、誠の表情を知るすべはなかった。
「随分と遅かったな、仕事で泊まり込みになったのか?」
「……」
笑顔で投げかけられた言葉に、返事ができない。
「まあ、部屋も散らかってるし、忙しかったんだな」
「……」
「でも、このくらいなら許容範囲だから大丈夫だよ」
幸二は当然のように喋り続けるが、まったく状況が理解できない。
「……どうしたんだ、ずっと黙り込んで?」
「……なんで、ここにいるの?」
ようやく絞り出した声で問い返すと、幸二は笑顔を歪ませた。
「なぜって、婚約者の家にいくのに、いちいち連絡が必要か?」
一方的に破棄したくせに、何を今更。そんな言葉を必死に堪えた。今下手に刺激したら何が起こるか分からないし、そんな言い争いをしたいわけではない。
「そうじゃなくて、なんで部屋に入れたの?」
「え、だって鍵は開いてただろ」
「……え?」
「とぼけなくてもいいよ。合い鍵を持ってない俺がいつ来てもいいように、開けておいてくれたんだろ?」
そんなはずはない。
金曜の夜、泊まりの荷物を持ってここを出たとき、たしかに鍵をかけたはずだった。
「ははは。紗栄子のそういう一途なところ、やっぱり可愛いね」
歪んだ笑顔を浮かべたまま、幸二は近づいてくる。
逃げないと。そう思ったときにはすでに、歪んだ笑顔が目の前にあった。
アルコールと皮脂と汗が混じった臭いが、嫌でも漂ってくる。
「少し自分勝手なところも、今では可愛いと思うよ」
そんな言葉とともに、汗ばんだ手が頬に触れた。嫌な感触と臭気に、吐き気が込み上げる。一刻も早くこの距離から逃げ出したい。少し前までは、なんとも思わなかったのに。
「紗江子、愛してる」
近づいてくる顔に、全身が粟立つ。
そして――
「……っ、やめて!」
――とっさに頬を張っていた。
「……紗江子?」
幸二は頬をさすりながら、呆然とした表情を浮かべている。それが無性に、癇に障った。
「……今更なんなの!? 一方的に婚約を破棄したのは、そっちじゃない!」
怒鳴りつけられて、幸二は目を見開いた。今まで喧嘩をしても、紗江子の方から折れて、声を荒らげることはなかった。
「後輩にちょっと親切にされたからって勘違いして調子に乗って……、現実を突き付けられたら、被害者面して『可哀想なボクを慰めて』? ふざけるのも大概にして! 自分勝手なのはどっちよ!?」
「う……」
反論をしようとした幸二だったが、言葉がうまくまとまらない。ただ、視点の定まらない目をして、小さなうめき声を出すだけだった。
「私にはもう、幸二なんかと違って、優しい恋人がいるの! 二度と顔を見せないで……」
「なんだとっ!?」
「きゃぁっ!?」
突然、紗栄子は肩を掴まれ、扉に強く押しつけられた。
「俺という婚約者がいながら、他の男に手を出されたのか!? この――!!」
猥雑な罵り言葉とともに、手に力が込められる。肩に指が食い込む痛みに、うっすらと涙が浮かんできた。
「久しぶりだから優しくしてやろうと思ったけど……、少し痛い目を見せないといけないみたいだな」
口元を歪ませた笑みが間近に迫り、指がさらに肩に食い込んでいく。
誰か助けて。
そう祈りながら、目を閉じると――
「紗江子さん! 大丈夫ですか!?」
――扉の外から、誠の声が響いてきた。
「……ん?」
幸二は眉をひそめて、ほんの少し手の力を緩める。
その一瞬の隙を紗栄子は見逃さなかった。
「っ放して!!」
「うぐっ!?」
渾身の力を込めて、膝で蹴り上げる。すると、当たりどころが悪かったのか、幸二は肩から手を離し、うめき声をあげてうずくまった。
そんな様子に目もくれずに、扉を開け放ち外へ飛び出す。その先には、焦った表情の誠が立っていた。
「紗江子さん!?」
「神谷さん!」
なりふり構わず、紗栄子は誠に抱きついた。身体が温かな腕と、リンゴに似た香りに包まれる。
「……無事で、本当によかった」
優しい声とともに抱き返され、骨張った手が頭をなでた。その途端、今まで堪えていた震えが、全身を襲った。
「怖かった、です……」
「もう、大丈夫ですよ」
誠は宥めるような口調でそう言うと、抱き寄せる腕に力を込める。
それから、誠は紗江子を抱きしめ、頭をなで続けた。
身体の震えが落ち着いてくると、紗栄子は再び誠にキツく抱きついた。
「ドアを開けたら、幸二が部屋の中にいたんです……。それで、ちょっと言い合いになって、それからドアに叩きつけられて……」
状況を説明するうちに、再び身体が微かに震え出した。誠はそれを落ち着かせるように、背中をぽんぽんとなでた。
「そうでしたか……、それなら戻ってきて正解でしたね」
「すみません……、神谷さんはちゃんと忠告してくれてたのに……」
「紗栄子さんが謝ることじゃないですよ。悪いのはすべて、あの男です。なので……」
誠はそこで言葉を止めると、玄関の扉に顔を向けた。
「……キッチリと落とし前をつけさせないと、いけないですね」
そう言い放つ顔に、身の毛もよだつほど冷たい笑みが浮かぶ。
しかし、心地よい香りのする胸に顔を埋める紗江子に、誠の表情を知るすべはなかった。
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※小説家になろうさま・カクヨムさまにも掲載しています。
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