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憚れ!
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気がつくと、白い空間に横たわっていた。
目の前では、懐かしい顔が首をあらぬ方向に曲げながら、相変わらずこちらをのぞき込んでいる。
しばらく何もせず対峙していたが、彼女は身を屈めて悲しげな顔をしながら、そっと手を差し伸べた。
いつもなら、ここで彼女の手を取っていた。しかし、それを遮るように遠くから声が響く。
生きてください
不意に彼女が身を起こして振り返る。どうやら、彼女の耳にもその声が聞こえたようだ。
再びこちらに向き直り、彼女は安堵の表情を浮かべる。
ごめん、一緒に行けなくて
ううん、よかったね
唇をかすかに動かし微笑むと、彼女は踵を返してヒタヒタと足音を立てながら去っていった。
遠ざかる足音に重なって、こちらに近づく足音が聞こえてくる。足音は耳元まで来くると、ピタリと止んだ。
見上げると穏やかな微笑みを浮かべて、手を差し伸べる姿が目に入った。
その手に向かって爛れた手を伸ばすと、柔らかく温かい感触が伝わる。
「まひゃひょひひゃん。いひゃいれす」
気の抜けた声に目を覚ますと、困惑した表情のたまよの頬を掴んでいた。
「……すまない」
謝りながらゆっくりと手を離すと、たまよは頬をさすりながら苦笑した。
「いえいえ、お気になさらずに。それよりも、今日の夢はあまり怖くなかったみたいですね」
そう言いながら、たまよは薄く汗の滲む額をタオルで拭き始めた。
「そうだな」
今までは、幸絵の手を取り身体がバラバラになって夢が終わっていたが、今朝は違った。昨日のたまよの言葉が影響しているのは間違いないだろう。
ゆっくりと上体を起こすと、たまよがタオルを持った手をそっと離す。
「たまよのおかげだな」
「そう仰っていただけると、嬉しいです」
昨日はどうなるかと思ったが、たまよは今、目の前で微笑んでいる。背中に手を回して抱き寄せると、胸に柔らかさと温かさが伝わる。
「あ、あの、正義さん?」
頬を染めたたまよが、困惑した声を出した。
「不思議なものだな。こんなに柔らかいのに、怪我ひとつ無かったのは」
「は、はい、身に危険が迫った時には、元の姿の防御力を発揮できるみたいですが、今は安全な場所なので……」
そうか、とだけ答えて髪を撫でると、少し硬めの滑らかな手触りが掌に伝わる。言葉どおり、たまよには膝を抱えて丸まろうとする気配すらない。
「……安全だと言うなら、もう少しだけ、このままでもいいか?」
抱きしめる腕の力を強めて問いかけると、たまよは耳まで紅潮させながら、小さく頷いた。
あともう少しだけ、この時間が続いて欲しいと願ってしまう。
「ただ……ご飯の支度が出来たので、そろそろ……」
たまよが気まずそうにそう言うと同時に、寝室のドアが勢いよく開いた。
「たまよちゃん!お腹すいたなり!」
そこから、騒々しい声を出しながら、腰までの長い髪に盛大な寝ぐせをつけた人事課長が藍色の寝間着姿で現れた。人事課長はこちらを見て一度目を見開くと、すぐさまニヤニヤとした笑みを浮かべた。
たしかに、あともう少しだけ、とは願ったけれども……
「ひゅーひゅー、お若いってのは良いなりねー」
囃し立てる言葉を受けて、たまよをそっと腕から放した。昨日の流れで、ここに泊まりに来ていたのをすっかりと忘れていた。
「すみません、ウルトラミラクルエレガントな課長さん。今から正義さんも連れて、そちらに行きますので」
顔を赤くしたたまよが襟元を正して頭を下げると、人事課長はニヤニヤとした表情のまま、構わないよ、と答えた。
「きゃっ!やっぱりひがみんてば、ムッツリすけべさんなんだから★」
「……茶化さないでください」
「へぇ、否定はしないの……ねん!?」
ニヤニヤとした人事課長が、不意に素頓狂な悲鳴をあげて、顔をのけぞらせた。
「師匠!御夫婦の寝室にノックもなしに入るなどと!ハレンチ千万ですぞ!!」
どうやら繭子が後ろから髪を引いたらしく、人事課長の背後からよく通る声が響いてくる。
不審者を叱ってくれるのはありがたいが、その叱り方はどうなのだろうか。
「ともかく、もう少ししたら行きますので、先に食卓についていてください」
繭子に叱られてしょげた顔をする人事課長にそう告げると、しょげた表情のまま、はーい、という力ない返事がきた。子供に叱られたうえに、本気で落ち込む大人もどうなのだろう。
「で、では私も先に行って用意をしていますね」
ダイニングに向かう二人の後を、たまよも急ぎ足で追いかけた。
「そうそう、正義さん」
寝室の入り口でたまよが急に立ち止まり、こちらに振り返る。
「どうした?」
「水族館のこと、覚えていてくださっていますか?」
問いかける微笑みがどこか不安げに見え、精一杯の笑顔を返した。
「ああ、絶対に連れて行くから、安心しろ」
「ありがとうございます。約束、ですからね」
たまよの表情から、不安の色が薄くなる。何があっても、約束は違えないようにしよう。
しばらく眠気を覚ましてからダイニングに向かうと、人事課長が食卓の席に座り、灰色の浴衣と白い割烹着を着たたまよと、紺色のワンピースを着て黄色いエプロンをつけた繭子が食事を運んでいた。
「ひがみん、遅いなりよー」
「師匠!お行儀が悪いですぞ!」
盛大な寝癖は直したが寝間着のままの人事課長が頬を膨らませて頬杖をつき、繭子がそれを叱った。しょげる人事課長を見ながら向かいの席につくと、繭子が背伸びをしながら白菜のサラダを食卓に置いた。
朝から2回も子供に叱られて落ち込むのは、社会人として本当にどうなのだろうか。
まあ、人事課長の落ち込んだ表情という滅多に見られないものを1日に2回も見られたのは、感慨深いけれども。
「ひがみん、今凄く失礼なこと考えたでしょ?」
「いえ、気のせいですよ」
恨めしそうな表情を向ける人事課長の前に、たまよが来客用の小鉢を置いた。
「元気を出してください、ウルトラミラクルエレガントな課長さん。リクエストをいただいた人参のぐらっせもありますから」
たまよの言葉で、人事課長の表情が一気に明るくなる。
「たまよちゃんありがとう!最近、繭子があんまり作ってくれなかったから嬉しいなり★」
「師匠が追加でザラメをかけようとするからです!」
繭子の言葉に、思わず胸焼けがした。グラッセ単体でもかなりの甘さだというのに、それにザラメかけようとするとは……
「えー、だって甘い方が美味しいしー」
唇を尖らす人事課長の前には、白菜のサラダ、人参のグラッセ、昨夜朝食用にと持参した魚の甘露煮、玉子焼き、白菜の味噌汁、桜でんぶが大量にかけられた白飯が並べられていた。たまよの作る玉子焼きは甘めの味付けのため、サラダと味噌汁以外はほとんど甘いもの尽くしになっている。
「糖分を取りすぎてはなりませぬ、と毎日申しているのですが」
嘆息を吐いて、繭子が人事課長の隣の席に座る。若い身空でこの人の食事の管理をしていると思うと、不憫な気持ちになる。
「……言って差し上げるな、繭子。お年を召すと、甘いものが無性に食べたくなるそうだから」
「しかれども、ご年齢を考えると、あまりにも度を超すのはお身体に障りそうで……」
「二人ともナウでヤングなギャルに向って酷いのねん!」
年齢性別共に不詳の不審人物が言っても全く信憑性の無い死語を口にして、人事課長が頬を膨らませる。死語については、深く追求するまい。
「ウルトラミラクルエレガントな課長さんは、ナウでヤングだったのですか?」
死語を聞き流そうと心に決めた途端に、たまよがそう聞きながら俺の隣に座った。
「うん!ピチピチな永遠の16才なりよ★」
頬に手を当ててウィンクをする人事課長に、たまよが驚いた表情を向ける。
「そうだったんですか。私はてっきり、すたいりっしゅで円熟した立派な大人だと思っていました」
「スタイリッシュなのは、認めるなり★」
「年齢はともかく、子供に叱られて本気で落ち込むのは、立派な大人なのだろうか……」
思わず感想を口に出してしまったところ、人事課長から鋭い視線が向けられた。これ以上この話題を続けるのは、やめておこう。
「ともかく、朝食を頂こうか」
「頂きます!」
「いただきます★」
「どうぞ、召し上がれ」
しばらく4人で黙々と食事を続けていたが、不意に人事課長が玉子焼きを頬張りながら、こちらに視線を向けた。
「……何か?」
甘露煮を飲み込んでから尋ねると、人事課長は玉子焼きを飲み込んでから口を開いた。
「うん、今日のことだけど、あれから何か進展はあった?」
進展、か。
浦元が逃げ去ってから、万が一の事があるといけないということで、人事課長と繭子が家に泊まりに来ているが、幸いにも襲来は無かった。ただし、スマートフォンに、見慣れないアドレスで駅名と時刻だけが書かれたメールが送られていた。
「あのメール以外は、まだ何も無いですね」
そう告げて味噌汁に口をつけると、そうか、といつもよりも低い声の呟きが返ってきた。
「ひがみん氏、やはりお一人で行かれるのですか?」
そう聞いてから、繭子が白菜のサラダを口にした。
「まあ、警察に連絡するには情報が少なすぎるし、全員で向かうのも目立ちすぎるからな」
それに、またよを危険な目に合わせる事は、もうしたくない。我ながら笑えるくらいに、1週間弱で考え方が変わったと思うけれども。
ふと、たまよの方をみると、心配そうに眉をひそめて、こちらを見つめていた。
……どちらかと言えば、本心に正直になったと言うべきか。
「人事課長の依頼を完遂したら、すぐに警察に連絡を入れるから、そんな顔をしなくていい」
そう告げるとたまよは小さく、はい、とだけ呟いた。
「まあ、アタシも今日から夏休みだから、たまよちゃんの事はそんなに心配しなくても良いなりよ★」
人事課長はいつもの調子でそう言ってから、ただし、と低い声で続けた。
「殺生は絶対にしないこと。勿論、君自身も含めてね」
「……今日は、命のやり取りがどうの、という事をする気はないですよ。少なくとも、私としては」
その言葉に、隣から安堵の溜息が聞こえてきた。向かいで真剣な表情の繭子と、笑顔の人事課長が小さく2回頷く。
「ならば、良いなり★存分に、うぎゃあ、と言わせて来なさい★」
「お留守番は小生達に任せて、存分に御活躍くださいませ」
息の合った言葉に頭を下げると、隣から袖を引かれた。
「正義さん、正義さん」
「なんだ?」
と、聞いてみたが、いつもこの流れで、人に聞かれるのが憚られる話題が出ることが多いことに気がついた。ただ、今日は他2人がいるから大丈夫だとは思うけれども……
「無事に帰って来てくださるおまじないに、行ってらっしゃいのちゅう、をしてもよろしいでしょうか?」
……たまよを侮ってはいけなかったか。
向かいで繭子が慌てながら顔を赤くし、人事課長が心底楽しそうにニヤニヤしている。
「……少なくとも、今この場では、控えてくれ」
「へー。じゃあ、いつなら良いなりかー?」
「黙ってて下さい!このセクハラ人事課長!」
茶化す人事課長に声を荒げると、繭子がしどろもどろになりながら口を開いた。
「そそそそ、そうですぞ師匠!ご夫婦の愛の営みを茶化してはなりませぬ!」
フォローをいれているつもりなのだろうけれども……より事態がややこしくなる言い回しな気がする。
「……繭子も、少し落ち着いてくれ」
繭子は赤面したまま頷いて、黙り込んだ。これで事態が収束に向かうかと思ったが、隣を見ると、たまよが胸の辺りで箸を握りしめて、決意に満ちた表情をみせている。
「かしこまりました。では、人目につかない所でこっそりと、愛の営み、をいたします」
語感が気に入っただけだとは思うけれども……
「……もう、好きにしてくれ」
依頼の場所に向かってすらいないのに、ここまで疲弊するとは思わなかった。
食事を終え、身支度をし、たまよからのおまじないを受け、玄関に向かうと、背後からワイシャツの襟を掴まれた。
「ひがみん、ちょっと待ちなさい」
急に掴まれたため衝撃を受けた喉をさすりながら振り返ると、人事課長が神妙な面持ちで立っていた。その後ろには、たまよと、何かが蠢く虫かごを持った繭子が立っていた。
「普通に声をかけてくれれば、良いじゃないですか」
「ごめんね。一応、援軍を用意しておいたから。繭子」
人事課長が声をかけると、繭子が返事をして、こちらに進んできた。
「ひがみん氏、こちらを」
虫かごの中には、数匹の小さな蜈蚣が入っていた。
「殺生は禁止するけど、護身くらいなら許可するから」
用意してくれるのはありがたいが、たまよが怯えてしまわないかが不安だ。こちらの視線に気づいたたまよは、大丈夫ですよ、と口にして苦笑した。
「ただ、間違えてかじられたりしないでくださいね」
「心配するな、扱いには慣れているから」
そう告げて蜈蚣を忍ばせて、ドアノブに手をかけた。
「御武運を」
「無事に帰って来てくださいね」
「そうだな」
たまよと繭子の声に振り返らずに返事をして、ドアを開けた。
ドアの外は相変わらず、午前中だというのに、陽炎が立つほどの暑さだった。
目の前では、懐かしい顔が首をあらぬ方向に曲げながら、相変わらずこちらをのぞき込んでいる。
しばらく何もせず対峙していたが、彼女は身を屈めて悲しげな顔をしながら、そっと手を差し伸べた。
いつもなら、ここで彼女の手を取っていた。しかし、それを遮るように遠くから声が響く。
生きてください
不意に彼女が身を起こして振り返る。どうやら、彼女の耳にもその声が聞こえたようだ。
再びこちらに向き直り、彼女は安堵の表情を浮かべる。
ごめん、一緒に行けなくて
ううん、よかったね
唇をかすかに動かし微笑むと、彼女は踵を返してヒタヒタと足音を立てながら去っていった。
遠ざかる足音に重なって、こちらに近づく足音が聞こえてくる。足音は耳元まで来くると、ピタリと止んだ。
見上げると穏やかな微笑みを浮かべて、手を差し伸べる姿が目に入った。
その手に向かって爛れた手を伸ばすと、柔らかく温かい感触が伝わる。
「まひゃひょひひゃん。いひゃいれす」
気の抜けた声に目を覚ますと、困惑した表情のたまよの頬を掴んでいた。
「……すまない」
謝りながらゆっくりと手を離すと、たまよは頬をさすりながら苦笑した。
「いえいえ、お気になさらずに。それよりも、今日の夢はあまり怖くなかったみたいですね」
そう言いながら、たまよは薄く汗の滲む額をタオルで拭き始めた。
「そうだな」
今までは、幸絵の手を取り身体がバラバラになって夢が終わっていたが、今朝は違った。昨日のたまよの言葉が影響しているのは間違いないだろう。
ゆっくりと上体を起こすと、たまよがタオルを持った手をそっと離す。
「たまよのおかげだな」
「そう仰っていただけると、嬉しいです」
昨日はどうなるかと思ったが、たまよは今、目の前で微笑んでいる。背中に手を回して抱き寄せると、胸に柔らかさと温かさが伝わる。
「あ、あの、正義さん?」
頬を染めたたまよが、困惑した声を出した。
「不思議なものだな。こんなに柔らかいのに、怪我ひとつ無かったのは」
「は、はい、身に危険が迫った時には、元の姿の防御力を発揮できるみたいですが、今は安全な場所なので……」
そうか、とだけ答えて髪を撫でると、少し硬めの滑らかな手触りが掌に伝わる。言葉どおり、たまよには膝を抱えて丸まろうとする気配すらない。
「……安全だと言うなら、もう少しだけ、このままでもいいか?」
抱きしめる腕の力を強めて問いかけると、たまよは耳まで紅潮させながら、小さく頷いた。
あともう少しだけ、この時間が続いて欲しいと願ってしまう。
「ただ……ご飯の支度が出来たので、そろそろ……」
たまよが気まずそうにそう言うと同時に、寝室のドアが勢いよく開いた。
「たまよちゃん!お腹すいたなり!」
そこから、騒々しい声を出しながら、腰までの長い髪に盛大な寝ぐせをつけた人事課長が藍色の寝間着姿で現れた。人事課長はこちらを見て一度目を見開くと、すぐさまニヤニヤとした笑みを浮かべた。
たしかに、あともう少しだけ、とは願ったけれども……
「ひゅーひゅー、お若いってのは良いなりねー」
囃し立てる言葉を受けて、たまよをそっと腕から放した。昨日の流れで、ここに泊まりに来ていたのをすっかりと忘れていた。
「すみません、ウルトラミラクルエレガントな課長さん。今から正義さんも連れて、そちらに行きますので」
顔を赤くしたたまよが襟元を正して頭を下げると、人事課長はニヤニヤとした表情のまま、構わないよ、と答えた。
「きゃっ!やっぱりひがみんてば、ムッツリすけべさんなんだから★」
「……茶化さないでください」
「へぇ、否定はしないの……ねん!?」
ニヤニヤとした人事課長が、不意に素頓狂な悲鳴をあげて、顔をのけぞらせた。
「師匠!御夫婦の寝室にノックもなしに入るなどと!ハレンチ千万ですぞ!!」
どうやら繭子が後ろから髪を引いたらしく、人事課長の背後からよく通る声が響いてくる。
不審者を叱ってくれるのはありがたいが、その叱り方はどうなのだろうか。
「ともかく、もう少ししたら行きますので、先に食卓についていてください」
繭子に叱られてしょげた顔をする人事課長にそう告げると、しょげた表情のまま、はーい、という力ない返事がきた。子供に叱られたうえに、本気で落ち込む大人もどうなのだろう。
「で、では私も先に行って用意をしていますね」
ダイニングに向かう二人の後を、たまよも急ぎ足で追いかけた。
「そうそう、正義さん」
寝室の入り口でたまよが急に立ち止まり、こちらに振り返る。
「どうした?」
「水族館のこと、覚えていてくださっていますか?」
問いかける微笑みがどこか不安げに見え、精一杯の笑顔を返した。
「ああ、絶対に連れて行くから、安心しろ」
「ありがとうございます。約束、ですからね」
たまよの表情から、不安の色が薄くなる。何があっても、約束は違えないようにしよう。
しばらく眠気を覚ましてからダイニングに向かうと、人事課長が食卓の席に座り、灰色の浴衣と白い割烹着を着たたまよと、紺色のワンピースを着て黄色いエプロンをつけた繭子が食事を運んでいた。
「ひがみん、遅いなりよー」
「師匠!お行儀が悪いですぞ!」
盛大な寝癖は直したが寝間着のままの人事課長が頬を膨らませて頬杖をつき、繭子がそれを叱った。しょげる人事課長を見ながら向かいの席につくと、繭子が背伸びをしながら白菜のサラダを食卓に置いた。
朝から2回も子供に叱られて落ち込むのは、社会人として本当にどうなのだろうか。
まあ、人事課長の落ち込んだ表情という滅多に見られないものを1日に2回も見られたのは、感慨深いけれども。
「ひがみん、今凄く失礼なこと考えたでしょ?」
「いえ、気のせいですよ」
恨めしそうな表情を向ける人事課長の前に、たまよが来客用の小鉢を置いた。
「元気を出してください、ウルトラミラクルエレガントな課長さん。リクエストをいただいた人参のぐらっせもありますから」
たまよの言葉で、人事課長の表情が一気に明るくなる。
「たまよちゃんありがとう!最近、繭子があんまり作ってくれなかったから嬉しいなり★」
「師匠が追加でザラメをかけようとするからです!」
繭子の言葉に、思わず胸焼けがした。グラッセ単体でもかなりの甘さだというのに、それにザラメかけようとするとは……
「えー、だって甘い方が美味しいしー」
唇を尖らす人事課長の前には、白菜のサラダ、人参のグラッセ、昨夜朝食用にと持参した魚の甘露煮、玉子焼き、白菜の味噌汁、桜でんぶが大量にかけられた白飯が並べられていた。たまよの作る玉子焼きは甘めの味付けのため、サラダと味噌汁以外はほとんど甘いもの尽くしになっている。
「糖分を取りすぎてはなりませぬ、と毎日申しているのですが」
嘆息を吐いて、繭子が人事課長の隣の席に座る。若い身空でこの人の食事の管理をしていると思うと、不憫な気持ちになる。
「……言って差し上げるな、繭子。お年を召すと、甘いものが無性に食べたくなるそうだから」
「しかれども、ご年齢を考えると、あまりにも度を超すのはお身体に障りそうで……」
「二人ともナウでヤングなギャルに向って酷いのねん!」
年齢性別共に不詳の不審人物が言っても全く信憑性の無い死語を口にして、人事課長が頬を膨らませる。死語については、深く追求するまい。
「ウルトラミラクルエレガントな課長さんは、ナウでヤングだったのですか?」
死語を聞き流そうと心に決めた途端に、たまよがそう聞きながら俺の隣に座った。
「うん!ピチピチな永遠の16才なりよ★」
頬に手を当ててウィンクをする人事課長に、たまよが驚いた表情を向ける。
「そうだったんですか。私はてっきり、すたいりっしゅで円熟した立派な大人だと思っていました」
「スタイリッシュなのは、認めるなり★」
「年齢はともかく、子供に叱られて本気で落ち込むのは、立派な大人なのだろうか……」
思わず感想を口に出してしまったところ、人事課長から鋭い視線が向けられた。これ以上この話題を続けるのは、やめておこう。
「ともかく、朝食を頂こうか」
「頂きます!」
「いただきます★」
「どうぞ、召し上がれ」
しばらく4人で黙々と食事を続けていたが、不意に人事課長が玉子焼きを頬張りながら、こちらに視線を向けた。
「……何か?」
甘露煮を飲み込んでから尋ねると、人事課長は玉子焼きを飲み込んでから口を開いた。
「うん、今日のことだけど、あれから何か進展はあった?」
進展、か。
浦元が逃げ去ってから、万が一の事があるといけないということで、人事課長と繭子が家に泊まりに来ているが、幸いにも襲来は無かった。ただし、スマートフォンに、見慣れないアドレスで駅名と時刻だけが書かれたメールが送られていた。
「あのメール以外は、まだ何も無いですね」
そう告げて味噌汁に口をつけると、そうか、といつもよりも低い声の呟きが返ってきた。
「ひがみん氏、やはりお一人で行かれるのですか?」
そう聞いてから、繭子が白菜のサラダを口にした。
「まあ、警察に連絡するには情報が少なすぎるし、全員で向かうのも目立ちすぎるからな」
それに、またよを危険な目に合わせる事は、もうしたくない。我ながら笑えるくらいに、1週間弱で考え方が変わったと思うけれども。
ふと、たまよの方をみると、心配そうに眉をひそめて、こちらを見つめていた。
……どちらかと言えば、本心に正直になったと言うべきか。
「人事課長の依頼を完遂したら、すぐに警察に連絡を入れるから、そんな顔をしなくていい」
そう告げるとたまよは小さく、はい、とだけ呟いた。
「まあ、アタシも今日から夏休みだから、たまよちゃんの事はそんなに心配しなくても良いなりよ★」
人事課長はいつもの調子でそう言ってから、ただし、と低い声で続けた。
「殺生は絶対にしないこと。勿論、君自身も含めてね」
「……今日は、命のやり取りがどうの、という事をする気はないですよ。少なくとも、私としては」
その言葉に、隣から安堵の溜息が聞こえてきた。向かいで真剣な表情の繭子と、笑顔の人事課長が小さく2回頷く。
「ならば、良いなり★存分に、うぎゃあ、と言わせて来なさい★」
「お留守番は小生達に任せて、存分に御活躍くださいませ」
息の合った言葉に頭を下げると、隣から袖を引かれた。
「正義さん、正義さん」
「なんだ?」
と、聞いてみたが、いつもこの流れで、人に聞かれるのが憚られる話題が出ることが多いことに気がついた。ただ、今日は他2人がいるから大丈夫だとは思うけれども……
「無事に帰って来てくださるおまじないに、行ってらっしゃいのちゅう、をしてもよろしいでしょうか?」
……たまよを侮ってはいけなかったか。
向かいで繭子が慌てながら顔を赤くし、人事課長が心底楽しそうにニヤニヤしている。
「……少なくとも、今この場では、控えてくれ」
「へー。じゃあ、いつなら良いなりかー?」
「黙ってて下さい!このセクハラ人事課長!」
茶化す人事課長に声を荒げると、繭子がしどろもどろになりながら口を開いた。
「そそそそ、そうですぞ師匠!ご夫婦の愛の営みを茶化してはなりませぬ!」
フォローをいれているつもりなのだろうけれども……より事態がややこしくなる言い回しな気がする。
「……繭子も、少し落ち着いてくれ」
繭子は赤面したまま頷いて、黙り込んだ。これで事態が収束に向かうかと思ったが、隣を見ると、たまよが胸の辺りで箸を握りしめて、決意に満ちた表情をみせている。
「かしこまりました。では、人目につかない所でこっそりと、愛の営み、をいたします」
語感が気に入っただけだとは思うけれども……
「……もう、好きにしてくれ」
依頼の場所に向かってすらいないのに、ここまで疲弊するとは思わなかった。
食事を終え、身支度をし、たまよからのおまじないを受け、玄関に向かうと、背後からワイシャツの襟を掴まれた。
「ひがみん、ちょっと待ちなさい」
急に掴まれたため衝撃を受けた喉をさすりながら振り返ると、人事課長が神妙な面持ちで立っていた。その後ろには、たまよと、何かが蠢く虫かごを持った繭子が立っていた。
「普通に声をかけてくれれば、良いじゃないですか」
「ごめんね。一応、援軍を用意しておいたから。繭子」
人事課長が声をかけると、繭子が返事をして、こちらに進んできた。
「ひがみん氏、こちらを」
虫かごの中には、数匹の小さな蜈蚣が入っていた。
「殺生は禁止するけど、護身くらいなら許可するから」
用意してくれるのはありがたいが、たまよが怯えてしまわないかが不安だ。こちらの視線に気づいたたまよは、大丈夫ですよ、と口にして苦笑した。
「ただ、間違えてかじられたりしないでくださいね」
「心配するな、扱いには慣れているから」
そう告げて蜈蚣を忍ばせて、ドアノブに手をかけた。
「御武運を」
「無事に帰って来てくださいね」
「そうだな」
たまよと繭子の声に振り返らずに返事をして、ドアを開けた。
ドアの外は相変わらず、午前中だというのに、陽炎が立つほどの暑さだった。
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