ローリン・マイハニー!

鯨井イルカ

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怒れ!

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 吐き気をこらえながら見上げると、浦元が薄ら笑いを浮かべていた。
「あーあ、面倒だな。一回で終われば事故と言う事で片付けられたのに」
 状況がうまく飲み込めない。
「あれ、意外そうな顔してるな?直接危害を加えにくるとは、思わなかった?」
 早くたまよの側に行ってやらないと。まだ、助かるかもしれない。
「ははははは、泣きそうな面になってるじゃないか?大丈夫、カンガルーバー付いてるから車体にそんなにダメージ無いし、修理代なんて請求しないよ」
 さっきから耳障りな音が聞こえる。
「それに、即死だろうから苦しまなかったんじゃない?」
 雑音に構っていないで、早く、側に。
「轢き逃げってな、意外と逃げ切れるもんだぞ。前にも一回やったことがあるけど、目撃者もいなかったから、結局時効まで何事もなく過ごせたよ。ただ、時々に思い出して気持ち悪くはなるけどな。前回は結構グロい事になってたし」
 きっと、まだ間に合う。まだ

「おまけに、顔に気味の悪い模様もあったし」

 一瞬意識が途切れ、気がつけば、いやに冷静に浦元を車に押し付け、両手で喉を締め上げていた。手首に指をかけた浦元が、何か言いたげに口を動かしている。
「ああ、もう良いんですよ。どうせ即死で、助からないのですよね?」
 両手の力を強めると、手首にかけられた指の力も強くなる。痛みは感じないが、全くもって煩わしい。
「ならば、同じようなことが今後起きないように対策を取るのが、最優先事項です」
 たまよの側に行くのは、それからでも遅くないだろう。同じ所には、行けないだろうけれども。

「それでは、さようなら」

「やめてください正義さん!」
 不意に聞こえた声に、思わず手の力が緩んでしまった。顔を向けると、息を切らしたたまよが駆け寄ってくる。
「……たまよ?」
 手にしていたものを放り投げ、駆け寄った。まとめ髪は解けて、着物は多少汚れているが、傷一つ付いていない。
 頬に触れてみると、柔らかい感触が掌に伝わる。幻覚を見ている訳では無い。
「無事、なのか?」
「はい。ダンゴムシは、衝撃には強いですから。跳ね飛ばされるくらいなら、大丈夫ですよ」
 良かった。
「でも、下敷きになってしまっていたら、危なかっ……きゃっ!?」
「本当に良かった」
 抱き締める身体にも、温かさがある。断じて、幻覚などでは無い。
「あ、あの、正義さん……積極的になっていただけるのは、嬉しいのですが、少し息が苦しくて」
 慌てて胸から放すと、たまよは頬を紅潮させながら、襟元を正した。そして、穏やかな笑顔を見せる。無事だったから良かったけれども、もしも本当に言いかけた言葉通り、下敷きにでもなっていたら……
「……正義さん?」
「危険なことをするな!」
 安堵感が一段落し、無茶な行動への憤りが湧き、思わず声を荒げてしまった。しかし、たまよは少したじろいだが、おびえる様子は見せずに真剣な眼差しをこちらに向けた。
「正義さんの方こそ、早まったことをなさらないでください!」
 いつもの穏やかさからは想像できない剣幕の言葉にたじろいでいると、失礼いたしました、と呟いてからたまよは言葉を続ける。
「確かに浦元さんは悪い方なのかもしれませんが、そんな方だとしても傷つけたり、ましてや手にかけたりなさっては、正義さんはまた悲しくなってしまうのでしょう?」
「まあ……確かに、最悪な気分にはなるだろうな」
 たまよは、それならば、と呟いて肩を掴んでいた俺の手をそっと取ると、胸のあたりで包み込むように握った。
「誰かを手にかけるようなことは、なさらないでください」
 何も知らなければ、手を取り目を見つめるたまよの言葉に、素直に頷けたのかもしれない。
 返答に惑っていると、たまよはこちらの考えに気づいたように、悲しそうに目を伏せた。
「先程の浦元さんの言葉は、私にも聞こえました。その後に正義さんがお怒りになったのを見ると、幸絵さんの事故というのは、浦元さんが原因なのですね?」
 無言で頷くと、手を握る力が強くなる。
「幸絵さんがどう思うかは、確かめることはできないかもしれません。でも、少なくとも私は、正義さんが悲しくなってしまうことは、決して望みません」
 再び、たまよが真直に目を見つめた。掌からは、柔らかさと、温かさと、微かな震えが伝わる。
 浦元を許せるはずも無いが、ここで冷静さを欠いた行動をとっては、たまよに悲しい思いをさせてしまうのだろう。
 そんなことは、俺だって望まない。
「すまなかった。頭に血が上っていたとはいえ、軽率な行動だったな」
 謝るついでに額を合わせると、たまよは頬を染めて首を激しく横に振った。
「いえいえいえ!私も無事だったとは言え、無茶な行動や出過ぎた発言をしてしまいましたから」
 色々と片付けないといけない事はまだ有るが、ひとまずはたまよの無事を喜ぶことに専念しよう。
「ともかく、帰るとするか」
「はい。そう致しましょう」
 たまよは、ゆっくりと掌を外して微笑みながら頷いた。
「待てよ!」
 たまよの手を握り帰ろうとしたところ、後ろから怒鳴り声で呼び止められた。
 ああ、すっかり忘れていた。
「申し訳ありません、浦元課長。朴葉とフライパンを放り投げてしまっていたことをすっかり忘れておりました。呼び止めていただいてありがとうございます」
 振り返りながらにこやかに挑発してみると、喉元をさすりながら険しい形相をする浦元が目に入った。
「ふざけんな!このまま帰してやると思うのか!?」
 浦元は、今にも飛びかかって来そうな構えで、ジリジリと距離を詰めてくる。よく見ると、手には折りたたみ式ナイフを握っている。たまよもそれを確認したらしく、怯えた表情で腕にしがみついた。
 蛾でも群がらせて、怯ませているうちに、人通りの多い道まで逃げるか……しかし、錯乱してナイフを振り回しながら飛びかかられても厄介か。

「待たれよ!!」
 
 対処方法を画策していると、背後からよく通る幼い声が響き、下駄の音が近づいて来た。浦元は構えていた腕を下し、訝しげな表情を浮かべた。
下駄の音の方に軽く目を向けると、紫の蝶の柄をした白い浴衣に藤色のへこ帯を締めたポニーテールの少女が、八の字が書かれた丸型の弓張提灯を手にして近づいて来ている。少女は俺の隣で、歩みを止めた。
「繭子?」
「繭子さん?」
 思わぬ登場にたまよと驚いていると、繭子は一文字に結んでいた唇を開いた。
「ひがみん氏、あとは小生に」
 そして、小声でそう告げてから一礼すると、顔を上げ浦元に凛とした表情を向けた。
「貴様が浦元とやらか?」
 浦元もしばらく呆然としていたが、繭子の問いかけを受け、下卑た笑みを浮かべた。
「ああ、繭子ちゃんだっけか。物怖じしないのは良いことだけど、大人を呼び捨てにしちゃいけないな」
「あいにく、外道につけるべき敬称は存じ上げておらぬ故、ご容赦いただきたい」
 表情一つ変えず淡々と告げる繭子に、浦元が苛立ちの表情を浮かべる。
「このクソガキ」
「塵芥のような精神のまま、無駄に歳だけを重ねている輩よりはましかと」
 苛立ちを隠そうともしない浦元に対して、繭子は落ち着き払っている。しかし、あまり挑発すると危ない、と声をかけることさえ許さないような気迫に満ちてもいた。
「そんなことよりも、貴様の狙いは小生だったはずではあるまいか?斯様なことも忘れてしまうとは、なんともおめでたい脳髄なことだな」
 冷静に辛辣な言葉を続ける繭子に対して、浦元の表情が一気に怒りで歪む。
「大人をあまり怒らせるとどうなるか、教えてやらないといけないな!」
 浦元が青筋を立てながら、再びナイフを構える。咄嗟に繭子の持つ提灯に群がる毒蛾を使役しようとしたが、繭子は空いているほうの手を伸ばしてそれを制止した。
「然れば、小生も奥義をお見せいたそう」
「……奥義?」
 困惑した表情を見せる浦元を気にも留めず、繭子は大きく息を吸い込んだ。

「お巡りさん!助けてください!」

 そして、周囲に響き渡る程の大声でそう叫んだ。
 確かに、対峙した女児に叫ばれた時の諸々のダメージは、計り知れない台詞ではあるけれども……
 繭子以外の全員が呆気に取られていると、浦元の背後から白い自転車が猛スピードでこちらに向かってきた。目を凝らして確認してみると、自転車に乗っているのは一昨日公園で声をかけてきた、初老の警官だった。
「どうしましたか!?」
 警官は俺達と浦元の間に自転車を停めた。
「警官殿!助けてくだされ!ナイフを持った怪しい輩がいきなり父上に因縁をつけてきたのです!」
 先ほどとは打って変わって、繭子は動揺した表情と声をしながら自転車から降りた警官にしがみついた。
「君は一昨日の元気なお嬢さんだね。お巡りさんが来たから、もう大丈夫だよ」
 初老の警官は穏やかにそう言って繭子の頭をなでてから、毅然とした表情を浦元に向けた。そして、腰に差していた警棒を抜いて構えると、ゆっくりと浦元との距離を詰めていく。
「そのナイフ、刃渡り6センチをこえているよね?」
 口調こそ穏やかだが、圧倒的な気迫をまとう警官に、浦元の顔が見る見るうちに青ざめていく。
「……っくそ!」
 浦元がナイフを投げ捨てて逃げ出すと、警官は警棒をしまいこちらに向かって駆け寄った。
「すみません、すぐに後を追いますが、後ほどお話を聞かせていただくこともあるので、先にご連絡先をいただけますか?」
 取り急ぎ携帯電話番号を伝えると、警官は内容をメモを取ってから笑顔で会釈し、自転車にまたがった。
「待ちなさい!」
 そして、全速力で走り去っていった。ひとまず、危機は去ったようだ。
「行ってしまわれましたね」
「行ってしまわれましたな」
 繭子とたまよのまるで他人事のような言葉に、一気に脱力感に見舞われた。
「頼むから、繭子もあまり危険なことをしないでくれ」
「そうですよ、繭子さんに何かあったら悲しいですからね」
 ため息交じりに告げると、たまよも繭子の顔を覗き込みながら同調した。たまよも繭子のことを言えないとは思ったが、俺も盛大に軽率な行動をとってしまっていたのだから、蒸し返すのは止めておこう。
「相申し訳ない!しかし、ひがみん氏とたまよ女史に、危害を加えるような輩を捨て置くわけにはまいりませぬ故!」
 繭子は勢いよく頭を下げて弁解した。
 全く、無事だったから良かったものの、あのまま逆上した浦元に切りつけられでもしたらと思うと、肝が冷える。しかし、繭子が危険な目に遭っていたというのに、保護者は何をしているのか。
 肝心な時に現れない不審人物に憤慨していると、後頭部に重い痛みが走った。
「うわっ!?」
「きゃっ!?」
「ぬんっ!?」
 どうやら、ほかの二人も同じだったらしく、短い悲鳴を上げて後頭部を抑えている。
 出現するのが、遅すぎはしないだろうか。
「いきなり何をなさるのですか?」
 後頭部をさすりながら振り返ると、藍色の芙蓉柄をした白い浴衣に藍色の帯を締め、腰まである緩やかなウエーブの髪をおろした人物が、通の字が書かれた丸形の弓張提灯を手にして笑顔で立っていた。提灯を持っていない方の手は、胸のあたりで手刀の形で構えられている。
「何って、制裁のトリプル課長チョップ★」
「必殺技の名前を聞いているのではありません」
 後頭部をさすりながら抗議すると、人事課長は自分の頭を軽く小突いて舌を出した。
「メンゴメンゴ★でもね、若者が無茶な行動をしたら、叱ってやるのが年長者の務めだから」
 まあ、確かにここにいる全員、無茶な行動をとっていたけれども、他に注意の仕方があるのではないだろうか。
「ウルトラミラクルエレガントな課長さん、すみませんでした」
「師匠、誠に申し訳ございませぬ」
 釈然としない俺をよそに、たまよと繭子は素直に頭を下げた。その様子を見た人事課長は、満足げに微笑んで頷き、二人の頭を軽く撫でた。
「うんうん。たまよちゃんと繭子は、素直にごめんなさいができる良い子じゃのう」
 そして、白々しい口調でそう言いながら笑顔をこちらに向ける。
 言わんとしていることは分かるが、素直に謝るのは何か癪に障る。しかし、人事課長は笑顔のまま視線を外そうともしてくれない。
「……軽率な行動をとってしまい、申し訳ございませんでした」
「うん、ひがみんも良い子だね」
 頭上から通常の人事課長からは想像できないほど、穏やかな声が聞こえた。ゆっくりと頭を上げると、声と相違ない穏やかな微笑みを浮かべた人事課長に、頭をなでられた。
 呆然としていると、人事課長は撫でるのをハタと止めて、何か悪だくみを思いついたような表情を浮かべた。
 全くもって、嫌な予感しかしない。
「でも折角なら、誠に申し訳ございません人事課長様お詫びに今後は何でも言うことを聞かせてください、くらい言ってくれたら、もっと面白かったなり★」
「だから、人の声を真似て妙な台詞を吐かないでください!」
 抗議すると、人事課長は再び自分の頭を小突き、メンゴメンゴ、と言って舌を出した。この人は、相手をからかわずに、物事を終えることができないのだろうか。
 猛烈な脱力感には見舞われたが、色々と無茶をしたにもかかわらず、全員が無事だったことは僥倖か。
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