6 / 28
序章 異世界召喚
五話 居場所
しおりを挟む
深夜。
月明かりがカーテン越しに差し込む頃。俺は独りベッドの上で微睡みの中にいた。
一度は眠りについたものの、すぐに意識は覚醒し、眠れそうで眠れない。身体は重いのに、心だけが妙に冴えている。
「眠れねぇ……」
濃すぎる一日過ごした夜だ、仕方がない。俺は起き上がり、外の景色を眺める。
「異世界にも月はあるんだな」
知らない世界の知っているもの。それらを手繰り寄せて、物思いに耽る。
ふと、思い出すのは、あの夜のこと。
交通事故だった。あまりに、あっけない別れ。両親と、妹が乗っていた車が、大型トラックに巻き込まれて……それっきりだった。
それからは祖母と二人だけの暮らしになった。寂しさを抱えながらも、俺達は少しずつ日常を取り戻していった。
最初こそ俺を引き取った祖母を警戒していた。しかし、祖母の作る味噌汁の匂い。洗濯物を取り込む音。暖房も冷房も効きすぎていた部屋。全部に慣れて、居場所になった。
居場所。居場所、か。
思わず口の中で繰り返したその言葉に、苦笑いが漏れる。
その時だった。
とん、とん、とん。
扉が優しく叩かる。それは、まるで訪問したことに迷いがあるかのような遠慮がちな音だった。
しかし、静まり返った部屋にははっきりと響く。
「こんな夜中に、誰だ?」
ソフィアだろうか。もしかしたら、何かあったのかもしれない。
「はい」
俺は部屋の扉を開ける。
そして、扉の向こう側にいたその来訪客を見て、俺は目を疑った。
「……どうも。レン……さん」
そこに立っていたのは、他でもない——リオだった。
俺は思わず息を呑んだ。正直、ソフィアやデルタさん、他の子ども達だったのであればさほど驚かなかった。でも、彼は俺の存在を露骨に警戒していたはずだ。
そんな彼が、そこにいる。夜中に、自分から俺の部屋の前に。
「……どうした?」
そう問いかけると、リオは少しだけ目を逸らし、それからゆっくりと顔を上げた。その目には、昼間に見せていた敵意とは少し違う、葛藤の色が宿っていた。
「……話がある」
言葉は短く、それでも重みがあった。俺は扉をゆっくりと開ける。
「ええっと。とりあえず、中に入るか?」
リオは黙って頷いた。
そうして、俺は彼を部屋の中へと迎え入れた。
◇
リオは部屋の真ん中に立ち尽くしていた。居心地が悪そうに視線を彷徨わせ、何かを言いかけては飲み込む、そんな様子だ。
「ベッド、座る?」
「いや、別にいい」
「そっか」
しばらくの沈黙。その時間、部屋には息苦しさが充満していた。
一体、どんな用事があるのかと警戒していると、やがて、リオはまっすぐ俺を見つめた。
その瞳には、昼間と同じ、いや、それ以上の鋭さが宿っていた。
「ええと……」
困惑する俺に、リオは口を開く。
「レン……さん。アンタ、いつまでここにいるつもりだ」
その問いかけは、刃のように鋭く、俺の胸に突き刺さった。
返答に詰まる。言葉が簡単には見つからなかった。
けれど、リオは容赦しない。床を一歩踏みしめて俺の方へと近づき、低く、はっきりと告げた。
「記憶喪失なんて、嘘だろ?」
「……どうしてそう思ったんだ?」
慎重に言葉を返したつもりだったが、自分でもわかるほど声が硬かった。これはソフィアのことを言えないな……なんて思う余裕もないほどに俺は追い詰められている。
リオはそんな俺に、とどめの一言を放った。
「おれは聞いた。教会での、アンタとデルタさんの会話を」
その瞬間、心臓が跳ねた。
「アンタは、異世界から召喚された、"魔女"の……"魔物"の使いなんだろ?」
目の前の少年が放った言葉は、疑いではなく、確信だった。彼の中に在るのは真実であり、否定しようにも俺の言葉ではどうすることもできないとすぐに分かった。
何も言えずにいる俺を前に、さらに少年は一歩近づく。
「おれは嘘が嫌いだ」
彼の声は、低く静かだ。それなのに、俺の心臓に重く響く。
「おれは魔物が嫌いだ」
彼からは嫌悪感がドス黒く滲み出している。
リオは獣のように鋭い眼差しで俺を睨みつけていた。
「だから」
少年は続ける。
「おれはアンタが大嫌いだ」
憎しみを帯びながらも理性的に振る舞おうとしているのか、彼の声は静かで、争うつもりはないという風だ。
「……分かってはいるんだ。デルタさんは俺を助けてくれたみたいに、アンタも助けようとしているって」
「レン……さんが"魔物"の被害者かもしれないってことも、実はそんな悪い奴じゃないんじゃないかってことも……理性が感じ取ってる」
あんなに俺を睨みつけていた視線を逸らして、少年は捻り出すように言葉を発する。
「でも……ッ!」
また、あの鋭い視線が俺を突き刺す。
「もしかしたらって思うと、怖いんだよ! アンタが悪者だったら、デルタさんやみんなが酷い目にあったら……そう考えると止まらない……」
そして、彼は小さく、強く、叫んだ。
「おれの気持ちが感情が、理性以外の全部が……! アンタを認められないんだ……!」
それは彼が俺に寄り添おうと努力して、考えて、気付いたことなのだろう。
「だから、頼む。出ていってくれ……ほら、金ならやる。おれの全財産だ。10日くらいは宿屋にでも泊まれるだろうから……」
そう言って、少年はポケットから10枚ほどの銀貨を取り出した。
「……安息の地を、二度も……奪われたくないんだ」
ぽつりと漏れたその声は、小さく震えていた。
俺はその一言で全てを察した。
"カーリスの家"はリオにとってちゃんと"居場所"になっていたのだ。
俺にとっての祖母の家のように。
一度失って、差し伸べられた手を掴み、そうして出来た第二の居場所。
デルタさんはリオは少しずつ打ち解けてきている……なんて言っていたが、もう十分すぎるほどに、ここは彼にとっての居場所だった。
あぁ、よかった。リオは生きていけるのだ……と、彼の過去を人伝に聞いた俺は安堵する。
そして、葛藤。
俺は彼を脅かす存在だ。ソフィアやデルタさん、他のみんなが迎え入れてくれたとしても、彼にとって、俺は居場所を奪う悪者。……彼の両親を殺した人間と大差ない。
それをデルタさんのために譲歩した結論がこれなら、俺は断りたくない。何なら、そのお金だっていらない。
そう思っているはずなのに、簡単に頷くことができない。こういう時、自分の偽善が嫌になる。
それから、無言の数秒の後、やっと意を決して俺が口を開こうとしたとき。
ゴォォンゴォォン。
深夜に似つかわしくない、喧しい鐘の音が鳴り響いた。それは初めて聞いた俺にも分かる、異常事態の合図。
そして、鐘の音に続いて男の叫び声が聞こえてきた。
「"魔物"だ!!!!! "魔物"が出たぞお!!!!! 子どもを捕まえて、西の森に逃げていったぞお!!!!!」
その大きな声には聞き覚えがあった。エドさんだ。夕暮れ時にあった際にも、声が大きいと思っていたが、今その時の数倍の声量で危機を伝えて回っている。
「なにが、起こってるんだ……?」
子どもが魔物に誘拐された?
あまりにも突然の出来事で俺はまだ飲み込めずにいた。
ただ、この異常事態、俺達も何とか手伝わなければならない。
「リオ、ごめんだけれどこの話はまた後で……」
そう言って、俺がリオに目を向けた時、彼の表情は今までに見たこともないものになっていた。
彼の顔に浮かぶのは抑えていたものが全て吐き出されたような、憤怒の感情。怒りを剥き出しに、彼は俺を睨みつけていた。
「もしかしたらが、起こっちまった」
その言葉の重みに、俺の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「アンタのせいだろ?」
「え……?」
俺はリオを見返す。彼の瞳は信念に満ちていた。怒りと恐怖に裏打ちされた、確かな確信。
「アンタが魔物を呼び寄せたんだ」
突きつけられたその言葉は、全くの勘違いだ。いや、そう言い切れる確証も俺には無いが、少なくとも俺は魔物を呼び寄せた覚えはない。
「クソッ! デルタさんは甘かった! おれがもっと早くアンタを追い出していれば……!」
拳を握り締めながら、リオは奥歯を噛みしめていた。その肩は震えている。
「リオ、何か誤解を——」
俺が慌てて言葉を継ごうとした、その瞬間。
「うるさい!!! この、魔物の使いめッ!!!!!」
リオの怒声が、夜の静寂を引き裂く。
また、俺は何も言い返せなかった。彼の目にはもはやそんな俺は映っていない。
彼の瞳には、幼さと決意がない交ぜになった、混じり気のない激情が燃えていた。
「ッ!」
彼は部屋の扉を蹴破り、開け放たれた扉の向こうへと一気に駆け出した。
「リオ!」
俺の声は届かない。背を向けたその姿には、迷いも、躊躇もなかった。
「待って!!!」
俺は彼を追いかけたが、彼の背には届かない。廊下を駆け抜け、階段を跳び越え、玄関の扉を叩きつけるように開けて、冷たい夜風の中へ飛び出した。
止められない。届かない。
少年は闇夜へと消えていった。
◇
もう、彼の背中は見えなくなった。しかし、行先は分かる。
魔物が子どもを連れて逃げ込んだ西の森。方向感覚のない俺には西がどちらか分からないが、村の周りに森と呼べそうな場所はソフィアが突然走り出した、あの場所くらいしかなかった。
だから、夕方に通った道を逆行して俺は森を目指して走った。
そして、村の出口を抜けようという瞬間に、誰かに腕を掴まれる。
「待て! にいちゃん! そっちは危険だ!!!」
強く腕を引かれて、俺は足を止める。
振り返ると、そこにはエドさんがいた。顔に泥が跳ね、肩で息をしている。おそらく、魔物が来たことを伝える為、村中を駆け回って叫んでいたのだろう。
「はぁ……にいちゃん、聞いてなかったのか……はぁ……そっちには、魔物がいるんだ……! だから、戻るんだ!」
そこまで言うと「ぐぅッ……!」と呻き声をあげてしゃがみ込む。
そういえば、この人、腰を痛めているのだった。そんな中で、必死に村に危機を知らせていたのか。
「……大丈夫ですか?」
「オレん事はいいから!早く、孤児院に戻りな!」
その怒気に気圧される。しかし、このまま帰るわけにはいかない。俺はエドさんに現状を伝える。
「……リオが森の方へ向かったんです」
俺の言葉に、エドさんの目が見開かれた。
「何っ!? あの子が!? たったひとりでか!?」
呻くように立ち上がりかけ、また膝をついた。今にも走り出しそうなその姿勢には、限界を超えた焦燥がにじんでいる。
「チクショウ……! 子どもが無茶しやがって!」
エドさんがどれほど強いのかはわからない。外見から見て頑強そうではあるが、今の彼に無理をさせるわけにはいかない。
それに……
「俺が、なんとかする」
ぽつりと口から溢れた言葉は、俺の決意であった。
エドさんにそれは聞こえていなかったようで、腰を摩りながらこちらを見て俺に問いかけてくる。
「おい。デルタはその事、知ってるのか?」
「いや、分からないです。走っていくリオを追いかけて来たので……」
「そうか、分かった。じゃあ、レン。アンタはデルタに状況を伝えに——」
俺はエドさんの言葉を遮るように首を振った。
「……いいえ。俺が行きます。リオの所に」
俺の言葉を聞いたエドさんの顔に、驚きと戸惑いが浮かぶ。
「何言ってんだ……! アンタ、"武機"も持ってねぇし、記憶もねぇんだ! そんなヤツが生身で魔物とやり合えるわけがねぇ! 下手すりゃ死ぬんだぞ! 分かってんのか!?」
そう声を荒げるエドさんに、俺は真正面から向き合う。
「お願いします。行かせてください」
そう、はっきりと答えた。
「ガキが青臭いこと言いやがって……!」
驚きや心配といった感情を通り越して、エドさんは俺に怒りを向ける。それでも、俺は折れない。
「あの子は……リオは俺を警戒していた。俺のせいで、不安になって、暴走したんです。……全部俺のせいだ。だから、俺が行って、俺が助けなきゃいけない……!」
彼は居場所を守ろうと必死で、そんな彼の気を動転させて、魔物の元に走らせたのは俺という存在だ。
ならば、俺が彼を放って安全な場所でじっとなんかしていていいわけがない。
そして、数秒の沈黙の後、エドさんが急に声を上げた。
「あぁ、ちくしょうっ! オレはそういう目に弱えんだ……! ちょっと待ってろ!」
エドさんはそう言って、危うい足取りで彼の店へと走っていく。そして、数分もせずに息を切らしながら戻って来て、何かの入った革製の小袋を俺に差し出してきた。
「これは……?」
「ぜぇ……はぁ……開けてみろ」
彼に言われた通り、俺は袋を開けて中を見る。中には、手に収まるくらいの球状の何かが3個ほど入っていた。
「そりゃ、とっておきだ」
エドさんはそう言って、ニヤリと笑う。
「いいか、使い方はこうだ……」
彼の説明は短く、的確だった。
俺は聞きながら、思わず眉をひそめた。
「なるほど……これなら、俺でも使えそうだ」
「あぁ、コイツがあれば、戦いは避けられるはずだ。いいか? 絶対に正面からぶつかったりするな。魔物は化け物だ」
俺は頷き、感謝を述べる。
「ありがとうございます……でも、頂いていいんですか?」
俺がそう尋ねると、エドさんはしばらく黙っていた。
泥と汗で汚れた手で、ぎこちなく頭を掻きむしる。その仕草はどこか照れ隠しのようでもあり、不安を押し込めるようでもあった。
「ツケにしておく。駄賃は——アンタらの無事だ」
エドさんはそう言って、革袋を俺の胸にぐっと押しつける。
「デルタにはオレが伝えてくる。レン、アンタはリオとガキどもを助けに行ってこい」
彼の手が、俺の背を強く叩く。その一撃は、俺の身体を前へと押し出した。
「生きて帰れよ!!!」
夜の静寂を裂くように響いたその声は、どこまでも真っ直ぐな優しさに満ちていた。
「ありがとうございます」
俺は彼の言葉に背中を預けるように、一歩を踏み出す。
そして、森に向かって走り出した。
◇◇◇
あぁ……クソ! クソクソクソクソ! クソが! どうして、こうなっちまった。どうしてこうなっちまったんだ!
夜の村を抜け、おれは後悔と怒りに押しつぶされそうになりながら、必死で走っていた。冷たい夜風に頬が切れるように痛い。足も、もう限界だ。でも、止まれない。
西の森に魔物が生息している、なんて話は聞いた事がなかった。
……アイツが。レンが呼び寄せたんだ。それ以外、考えられない。あり得ない。
そして、呼び寄せられた魔物が村の子どもを連れ去った。
だから、おれは走る。迷ってる暇なんてない。叫んでる時間もない。
「……また、奪われてたまるかよ」
視界の端で木々が猛スピードで流れていく。枝が頬を掠め、地面の石に何度も足を取られかける。それでも、おれは止まらない。
森の奥から、微かに聞こえる子どもの泣き声。それを頼りに必死で走る。
東奔西走。もはや、自分がどこから来たかも分からない。しかし、そんな思考は投げ出して辺りを探る。
「ッ、どこだ……!」
微かに聞こえていたはずの子どもの泣き声が、いつの間にか止んでいた。
嫌な想像が脳裏をよぎり、焦りが喉をしめつける。
「早く……見つけねぇと!」
そうして、また一歩踏み出す、その時だった。
「ギィ……」
森の奥から、何かが軋むような乾いた音が響いた。木の枝がこすれ合う音とは違う。動物の声とも違う。もっと、異質で、不快で、耳にへばり付く音。
おれはその音に聞き覚えがあった。
「ギィ……ギィイィッ!」
まるで、錆びた歯車が無理やり回るかのような耳障りな音色。
おれは音のなる方へと、静かに近寄る。
「ギィ……ギギギギギ!!!」
木々の隙間から、音を鳴らす者の姿がチラリと見える。
「ギギギギギ!!!」
数体いるその魔物は、笑うような鳴き声を発しながら、ずるずると2人の子どもを引き摺って歩いている。
「あ、あぁ……」
あの日の光景がフラッシュバックする。
…
おれ達家族は貧乏で、村のみんなに比べたら貧しい暮らしをしていた。
ろくな財産もなく、いつもギリギリの暮らしで、村でははぐれもの扱いも受けてきた。
しかし、それでも、おれは自分が不幸だなんて思ったことはなかった。
父さんはいつでもおれを見てくれていたし、母さんはどんなに疲れていても笑顔を絶やさなかった。
狭い家でみんなでくっつくようにして寝て、粗末な夕飯を囲みながら他愛もない話をした。
そんな時間がなにより暖かくて、ずっと続けばいいと思っていた。
思っていたのに。
あの日は、朝早くから家を出て、遠く離れた街まで歩いて行った。おれ達家族が大切に育てた野菜を売るためだ。
けれど、街の人々は見慣れない顔に足を止めることは少なく、野菜は思ったほど売れなかった。
何時間も立ち尽くしていた足は重く、空の籠を肩にかけた帰り道は、ずっと遠く感じた。
そんな時だった。
「村のほうに用があるんだ、一緒に乗っていくかい?」
声をかけてくれたのは、行商人の男性だった。
ぽつんと止まっていた馬車の上には、布で覆われた荷物がぎっしりと積まれていた。
父さんは少しだけ迷った顔をしたあとで、行商人に深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
おれ達は馬車に乗った。
木の軋む音と、馬の足音に揺られながら、三人で並んで座った馬車の時間は、少しだけ心地よかった。
「それにしても、行商人さんに村まで送ってもらえるとは……俺たちは運がいいな!」
「そうね」
父さんと母さんはそう言って笑う。
「最近、村の周辺で魔物が出たって話を聞いたが……これなら、安心して帰れそうだな」
父さんがそう言って、馬車の揺れに身を預けながら空を見上げた。
その横顔はどこかほっとしたようで、おれもつられて安心した。
そして、どっと疲労感が押し寄せた。
一日中歩き回った足は重く、肩も、手も、もうほとんど感覚がなかった。
揺れる馬車の木の床に背を預けると、じんわりとした眠気が体を包み込んでいく。
母さんの優しい鼻歌が、風にまぎれて耳に届く。遠くで鳴く鳥の声。馬の足音。荷車の軋む音。
安らぎに身を任せて、おれはそのままゆっくりと瞼を閉じた。
…
……
………
そして、次に目を開いた時、辺りは暗闇に包まれていた。一瞬、日が沈んだのかと思ったが、すぐにそれが間違いだと気づいた。
視界が何かで覆われていた。
視界を覆っていた布のようなものを必死に振り払おうと、腕を動かそうとした。だが、動かない。手首に何かが巻き付いている。
おれは声を上げようとした。しかし、何かが邪魔をして声は喉から漏れなかった。
おれは無理やり身体を捩り、なんとか目隠しを外す。
そうして、おれの目に映ったのは見知った顔ぶれ。
「おい、コイツ目を覚ましやがったぞ!!!」
「おや、本当ですね……しかし、まぁ。彼は子どもです。それに、もう縛ってしまいましたから心配することはございませんよ」
そこにいたのは、数人の村人と村長だ。
状況が理解できず、おれは彼らに目で訴えかける。すると、それに気づいた村長がこちらに近づき、口を開いた。
「えーっと、お名前……なんでしたっけねぇ。まぁ、いいですか。こほん。あなた達にはこれから、村の為に"魔物の餌"になってもらいます」
……は?
コイツは、今、なんと言ったのだろうか。聞こえていたし、意味の理解できない言葉ではなかった。ただ、あまりにも唐突な発言におれの脳みそは思考を拒む。
そんなおれを前に、村長は続ける。
「いやはや、私達も大変胸が痛いです。しかし、これは仕方のない犠牲……。申し訳ありません」
そう口にして頭を下げる村長は、どこかほくそ笑んでいるようであった。周りの村民もニタニタと笑っている。
ふと横に目を向ければ、寝転がされている両親がいた。
そうして、やっとおれの理解が追いついた。
なるほど。おれ達家族は、騙されたのだ。あの行商人も、最初からグルだったのだろう。
おれは必死で踠き、叫んだ。しかし、声は届かない。
「ふむ。これ以上暴れられて親に目覚められても面倒ですね。皆さん、彼らを山へ連れて行ってください」
村長の言葉を合図に、村人達はおれ達家族を引き摺って山のほうへと登り始めた。
「ぼい! ばべぼ!!!」
いくら叫んでも、彼等は何も返さない。
両親が目覚めることもなく、ただ、ずるずると地面に身体が擦れる音を聞きながら、されるがままでいるしかなかった。
縛られた手足。声を奪われた口。両親の姿がすぐそこにあるのに、手も伸ばせない。
無力感と恐怖が、ひたすらに胸を締めつけた。
数分後、村人の「ヒィ!」という悲鳴を聞いた。そうして、おれ達は山に投げ捨てられる。
強い衝撃を受けて、父さんと母さんが目覚めたのが見えた。
あぁ、2人は無事だ。よかった……。と胸を撫で下ろしたのも束の間。
「ギィ……ギギギ……」
ソイツ等はそこに姿を現した。
ただれたような緑色の皮膚、釘のように尖った歯、曲がった背と異様に膨らんだ腹。
"ゴブリン"と呼ばれるその魔物は、おれ達家族を見て、下卑た笑みを浮かべた。
それからは、もう。思い出したくもない記憶。
魔物は、おれ達を好き放題にした。
知りたくなかった、殴られる痛み。聞きたくなかった、魔物の笑い声。
「んんんん! んん!!! んんんん!!!」
口に縛られた布のせいで、言葉にならない叫び声をあげながら、玩具のように嬲られる両親。
そして、ぴくりとも動かなくなった2人の姿……。
…
「あぁ……あぁぁぁ……」
おれはその魔物を知っている。
下卑た笑みを浮かべながら、命を冒涜する邪悪な魔物。
——おれの家族を殺した、下衆。
「クソがぁぁぁッ!!!」
おれは叫び声をあげて、"ゴブリン"の群れに武器も持たずに突っ込んでいった。
月明かりがカーテン越しに差し込む頃。俺は独りベッドの上で微睡みの中にいた。
一度は眠りについたものの、すぐに意識は覚醒し、眠れそうで眠れない。身体は重いのに、心だけが妙に冴えている。
「眠れねぇ……」
濃すぎる一日過ごした夜だ、仕方がない。俺は起き上がり、外の景色を眺める。
「異世界にも月はあるんだな」
知らない世界の知っているもの。それらを手繰り寄せて、物思いに耽る。
ふと、思い出すのは、あの夜のこと。
交通事故だった。あまりに、あっけない別れ。両親と、妹が乗っていた車が、大型トラックに巻き込まれて……それっきりだった。
それからは祖母と二人だけの暮らしになった。寂しさを抱えながらも、俺達は少しずつ日常を取り戻していった。
最初こそ俺を引き取った祖母を警戒していた。しかし、祖母の作る味噌汁の匂い。洗濯物を取り込む音。暖房も冷房も効きすぎていた部屋。全部に慣れて、居場所になった。
居場所。居場所、か。
思わず口の中で繰り返したその言葉に、苦笑いが漏れる。
その時だった。
とん、とん、とん。
扉が優しく叩かる。それは、まるで訪問したことに迷いがあるかのような遠慮がちな音だった。
しかし、静まり返った部屋にははっきりと響く。
「こんな夜中に、誰だ?」
ソフィアだろうか。もしかしたら、何かあったのかもしれない。
「はい」
俺は部屋の扉を開ける。
そして、扉の向こう側にいたその来訪客を見て、俺は目を疑った。
「……どうも。レン……さん」
そこに立っていたのは、他でもない——リオだった。
俺は思わず息を呑んだ。正直、ソフィアやデルタさん、他の子ども達だったのであればさほど驚かなかった。でも、彼は俺の存在を露骨に警戒していたはずだ。
そんな彼が、そこにいる。夜中に、自分から俺の部屋の前に。
「……どうした?」
そう問いかけると、リオは少しだけ目を逸らし、それからゆっくりと顔を上げた。その目には、昼間に見せていた敵意とは少し違う、葛藤の色が宿っていた。
「……話がある」
言葉は短く、それでも重みがあった。俺は扉をゆっくりと開ける。
「ええっと。とりあえず、中に入るか?」
リオは黙って頷いた。
そうして、俺は彼を部屋の中へと迎え入れた。
◇
リオは部屋の真ん中に立ち尽くしていた。居心地が悪そうに視線を彷徨わせ、何かを言いかけては飲み込む、そんな様子だ。
「ベッド、座る?」
「いや、別にいい」
「そっか」
しばらくの沈黙。その時間、部屋には息苦しさが充満していた。
一体、どんな用事があるのかと警戒していると、やがて、リオはまっすぐ俺を見つめた。
その瞳には、昼間と同じ、いや、それ以上の鋭さが宿っていた。
「ええと……」
困惑する俺に、リオは口を開く。
「レン……さん。アンタ、いつまでここにいるつもりだ」
その問いかけは、刃のように鋭く、俺の胸に突き刺さった。
返答に詰まる。言葉が簡単には見つからなかった。
けれど、リオは容赦しない。床を一歩踏みしめて俺の方へと近づき、低く、はっきりと告げた。
「記憶喪失なんて、嘘だろ?」
「……どうしてそう思ったんだ?」
慎重に言葉を返したつもりだったが、自分でもわかるほど声が硬かった。これはソフィアのことを言えないな……なんて思う余裕もないほどに俺は追い詰められている。
リオはそんな俺に、とどめの一言を放った。
「おれは聞いた。教会での、アンタとデルタさんの会話を」
その瞬間、心臓が跳ねた。
「アンタは、異世界から召喚された、"魔女"の……"魔物"の使いなんだろ?」
目の前の少年が放った言葉は、疑いではなく、確信だった。彼の中に在るのは真実であり、否定しようにも俺の言葉ではどうすることもできないとすぐに分かった。
何も言えずにいる俺を前に、さらに少年は一歩近づく。
「おれは嘘が嫌いだ」
彼の声は、低く静かだ。それなのに、俺の心臓に重く響く。
「おれは魔物が嫌いだ」
彼からは嫌悪感がドス黒く滲み出している。
リオは獣のように鋭い眼差しで俺を睨みつけていた。
「だから」
少年は続ける。
「おれはアンタが大嫌いだ」
憎しみを帯びながらも理性的に振る舞おうとしているのか、彼の声は静かで、争うつもりはないという風だ。
「……分かってはいるんだ。デルタさんは俺を助けてくれたみたいに、アンタも助けようとしているって」
「レン……さんが"魔物"の被害者かもしれないってことも、実はそんな悪い奴じゃないんじゃないかってことも……理性が感じ取ってる」
あんなに俺を睨みつけていた視線を逸らして、少年は捻り出すように言葉を発する。
「でも……ッ!」
また、あの鋭い視線が俺を突き刺す。
「もしかしたらって思うと、怖いんだよ! アンタが悪者だったら、デルタさんやみんなが酷い目にあったら……そう考えると止まらない……」
そして、彼は小さく、強く、叫んだ。
「おれの気持ちが感情が、理性以外の全部が……! アンタを認められないんだ……!」
それは彼が俺に寄り添おうと努力して、考えて、気付いたことなのだろう。
「だから、頼む。出ていってくれ……ほら、金ならやる。おれの全財産だ。10日くらいは宿屋にでも泊まれるだろうから……」
そう言って、少年はポケットから10枚ほどの銀貨を取り出した。
「……安息の地を、二度も……奪われたくないんだ」
ぽつりと漏れたその声は、小さく震えていた。
俺はその一言で全てを察した。
"カーリスの家"はリオにとってちゃんと"居場所"になっていたのだ。
俺にとっての祖母の家のように。
一度失って、差し伸べられた手を掴み、そうして出来た第二の居場所。
デルタさんはリオは少しずつ打ち解けてきている……なんて言っていたが、もう十分すぎるほどに、ここは彼にとっての居場所だった。
あぁ、よかった。リオは生きていけるのだ……と、彼の過去を人伝に聞いた俺は安堵する。
そして、葛藤。
俺は彼を脅かす存在だ。ソフィアやデルタさん、他のみんなが迎え入れてくれたとしても、彼にとって、俺は居場所を奪う悪者。……彼の両親を殺した人間と大差ない。
それをデルタさんのために譲歩した結論がこれなら、俺は断りたくない。何なら、そのお金だっていらない。
そう思っているはずなのに、簡単に頷くことができない。こういう時、自分の偽善が嫌になる。
それから、無言の数秒の後、やっと意を決して俺が口を開こうとしたとき。
ゴォォンゴォォン。
深夜に似つかわしくない、喧しい鐘の音が鳴り響いた。それは初めて聞いた俺にも分かる、異常事態の合図。
そして、鐘の音に続いて男の叫び声が聞こえてきた。
「"魔物"だ!!!!! "魔物"が出たぞお!!!!! 子どもを捕まえて、西の森に逃げていったぞお!!!!!」
その大きな声には聞き覚えがあった。エドさんだ。夕暮れ時にあった際にも、声が大きいと思っていたが、今その時の数倍の声量で危機を伝えて回っている。
「なにが、起こってるんだ……?」
子どもが魔物に誘拐された?
あまりにも突然の出来事で俺はまだ飲み込めずにいた。
ただ、この異常事態、俺達も何とか手伝わなければならない。
「リオ、ごめんだけれどこの話はまた後で……」
そう言って、俺がリオに目を向けた時、彼の表情は今までに見たこともないものになっていた。
彼の顔に浮かぶのは抑えていたものが全て吐き出されたような、憤怒の感情。怒りを剥き出しに、彼は俺を睨みつけていた。
「もしかしたらが、起こっちまった」
その言葉の重みに、俺の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「アンタのせいだろ?」
「え……?」
俺はリオを見返す。彼の瞳は信念に満ちていた。怒りと恐怖に裏打ちされた、確かな確信。
「アンタが魔物を呼び寄せたんだ」
突きつけられたその言葉は、全くの勘違いだ。いや、そう言い切れる確証も俺には無いが、少なくとも俺は魔物を呼び寄せた覚えはない。
「クソッ! デルタさんは甘かった! おれがもっと早くアンタを追い出していれば……!」
拳を握り締めながら、リオは奥歯を噛みしめていた。その肩は震えている。
「リオ、何か誤解を——」
俺が慌てて言葉を継ごうとした、その瞬間。
「うるさい!!! この、魔物の使いめッ!!!!!」
リオの怒声が、夜の静寂を引き裂く。
また、俺は何も言い返せなかった。彼の目にはもはやそんな俺は映っていない。
彼の瞳には、幼さと決意がない交ぜになった、混じり気のない激情が燃えていた。
「ッ!」
彼は部屋の扉を蹴破り、開け放たれた扉の向こうへと一気に駆け出した。
「リオ!」
俺の声は届かない。背を向けたその姿には、迷いも、躊躇もなかった。
「待って!!!」
俺は彼を追いかけたが、彼の背には届かない。廊下を駆け抜け、階段を跳び越え、玄関の扉を叩きつけるように開けて、冷たい夜風の中へ飛び出した。
止められない。届かない。
少年は闇夜へと消えていった。
◇
もう、彼の背中は見えなくなった。しかし、行先は分かる。
魔物が子どもを連れて逃げ込んだ西の森。方向感覚のない俺には西がどちらか分からないが、村の周りに森と呼べそうな場所はソフィアが突然走り出した、あの場所くらいしかなかった。
だから、夕方に通った道を逆行して俺は森を目指して走った。
そして、村の出口を抜けようという瞬間に、誰かに腕を掴まれる。
「待て! にいちゃん! そっちは危険だ!!!」
強く腕を引かれて、俺は足を止める。
振り返ると、そこにはエドさんがいた。顔に泥が跳ね、肩で息をしている。おそらく、魔物が来たことを伝える為、村中を駆け回って叫んでいたのだろう。
「はぁ……にいちゃん、聞いてなかったのか……はぁ……そっちには、魔物がいるんだ……! だから、戻るんだ!」
そこまで言うと「ぐぅッ……!」と呻き声をあげてしゃがみ込む。
そういえば、この人、腰を痛めているのだった。そんな中で、必死に村に危機を知らせていたのか。
「……大丈夫ですか?」
「オレん事はいいから!早く、孤児院に戻りな!」
その怒気に気圧される。しかし、このまま帰るわけにはいかない。俺はエドさんに現状を伝える。
「……リオが森の方へ向かったんです」
俺の言葉に、エドさんの目が見開かれた。
「何っ!? あの子が!? たったひとりでか!?」
呻くように立ち上がりかけ、また膝をついた。今にも走り出しそうなその姿勢には、限界を超えた焦燥がにじんでいる。
「チクショウ……! 子どもが無茶しやがって!」
エドさんがどれほど強いのかはわからない。外見から見て頑強そうではあるが、今の彼に無理をさせるわけにはいかない。
それに……
「俺が、なんとかする」
ぽつりと口から溢れた言葉は、俺の決意であった。
エドさんにそれは聞こえていなかったようで、腰を摩りながらこちらを見て俺に問いかけてくる。
「おい。デルタはその事、知ってるのか?」
「いや、分からないです。走っていくリオを追いかけて来たので……」
「そうか、分かった。じゃあ、レン。アンタはデルタに状況を伝えに——」
俺はエドさんの言葉を遮るように首を振った。
「……いいえ。俺が行きます。リオの所に」
俺の言葉を聞いたエドさんの顔に、驚きと戸惑いが浮かぶ。
「何言ってんだ……! アンタ、"武機"も持ってねぇし、記憶もねぇんだ! そんなヤツが生身で魔物とやり合えるわけがねぇ! 下手すりゃ死ぬんだぞ! 分かってんのか!?」
そう声を荒げるエドさんに、俺は真正面から向き合う。
「お願いします。行かせてください」
そう、はっきりと答えた。
「ガキが青臭いこと言いやがって……!」
驚きや心配といった感情を通り越して、エドさんは俺に怒りを向ける。それでも、俺は折れない。
「あの子は……リオは俺を警戒していた。俺のせいで、不安になって、暴走したんです。……全部俺のせいだ。だから、俺が行って、俺が助けなきゃいけない……!」
彼は居場所を守ろうと必死で、そんな彼の気を動転させて、魔物の元に走らせたのは俺という存在だ。
ならば、俺が彼を放って安全な場所でじっとなんかしていていいわけがない。
そして、数秒の沈黙の後、エドさんが急に声を上げた。
「あぁ、ちくしょうっ! オレはそういう目に弱えんだ……! ちょっと待ってろ!」
エドさんはそう言って、危うい足取りで彼の店へと走っていく。そして、数分もせずに息を切らしながら戻って来て、何かの入った革製の小袋を俺に差し出してきた。
「これは……?」
「ぜぇ……はぁ……開けてみろ」
彼に言われた通り、俺は袋を開けて中を見る。中には、手に収まるくらいの球状の何かが3個ほど入っていた。
「そりゃ、とっておきだ」
エドさんはそう言って、ニヤリと笑う。
「いいか、使い方はこうだ……」
彼の説明は短く、的確だった。
俺は聞きながら、思わず眉をひそめた。
「なるほど……これなら、俺でも使えそうだ」
「あぁ、コイツがあれば、戦いは避けられるはずだ。いいか? 絶対に正面からぶつかったりするな。魔物は化け物だ」
俺は頷き、感謝を述べる。
「ありがとうございます……でも、頂いていいんですか?」
俺がそう尋ねると、エドさんはしばらく黙っていた。
泥と汗で汚れた手で、ぎこちなく頭を掻きむしる。その仕草はどこか照れ隠しのようでもあり、不安を押し込めるようでもあった。
「ツケにしておく。駄賃は——アンタらの無事だ」
エドさんはそう言って、革袋を俺の胸にぐっと押しつける。
「デルタにはオレが伝えてくる。レン、アンタはリオとガキどもを助けに行ってこい」
彼の手が、俺の背を強く叩く。その一撃は、俺の身体を前へと押し出した。
「生きて帰れよ!!!」
夜の静寂を裂くように響いたその声は、どこまでも真っ直ぐな優しさに満ちていた。
「ありがとうございます」
俺は彼の言葉に背中を預けるように、一歩を踏み出す。
そして、森に向かって走り出した。
◇◇◇
あぁ……クソ! クソクソクソクソ! クソが! どうして、こうなっちまった。どうしてこうなっちまったんだ!
夜の村を抜け、おれは後悔と怒りに押しつぶされそうになりながら、必死で走っていた。冷たい夜風に頬が切れるように痛い。足も、もう限界だ。でも、止まれない。
西の森に魔物が生息している、なんて話は聞いた事がなかった。
……アイツが。レンが呼び寄せたんだ。それ以外、考えられない。あり得ない。
そして、呼び寄せられた魔物が村の子どもを連れ去った。
だから、おれは走る。迷ってる暇なんてない。叫んでる時間もない。
「……また、奪われてたまるかよ」
視界の端で木々が猛スピードで流れていく。枝が頬を掠め、地面の石に何度も足を取られかける。それでも、おれは止まらない。
森の奥から、微かに聞こえる子どもの泣き声。それを頼りに必死で走る。
東奔西走。もはや、自分がどこから来たかも分からない。しかし、そんな思考は投げ出して辺りを探る。
「ッ、どこだ……!」
微かに聞こえていたはずの子どもの泣き声が、いつの間にか止んでいた。
嫌な想像が脳裏をよぎり、焦りが喉をしめつける。
「早く……見つけねぇと!」
そうして、また一歩踏み出す、その時だった。
「ギィ……」
森の奥から、何かが軋むような乾いた音が響いた。木の枝がこすれ合う音とは違う。動物の声とも違う。もっと、異質で、不快で、耳にへばり付く音。
おれはその音に聞き覚えがあった。
「ギィ……ギィイィッ!」
まるで、錆びた歯車が無理やり回るかのような耳障りな音色。
おれは音のなる方へと、静かに近寄る。
「ギィ……ギギギギギ!!!」
木々の隙間から、音を鳴らす者の姿がチラリと見える。
「ギギギギギ!!!」
数体いるその魔物は、笑うような鳴き声を発しながら、ずるずると2人の子どもを引き摺って歩いている。
「あ、あぁ……」
あの日の光景がフラッシュバックする。
…
おれ達家族は貧乏で、村のみんなに比べたら貧しい暮らしをしていた。
ろくな財産もなく、いつもギリギリの暮らしで、村でははぐれもの扱いも受けてきた。
しかし、それでも、おれは自分が不幸だなんて思ったことはなかった。
父さんはいつでもおれを見てくれていたし、母さんはどんなに疲れていても笑顔を絶やさなかった。
狭い家でみんなでくっつくようにして寝て、粗末な夕飯を囲みながら他愛もない話をした。
そんな時間がなにより暖かくて、ずっと続けばいいと思っていた。
思っていたのに。
あの日は、朝早くから家を出て、遠く離れた街まで歩いて行った。おれ達家族が大切に育てた野菜を売るためだ。
けれど、街の人々は見慣れない顔に足を止めることは少なく、野菜は思ったほど売れなかった。
何時間も立ち尽くしていた足は重く、空の籠を肩にかけた帰り道は、ずっと遠く感じた。
そんな時だった。
「村のほうに用があるんだ、一緒に乗っていくかい?」
声をかけてくれたのは、行商人の男性だった。
ぽつんと止まっていた馬車の上には、布で覆われた荷物がぎっしりと積まれていた。
父さんは少しだけ迷った顔をしたあとで、行商人に深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
おれ達は馬車に乗った。
木の軋む音と、馬の足音に揺られながら、三人で並んで座った馬車の時間は、少しだけ心地よかった。
「それにしても、行商人さんに村まで送ってもらえるとは……俺たちは運がいいな!」
「そうね」
父さんと母さんはそう言って笑う。
「最近、村の周辺で魔物が出たって話を聞いたが……これなら、安心して帰れそうだな」
父さんがそう言って、馬車の揺れに身を預けながら空を見上げた。
その横顔はどこかほっとしたようで、おれもつられて安心した。
そして、どっと疲労感が押し寄せた。
一日中歩き回った足は重く、肩も、手も、もうほとんど感覚がなかった。
揺れる馬車の木の床に背を預けると、じんわりとした眠気が体を包み込んでいく。
母さんの優しい鼻歌が、風にまぎれて耳に届く。遠くで鳴く鳥の声。馬の足音。荷車の軋む音。
安らぎに身を任せて、おれはそのままゆっくりと瞼を閉じた。
…
……
………
そして、次に目を開いた時、辺りは暗闇に包まれていた。一瞬、日が沈んだのかと思ったが、すぐにそれが間違いだと気づいた。
視界が何かで覆われていた。
視界を覆っていた布のようなものを必死に振り払おうと、腕を動かそうとした。だが、動かない。手首に何かが巻き付いている。
おれは声を上げようとした。しかし、何かが邪魔をして声は喉から漏れなかった。
おれは無理やり身体を捩り、なんとか目隠しを外す。
そうして、おれの目に映ったのは見知った顔ぶれ。
「おい、コイツ目を覚ましやがったぞ!!!」
「おや、本当ですね……しかし、まぁ。彼は子どもです。それに、もう縛ってしまいましたから心配することはございませんよ」
そこにいたのは、数人の村人と村長だ。
状況が理解できず、おれは彼らに目で訴えかける。すると、それに気づいた村長がこちらに近づき、口を開いた。
「えーっと、お名前……なんでしたっけねぇ。まぁ、いいですか。こほん。あなた達にはこれから、村の為に"魔物の餌"になってもらいます」
……は?
コイツは、今、なんと言ったのだろうか。聞こえていたし、意味の理解できない言葉ではなかった。ただ、あまりにも唐突な発言におれの脳みそは思考を拒む。
そんなおれを前に、村長は続ける。
「いやはや、私達も大変胸が痛いです。しかし、これは仕方のない犠牲……。申し訳ありません」
そう口にして頭を下げる村長は、どこかほくそ笑んでいるようであった。周りの村民もニタニタと笑っている。
ふと横に目を向ければ、寝転がされている両親がいた。
そうして、やっとおれの理解が追いついた。
なるほど。おれ達家族は、騙されたのだ。あの行商人も、最初からグルだったのだろう。
おれは必死で踠き、叫んだ。しかし、声は届かない。
「ふむ。これ以上暴れられて親に目覚められても面倒ですね。皆さん、彼らを山へ連れて行ってください」
村長の言葉を合図に、村人達はおれ達家族を引き摺って山のほうへと登り始めた。
「ぼい! ばべぼ!!!」
いくら叫んでも、彼等は何も返さない。
両親が目覚めることもなく、ただ、ずるずると地面に身体が擦れる音を聞きながら、されるがままでいるしかなかった。
縛られた手足。声を奪われた口。両親の姿がすぐそこにあるのに、手も伸ばせない。
無力感と恐怖が、ひたすらに胸を締めつけた。
数分後、村人の「ヒィ!」という悲鳴を聞いた。そうして、おれ達は山に投げ捨てられる。
強い衝撃を受けて、父さんと母さんが目覚めたのが見えた。
あぁ、2人は無事だ。よかった……。と胸を撫で下ろしたのも束の間。
「ギィ……ギギギ……」
ソイツ等はそこに姿を現した。
ただれたような緑色の皮膚、釘のように尖った歯、曲がった背と異様に膨らんだ腹。
"ゴブリン"と呼ばれるその魔物は、おれ達家族を見て、下卑た笑みを浮かべた。
それからは、もう。思い出したくもない記憶。
魔物は、おれ達を好き放題にした。
知りたくなかった、殴られる痛み。聞きたくなかった、魔物の笑い声。
「んんんん! んん!!! んんんん!!!」
口に縛られた布のせいで、言葉にならない叫び声をあげながら、玩具のように嬲られる両親。
そして、ぴくりとも動かなくなった2人の姿……。
…
「あぁ……あぁぁぁ……」
おれはその魔物を知っている。
下卑た笑みを浮かべながら、命を冒涜する邪悪な魔物。
——おれの家族を殺した、下衆。
「クソがぁぁぁッ!!!」
おれは叫び声をあげて、"ゴブリン"の群れに武器も持たずに突っ込んでいった。
30
あなたにおすすめの小説
魔王を倒した勇者を迫害した人間様方の末路はなかなか悲惨なようです。
カモミール
ファンタジー
勇者ロキは長い冒険の末魔王を討伐する。
だが、人間の王エスカダルはそんな英雄であるロキをなぜか認めず、
ロキに身の覚えのない罪をなすりつけて投獄してしまう。
国民たちもその罪を信じ勇者を迫害した。
そして、処刑場される間際、勇者は驚きの発言をするのだった。
追放料理人とJKの異世界グルメ無双珍道中〜ネットスーパーは最強です〜
音無響一
ファンタジー
わーい、異世界来ちゃった!
スキルスキル〜何かな何かな〜
ネットスーパー……?
これチートでしょ!?
当たりだよね!?
なになに……
注文できるのは、食材と調味料だけ?
完成品は?
カップ麺は?
え、私料理できないんだけど。
──詰みじゃん。
と思ったら、追放された料理人に拾われました。
素材しか買えない転移JK
追放された料理人
完成品ゼロ
便利アイテムなし
あるのは、調味料。
焼くだけなのに泣く。
塩で革命。
ソースで敗北。
そしてなぜかペンギンもいる。
今日も異世界で、
調味料無双しちゃいます!
ソロ冒険者のぶらり旅~悠々自適とは無縁な日々~
.
ファンタジー
今年から冒険者生活を開始した主人公で【ソロ】と言う適正のノア(15才)。
その適正の為、戦闘・日々の行動を基本的に1人で行わなければなりません。
そこで元上級冒険者の両親と猛特訓を行い、チート級の戦闘力と数々のスキルを持つ事になります。
『悠々自適にぶらり旅』
を目指す″つもり″の彼でしたが、開始早々から波乱に満ちた冒険者生活が待っていました。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
騎士団長様、クビだけは勘弁してくださいっ!
楠ノ木雫
恋愛
朝目が覚めたら、自分の隣に知らない男が寝ていた。
テレシアは、男爵令嬢でありつつも騎士団員の道を選び日々精進していた。
「お前との婚約は破棄だ」
ある日王城で開かれたガーデンパーティーの警備中婚約者に婚約破棄を言い出された。テレシアは承諾したが、それを目撃していた先輩方が見かねて城下町に連れていきお酒を奢った。そのせいでテレシアはべろんべろんに酔っ払い、次の日ベッドに一糸まとわぬ姿の自分と知らない男性が横たわっていた。朝の鍛錬の時間が迫っていたため眠っていた男性を放置して鍛錬場に向かったのだが、ちらりと見えた男性の服の一枚。それ、もしかして超エリート騎士団である近衛騎士団の制服では……!?
※3連休中は一日5話投稿。その後は毎日20時に一話投稿となります。
※他の投稿サイトにも掲載しています。
※この作品は短編を新たに作り直しました。設定などが変わっている部分があります。(旧題:無慈悲な悪魔の騎士団長に迫られて困ってます!〜下っ端騎士団員(男爵令嬢)クビの危機!〜)
ダンジョンを拾ったので、スキル〈ホームセンター〉で好き勝手リフォームします
ランド犬
ファンタジー
異世界に転移した佐々木悠人は、召喚でも勇者でもなかった。ただ迷い込んだ先で見つけたのは、王都を望む郊外にひっそりと口を開けるダンジョン。足を踏み入れた瞬間、発動したスキルは
――〈ホームセンター〉
壁を張り替え、部屋を増やし、畑や牧場、カフェまで作れる不可思議な力だった。
気ままに始めたリフォームは、もふもふなネコミミ獣人の少女との出会いをきっかけに、思わぬ変化を呼び始める。
拡張され続けるダンジョンの先で、悠人が作り上げる“住める迷宮”とは――?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる