イセカイ召命譚

すいせーむし

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序章 異世界召喚

七話 To Save You

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 ……クソクソクソクソっ! 訳分かんねぇ!
 
 頭の中で何に向けているのかもわからない怒号を響かせながら、おれは全力で森の中を走っていた。
 茂みをかき分け、木の根を飛び越え、2人の子どもを引き摺りながら、それでも一瞬たりとも足を止めることは出来ない。

 アイツがおれ達を逃がすために踏みとどまっている。信じられない話だが、現実だ。
 あれだけアイツを憎んだ俺は、今、彼によって命を繋がれてる。

「……訳分かんねぇよ!」

 怒りとも、悔しさともつかない感情が胸を締めつけた。

 なんで、なんでアイツはおれ達を逃したんだ。魔物を呼び寄せ、村を襲おうとしたアイツが……なんで。

 自作自演……にしては、手際が悪すぎる。もしそうだとしたら、デルタさん達に異世界から来たなんて言葉は口にしないはずだ。

 魔物とその使いの仲間割れ……だとすると、おれ達を助けた意図が読めない。アイツがおれ達の前に来て、最初に放った言葉は安否を確認するものだった。

 こうして、おれの中で可能性を一つ一つ潰していき、おれは気づいた……いや、はじめからそんな事は分かっていたのかもしれない。

 ——レンはおれ達を本気で助けようとしていた。

 おれはアイツを"敵"として心のどこかで決めつけていた。
 けれど、違った。

 ……だからと言って、今更どうしたらいいんだよ!

 アイツはきっと、弱い。素人目に見ても分かる。このまま、ゴブリンどもと対面させていれば、レンは死ぬだろう。
 でも、おれが戻っても何もできない。おれだって強くない。それに今は2人の子どもを連れている。

 どうしたら、どうしたら、どうしたらっ!

 そうして、思考を巡らせながら森を抜けようと全力で走っていると、遠くから声が聞こえた。

「リオっ!!!!!」

 それは俺の名を呼ぶ、悲鳴に近い声だった。

「……ソフィアさん」

 そこにいたのは、"カーリスの家"で子ども達の面倒をよく見ている、最年長の"ソフィア"さんだった。

「リオ! 無事!? それにその子達も……大丈夫!?」

 ソフィアさんは駆け寄ってくるなり、俺の肩に手をかけて、息を荒げながらも子ども達の様子に目を走らせた。
 その目には、心配の色が浮かぶ。

「おれは……とりあえず、大丈夫。それに、コイツらも意識はないけど息はある……」

 おれと2人の子どもの安否を確認し、ソフィアさんは胸を撫で下ろした。

「そっか、無事でよかった……」

 無事でよかった。その言葉におれの心は蝕まれる。
 おれが今無事でいるのは、レンが助けてくれたからだ。もしもあの時、彼が来なければおれ達3人は確実に殺されていた。

「リオ、歩ける? 私が2人を運ぶから……一回、戻ろっか」

 ソフィアさんはそう言って、2人の子どもを軽々と抱える。
 その姿をみて、あぁ、この人はおれなんか比べものにならないくらい強いんだ。と再認識させられた。

 そうだ。彼女は、強い。

「村までもうすぐだから、頑張ろっか」

 彼女が森の出口へと一歩足を踏み出した瞬間……おれは彼女の身に纏ったローブの裾を引っ張った。

「ん? どうしたの? やっぱり、1人じゃ歩けない?」

 首を横に振る。
 
 そして、口を開いた。……しかし、声が出ない。言いたい事は決まっている。感情が論理が彼を助けたいと叫んでいるのに、どうしても、口に出せない……あの言葉。

 情けなさで潰れそうになる。

 もう人を信じる事なんてできない。だから、居場所は自分の力で守るんだと意気込んでいたおれが……絶対に口にしたくなかった言葉。

 自責の念で喉が締め付けられる。

 それでも、おれのせいで……おれの為に助けに来た彼を思うと口に出さずにはいられない。

 覚悟を決めて、喉から言葉を捻り出す。そうして、彼女に頭を下げた。

「ソフィアさん……お願いだ! アイツを……レンを! "助けてください"!!!」

 枯れたか細い声が、森に溶けるように響いた。

         ◇◇◇

 村に住む2人の子どもが森の魔物に攫われた。リオがそれを助けに、そのリオをレンが追いかけて、4人が森で魔物という脅威に晒されている。それは村の入り口で息を切らしてしゃがみ込んでいたエドさんから聞いた話だ。
 エドさんが入り口に着いた頃にはリオは森へと消えた後で、それを追いかけていたレンを彼は送り出したとのことだった。
 それを聞いたデルタさんは表情を変えずに怒りを露わにしていた。

 そして、彼らを救助するために私が森の中へ、これ以上"ルミナ"に被害が出ないようデルタさんが待機するという流れになった。

 それにしても、西の森には魔物なんて生息しておらず安全だったはずだ。
 確かに、レンと共に通過した際、嫌な気配はあった。
 あの時、私が魔物を倒しておけば……なんて後悔の念がよぎる。しかし、過去は変えられない。私が今できることをしなくてはならない。

 そうして、『薄霞銀刀はくかぎんとう』を片手に森に飛び込んだ私は、2人の少女を無理やり抱えて森を彷徨うリオを見つけた。

 2人の少女は意識を失っており、それを運ぶリオの服は泥と血で汚れ、息は荒い。
 彼の小さな背には、責任と恐怖……そして、悔しさがずっしりとのしかかっていた。
 何があったのかはわからない。しかし、まずは彼らを救助しなくてはならないと、私は駆け寄り、少女たちを彼の腕から引き受ける。
 そして、村へと戻ろうと私が一歩踏み出した時、リオが声を上げた。

「アイツを……レンを! "助けてください"!」

 縋るような、か細い悲鳴。初めて聞いた、リオの言葉。
 彼が、助けを求めた。誰かを信じられなくなっていた彼が。

「……」

 人に裏切られて、誰も信じない事で自身の心を守っていた彼が、レンの為に私を信じようとしている。
 それがどれだけ勇気のいることか、私には計り知れない。
 だからこそ、私は応えなくてはならない。

「……わかった」

 私は短く返すと、リオの肩に手を置いた。

「村はあっちにまっすぐ進めば着くから、2人をお願いね」

 2人の少女を預けられた、リオは静かに頷く。その顔はボロボロでありながら、決意に満ち溢れていた。

「レンのことは……私に任せて」

 リオが村の方へと進んでいく足音を聞きながら、踵を返し、森の奥へと視線を向けた。

 深く、黒く、そして不気味なほどに静まり返る森。その何処かに、レンはいる。

「……すぐ、助けに行くから」

 彼と私の意志を胸に、私は闇へと一歩踏み込んだ。

          ◇

 意識を深く沈め、空気の揺らぎひとつすら逃さず、存在を感知する《鎧護(かいご式:心眼しんがん》。
 これは"武装機式"の中でも、防御と回避に特化した"鎧護かいご式"の技だ。

 私はこの技を上手く扱えない。
 "武装機式"の戦術形式には適性というものがあるらしく、普通の人はその適性が一つしかない。
 私もその1人であり、デルタさんは「アナタには"斬断ざんだん式"が最も適している」と言っていたし、私もそう思う。

 それでも、全く使えないというわけではない。強い気配……つまり、感情を表に出している者しか、私は感知ができない。
 もしも、レンがもうやられていたりしたら……彼を見つけることは叶わない。
 最悪の可能性が頭をよぎり、息を呑む。それでも、ただ一縷の想いを頼りに私は強く剣を握った。

「……《鎧護かいご式:心眼しんがん》」

 意識を集中させて森の奥に心の目を向ける。
 風の音が消え、葉のざわめきが遠のいていく。
 世界の色が抜け落ちるような静寂の中、私は感覚だけを頼りにレンを探る。

 そして、レンとは異なる気配を感知した。
 それは悪意に満ちた"魔物"達の気配。不快感そのものとも言える存在感。

「うっ……」

 あまりの邪悪さに……私は吐き気を催す。それでも、目を逸らしてはいけない。
 きっと、そこにレンもいる。

「無事でいて……」

 そう小さく呟き、地を蹴って、悪意に晒された彼の元へと駆け出した。
 
 およそ3分。足を止めることなく走り続けた。魔物の気配を感じとった場所の周辺までたどり着いたがそこにはもう、誰もいなかった。
 地面に広がるのは……真っ赤な血の池。飛び散りすぎて、行き先もわからない。

「どこにいるの……!」

 再度心眼を行おうとしたが、出来なかった。
 焦りや不安……怒り。それらの強い感情は"武装機式"に影響する。
 しかし、今、心を落ち着かせることなんて私には出来ない。
 何も……打つ手がない。

 そう、絶望した瞬間。私は閃光を見た。

 光が空に打ち上がる。
 暗い森を照らす、白き輝き。それが何かはわからなかった。しかし、これが彼の救難信号であることを私は即座に理解する。

「レンっ!!!」

 声を上げて駆け足を速めた。深く沈んだ森の中に、私は引き寄せられるように足を進める。ただ、レンを助けることだけを頭に浮かべて。

 そうして茂みを抜けて、光の打ち上がったと思われる地点に辿り着いた私の視界に映ったのはゴブリンに痛ぶられている彼の姿だった。
 無防備に転がる彼の姿は、見ているだけで胸が痛む。

 私は本能的にその場へ飛び込もうとした……が、足を踏み出した瞬間、立ち止まった。
 レンの瞳が目に入ったのだ。彼の黒い眼は、強い光に満ちていた。

 その瞳の奥には、確かに恐怖や苦痛があった。しかし、それ以上に彼の瞳は物語っていた。

 ——誰かを助けたいという意思を。

 あの少年はリオを守るために、今もなお戦っていた。
 それを見て、私は怒りだけを頼りに握りしめられていた刃を……握り直した。

 軽く深呼吸をして、切先をゴブリンへと向け、一閃。

「《斬断ざんだん式:波月はげつ》!」

 斬撃は宙を舞い、1体のゴブリンを真っ二つにした。
 それを目の当たりにして、呆気に取られる彼と目が合う。

「お待たせ。加勢に来たよ、レン」

 彼の瞳に、わずかに浮かんだ安堵の光を私は見届けた。

          ◇

「ソ……フィア……」

 レンは私の名を口にした。

「レン!!!」

 私は唖然とする魔物の1体を蹴り飛ばし、彼の元へと駆け寄った。

「は、はは……よかった、作戦……成、功」

 緊張の糸が解けたのか、レンはバタリとその場に倒れ伏す。

 小さな息遣いにかすかに胸が上下しているのを確認する。……大丈夫、息はある。

「よく、頑張ったね」

 私は彼をそっと抱き上げ、草むらに寝転がす。
 彼は戦っていた。ただ怯えるだけではなく、逃げることもせず、最後まで。

「今度は、私の番」

 この戦場は、私が引き継ぐ。
 そう心の中で呟いて、魔物達に目を向ける。

「ギギギギ!!!」

 弾き飛ばされたゴブリンはすでに起き上がっており、他の2体と共にこちらを睨みつけている。
 こいつらの標的は私になった。もう、倒れたレンを襲うことはないだろう。

 鋭い殺気が森の空気を切り裂く。
 ゴブリンたちは牙を剥き、金切り声を上げながら私に向かって突進してきた。
 3体。それぞれが狡猾に間合いを詰め、左右と正面から囲い込むように動く。
 そうして、3方向から私に向かって飛びかかってきた。
 焦る必要はない。私は足を地にしっかりと固定し、銀の刃を握り直す。

「《斬断式:旋円せんえん》!」

 叫ぶと同時に、私は右足を軸にして円を描くように回転する。銀の軌跡が空中に円を描き、光が弧を成す。
 刃が描く円の中に飛び込んできたゴブリンたちは、自ら死の渦に突っ込んだも同然だった。

「ギィィ!?」「ギャア!」「ギャッ!?」

 悲鳴が耳に届く。
 彼らは切り口から黒い血を垂れ流しながら地面に落下した。
 しかし、致命傷とまではいかなかったようだ。彼らは痛みに悶え苦しみながらも、怒りという感情だけを頼りに起き上がる。

「ギギギ……」

 そうして、こちらを睨みつける。ゴブリン達は体を引きずりながらも、再びこちらへと歩みを進めてくる。
 しかし、彼らは傷つきよろめきながらも破顔の笑みを浮かべていた。その光景は、どう見ても尋常ではない。
 痛みに悶えているはずの魔物たちが、まるで"この先"を楽しみにしているかのように、口角を吊り上げている。
 嫌な胸騒ぎが、背筋を撫でる。

 コイツら、何かを企んでいる……。

 けれど、それが何なのかまでは掴めない。
 ただ、このまま黙っている訳にもいかず、私は銀刀を構え直し、わずかに足を引いた。
 剣先が揺れる空気すら切り裂くように、鋭く緊張が走る。

 そして、ゴブリンたちは再び私に飛びかかってきた。
 先ほどのように連携して囲い込むわけでもなく、ただ一直線に、怒りと衝動のまま突進してくる……あまりにも無策で、安直な攻撃。
 一見すれば、もはや戦術も捨てた単なる猪突猛進に見えた。
 もはや獣と変わらない。けれど、私はその雑さにこそ不気味さを感じていた。
 それでも刃を振らねばならない。私は踏み込み、迎撃の体勢を取った……その時だった。

「ぐっ……!?」

 唐突に腹部を焼くような痛みが走る。
 赤い血が宙に舞い、皮膚の感覚が鈍くなる。
 斬られた。そう認識して、私は一歩後退して体勢を立て直した。

 今のは、間違いなく斬撃だ。
 しかも、遠距離から。まるで《斬断式:波月》のような、鋭く切り裂く一閃。

 いや、おかしい。魔物が"武装機式"を扱うわけがない。魔物が使うのは、"魔法"だけのはず。

 だとすれば、これは。

「っ……!」

 思考が弾けるようにまとまり、私は咄嗟に周囲を見渡した。

 そして、気づいた。

 私が一撃で仕留めた1体とは別に、地面にうつ伏せに倒れていたゴブリンが、まだ息をしていた。
 そのゴブリンが、血で黒く濡れた腕を持ち上げ、私に向かって指を伸ばしていた。

 その姿を見た瞬間、全てが繋がった。

 アイツは、死んだふりをしていた。
 気配を完全に殺し、こちらの警戒が解けるのを待っていた。
 そして、仲間たちの無謀な突撃に意識を逸らせたその隙に——あのゴブリンが、魔法を放ったのだ。

 そして、今放たれたのは、多分……風の魔法。名前は確か《ヴェント》。
 空気を鋭く圧縮・断裂させて放つ風魔法。直撃すれば人体を容易く切り裂く威力を持っている。

 腹の傷を押さえながら、私は苦笑する。
 下手をすれば、私の上半身と下半身はくっついていなかったかもしれない。

「ゲギャギャギャギャ!!!」

 ゴブリン達の鳴き声が耳に響く。
 コイツらはスライムなどとは違う。集団で、狡猾に執念深く、そして何より……知性を持って戦っている。

 ……次はない。2度目の油断は許されない。

 私は姿勢を低くし、目の前で嗤う4体のゴブリンを睨み据え、『薄霞銀刀』を強く握り締めた。

「一気に……決める!」

 腹の痛みを堪えて、私は動き出す。
 瞬間、ゴブリンたちの瞳が一斉にこちらに向けられる。
 だが、今度はこちらの番だ。連中の狡さに惑わされている暇などない。

 先手必勝。

 私は疾風のように森を駆ける。

「ギギギギ……!」

 ゴブリン達は不意の加速に目を見張った。距離を詰める私に、死んだふりをしていた1体が咄嗟に棒を振り上げる。

遅い。

 私は腰を落としたまま、刃を低く構え、棍棒の下をすり抜けるように滑り込んだ。そして、刃を振るう。

「《斬断式:風輪ふうりん》」

 縦に輪を描く一撃がゴブリンを切り裂く。
 叫び声を上げる間もなく、ソイツの身体は右半身と左半身が分かたれた。
  残り、3体。

「ガギャギャギャ!!!」

 2体目が牙を剥いて突進してきた。
 だが、その足取りは先程とは違う。わずかに、警戒と恐れが混じっていた。
 それでいい。恐れは、判断を鈍らせる。

 私は一歩後ろに飛び跳ねて、剣を薙ぐ。特に技名もない一撃だ。
 それをモロに受けたゴブリンの首が落ちる。
 残り、2体。

 2体の仲間が殺されて慌てふためく他2体のうち、1体がこちらに両手を向けてぶつぶつと何かを呟き始めた。
 そして、私に向けて《ヴェント》を放つ。
 しかし、来ると分かっているのであれば回避は容易である。
 私はひらりと身を翻し、宙へと跳ねる。
 そして、地に落ちる勢いごとゴブリンを貫く。

「《貫突かんとつ式:墜槍ついそう》」

 一度、デルタさんから教えてもらった"貫突かんとつ式"の技。
 上手く決まったかは分からないが、少なくとも、相手は倒した。
 残り、1体。

 刃はすでに次の標的へと向いている。
 しかし、相手のゴブリンは何もして来ずただうずくまって、小さくなっている。
 戦意を喪失したらしい。しかし、気を抜いてはいけないと、その小さくなった身体を貫こうとした瞬間、声が聞こえた。

「コ……コロサ、ナイデ……!」

「えっ……?」

 それは、ゴブリンが発した言葉だった。
 おかしい。ゴブリンが言葉を話すはずない。
それに、殺さないでと懇願されたところで、容赦はしない……つもりだったのに。

 その言葉は私の判断を鈍らせた。

 振り下ろすはずだった刃は宙ぶらりんになり、手は微かに震えていた。
 私の心が警鐘を鳴らす。油断するな、と。騙されるな、と。しかし、私はどうすることもできず、大きな隙を作ってしまった。

 その隙をゴブリンは見逃さない。
 魔物は思い切り、私の顔面に砂をかけた。

「きゃっ!?」

 突然、目潰しを喰らった私は地面に尻餅をつく。

「くっ......!」

 慌てて目をこすっても、瞼の裏には焼けつくような痛みが広がる。

「ギャギャギャ!」

 乾いた笑い声のような奇怪な鳴き声と共に、足音が耳に届く。
 逃げている。先程まで、命を懇願する言葉を吐いていたゴブリンが逃げながら、笑っている。

「ゴナイデ……ヤベデ、ゴロザナイデ! イダイ! ヤベデ!!!」

「ダレガ! ダズゲデ! ……オガアザン!!!」

「ギャギャギャギャギャ!!!」

 嘲るような声が遠ざかっていく。
 私は気づいた。気づいてしまった。殺さないでというゴブリンの発した言葉。

 あれが、人の言葉を真似ただけの意味のない発音だったということに。

 私は目をこすりながら、立ち上がり、わずかに開いた視界を頼りにあたりを見渡した。すでに、その姿は森の暗がりに消えていた。

 逃げられた。

 きっと、何人も人間を殺した魔物に。助けて、殺さないでという懇願を嘲笑いながら人間を殺した化け物に。

 きっと、殺せたのに。

 無力感で、全身の力が抜け落ちた。
 風が木々を揺らし、葉が擦れ合う音が耳に痛いほど響く。

「……」

 悔しさが胸の奥にじわりと広がった。冷たい怒りが、喉の奥からこみ上げてくる。

 あんな奴に、情けなんてかけるべきじゃなかった。

 黒い感情に心が支配されそうになった時、風に乗って微かなうめき声が耳に届いた。

 私ははっとして振り返る。

 そこには、草むらに倒れたままの少年——レンが、血に濡れた頬をわずかに動かしていた。

「……レン」

 さっきまで、アイツを倒すことしか頭になかった。
 忘れてたわけじゃない。だけど、私は戦いに囚われて、大事なことを見失いかけていた。

 ゆっくりと、少年のそばへ膝をつく。まだ息はある。浅く、弱いが、確かに生きている。

「……ごめん、待たせちゃったね」

 震える手で、レンの背中に腕を回す。壊れそうなほど軽い身体だった。
 ゴブリンの与えた生々しい傷跡が、ぼろぼろの服の隙間からのぞいている。ひとつでも間違えれば、助からなかったかもしれない。

「ふぅ……」

 深く息を吸い込んで、胸に押し込めていた怒りを、そっと吐き出す。

「さて。帰ろっか、レン」

 草むらに寝かされた傷だらけの少年を抱き抱え、私はただ黙って、血と静寂の森を後にした。
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