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クルマ(碓氷・裕貴)
嘘と冗談と、本気の涙
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碓氷さんから電話があったのは、三月最終日の夜のことだった。
明日のツーリングに向けて洗車をして、ちょうど帰ってきたタイミングでトークアプリの通話マークが光り、呼び出し音が鳴った。
「あ、裕貴くん? 俺~」
相変わらずゆるいし、いつの間にか勝手に名前で呼ばれている。
けれどそれを咎めるどころか、ちょっとだけ嬉しいと思っている俺も俺だ、と思う。
碓氷さんとは、一度だけ、事故みたいなキスをした。
忘れもしない、去年の夏の終わりの遠距離ツーリングの時のことだった。
俺がコースをミスって、すぐ後ろにいた碓氷さんを巻き込んではぐれてしまって、二人きりになった一瞬、そこだけ空気が変わったみたいに、魔法がかかったみたいに、気づいたら碓氷さんの腕に囲われていた。
ぼうっとなったようにしばらくされるがままだった俺だけど、ハッと気づいて身体を引いて、そしたら碓氷さんはどうしたの、というように首を傾げて俺を見て、頭を撫でてもう一度だけ頬にキスをされた。
そこからどうやって他のみんなと合流したかは記憶があやふやだ。
あれから、特に碓氷さんと俺との関係に変化はない。
碓氷さんのことは、個人的に深く知っているわけではなくて、でも遠くから見ているだけでもある程度どういう人かは分かっている。
だからこそ、たかがキスひとつくらいで関係性が変わるだなんて、期待してはいけないと分かっていた。
ああいうことは碓氷さんに取ってはただの気まぐれ、日常的な挨拶みたいなもので、きっと俺だったのもたまたまそこにいたからってだけだ。だからそれで何かがどうかなるわけではないのだ。
わかってはいたけど、ああ、やっぱりそうだよなと、ちくりと俺の心に消えない傷みたいなものがついたのも確かだった。
俺は、碓氷さんが好きだ。
社会人になって、憧れの車を中古車だけど手に入れて、念願の地元のクルマコミュニティにも顔を出すようになって、そこで初めて見た時からの、片思いだ。
男も女も見境なく手を出す節操なし、というのがコミュニティのリーダー格であり碓氷さんの旧友らしい竹本さんの碓氷評で、だから俺にもチャンスはあるんじゃないかって、きっと少しだけ期待をしてしまって、いた。その結果が、このザマだ。気まぐれにキスをされ、そんなことなんかまるでなかったみたいに振る舞われているのに、名前を覚えられてるってだけで嬉しいなんて、プライドないのかと自分でも思う。
でも、好きになってしまったから、どうにもできない。
「どうしたんですか」
声に感情が入らないよう、極力事務的に聞こえていて欲しい、と思いながら、俺は性懲りも無く弾む胸を抑えながら電話に出た。
「あ、忙しかった? もし都合悪いなら大丈夫だよ」
く、と俺は下唇を噛んだ。
こういう人なのだ。傍若無人みたいに見えて、すごく人を見ているし、今の俺の声の調子だけでこうやって気づいて、さりげなく気遣ってくる。嫌いになれるわけがない。
「いえ、ちょっとさっき洗車から帰ってきたばっかだったんでバタバタしてただけで、今は大丈夫です」
「そお? じゃあお言葉に甘えるねー。甘えついでに、裕貴くんにひとつ頼みがあってさあ」
それから碓氷さんは続けて、俺に全く理解不能の「お願い」を口にした。
「明日、助手席参加したいんだよね」
「は?」
助手席参加、つまりツーリングで自分の車でなく他の参加者の車の助手席に乗って参加すること。
「碓氷さん、車調子悪いんですか?」
碓氷さんの車はいわゆるヴィンテージカーだから、現代の車では考えられないような故障や不調を起こしやすい。真っ先に思いついたのは、それだった。
「いやー、ちょっと事情があって。詳しくは言えないんだけど、どうしてもダメ?」
その聞き方はずるい。俺が碓氷さんの「お願い」に弱いと分かっていて出している声だ。
「……わかりましたよ、よくわかんないですけど。で、何時にどこに迎えいけばいいんです?」
「お、さっすが裕貴くん! ええとね、じゃあ六時半に、場所はこの後送るから」
通話を切って、俺はため息をついた。
正直、嬉しい。
どんな事情があるのかは知らないが、長時間、同じ車に二人で乗って、ツーリングに行けるのだ。何より、「明日一日は俺がいなければ碓氷さんはどこにもいけない」という状況に、ぞくぞくと昂るものがある。
片思いを拗らせすぎて、自分がだいぶヤバいやつになっている自覚は、あった。
しかしその期待が翌朝呆気なく打ち砕かれることになるとは、この時の俺はまだ、予想もしていなかったのだった。
バタン、とドアを片手で閉めて碓氷さんが集合場所の駐車場に降り立った時、すでに集まり始めていたメンバーからざわめきが沸き起こった。
それもそうだろう、碓氷さんは愛車の種類が種類だけにツーリングの不参加なら珍しくないが、こうして助手席での参加なんて、多分初めてのことだ。
「碓氷さん、どうしたんです?」
碓氷さんの取り巻き……もとい、ファンの代表格みたいな女性が声をかけてくる。残りの顔ぶれも彼女の疑問にうんうんと一様に頷いた。
「ああ、俺ねえ、車、売っちゃったんだよ」
その一言は、その場にいた全員を大混乱に陥れた。
「えっ、うそ、それほんとですか?」
「いつ? 誰に? いくらでっ!?」
「俺言ってくれれば言い値で買いましたよ!!」
悲鳴を上げる人、我を忘れて詰め寄る人、信じられないという顔で口を開いたままの人。
まさに、阿鼻叫喚だ。
俺もまさかそんなことだとは思わず、呆気に取られて車から降りたままの姿勢で立ち尽くしてしまった。
「だから今日は裕貴に乗せてきてもらった」
ね、という顔で俺の方を振り返って、手招きされる。
何か違和感が走り抜けた気がしたが、呆然としたまま俺は碓氷さんのそばに寄った。
いきなり、肩を抱かれた。
「!?」
俺は硬直し、周りも目をむいている。
「ああ、言ってなかったっけ、俺たち、付き合ってんの」
「はああああああ!?」
今度は俺も一緒になって、悲鳴をあげた。
「……」
「機嫌、直してよ~」
車の中は自分で言うのもなんだが、氷点下だ。
一同を恐慌状態に叩き込んだ後、いち早く気を取り直した竹本さんに問いただされ、碓氷さんはあっさりと認めた。
「エイプリルフールってみんなわかってると思ったんだよ……」
「そりゃ、確かに今日は四月一日ですけど」
「敵を欺くにはまず味方からって言うじゃん」
「欺くにしたって程度ってもんがあります」
「コーヒー奢ったじゃん~」
年上のイケメンに抱く感想ではないのは分かっているが碓氷さんの拗ねる様子がどうにも可愛くて、それ以上強く言えない。
でも、俺は、怒っていると言うより、どこか、傷ついていた。
そういう冗談に俺が巻き込まれても平気だと碓氷さんに思われていたことに、だ。
俺が碓氷さんを好きなのは、碓氷さんも気づいている。そうでなければさすがにキスなんかしないだろう。下手をすれば警察沙汰だ。
——なのに、俺の気持ちを弄ぶようなことをしていると分かってるんだろうか、この人は。
きっと悪気はないから、余計に。
早く碓氷さんを下ろして、家に帰って酒でも飲んで早く寝よう。
俺はそう思ってアクセルを踏み込んだ。
「今日はお疲れ様でした」
「まだ怒ってんの? ごめんって」
頭を撫でられそうになり、咄嗟に避けた俺を、碓氷さんはびっくりした顔で見た。
——ほらやっぱり、分かってない。
俺は唇を噛んで、俯いた。あまり、知られたくないと思った。
「……どうした?」
碓氷さんの声が、変わった。
俺はそこで、なんでもないというべきだったんだと思う。
「……」
でも、できなかった。
代わりに、碓氷さんをじっと見た。
目に涙が溜まっていたことは、分かってしまったと思う。
碓氷さんが小さく息を呑んだ。
「……ご、めん」
今までと全く違う、「ごめん」だった。
俺はこれ以上そこにいたら醜態を晒しそうで、俯いて車のドアを閉めようとして、そこにぬっと差し入れられた碓氷さんの手を挟みそうになって慌ててもう一方の手で止めた。
「違うんだ。……ちょっと、時間をくれないかな」
俺が頷くまで手を退けてくれないみたいだから、俺は仕方なく黙って頷いて、俺の頭を撫でる手も今度は避けなかった。
バタン、とドアは閉じ、碓氷さんと俺との間を分断する。
流れる涙を拭いもせず、俺は夕暮れの中、家に向かってがむしゃらに走った。
ーーー
第107回 お題「エイプリルフール」「時間」
明日のツーリングに向けて洗車をして、ちょうど帰ってきたタイミングでトークアプリの通話マークが光り、呼び出し音が鳴った。
「あ、裕貴くん? 俺~」
相変わらずゆるいし、いつの間にか勝手に名前で呼ばれている。
けれどそれを咎めるどころか、ちょっとだけ嬉しいと思っている俺も俺だ、と思う。
碓氷さんとは、一度だけ、事故みたいなキスをした。
忘れもしない、去年の夏の終わりの遠距離ツーリングの時のことだった。
俺がコースをミスって、すぐ後ろにいた碓氷さんを巻き込んではぐれてしまって、二人きりになった一瞬、そこだけ空気が変わったみたいに、魔法がかかったみたいに、気づいたら碓氷さんの腕に囲われていた。
ぼうっとなったようにしばらくされるがままだった俺だけど、ハッと気づいて身体を引いて、そしたら碓氷さんはどうしたの、というように首を傾げて俺を見て、頭を撫でてもう一度だけ頬にキスをされた。
そこからどうやって他のみんなと合流したかは記憶があやふやだ。
あれから、特に碓氷さんと俺との関係に変化はない。
碓氷さんのことは、個人的に深く知っているわけではなくて、でも遠くから見ているだけでもある程度どういう人かは分かっている。
だからこそ、たかがキスひとつくらいで関係性が変わるだなんて、期待してはいけないと分かっていた。
ああいうことは碓氷さんに取ってはただの気まぐれ、日常的な挨拶みたいなもので、きっと俺だったのもたまたまそこにいたからってだけだ。だからそれで何かがどうかなるわけではないのだ。
わかってはいたけど、ああ、やっぱりそうだよなと、ちくりと俺の心に消えない傷みたいなものがついたのも確かだった。
俺は、碓氷さんが好きだ。
社会人になって、憧れの車を中古車だけど手に入れて、念願の地元のクルマコミュニティにも顔を出すようになって、そこで初めて見た時からの、片思いだ。
男も女も見境なく手を出す節操なし、というのがコミュニティのリーダー格であり碓氷さんの旧友らしい竹本さんの碓氷評で、だから俺にもチャンスはあるんじゃないかって、きっと少しだけ期待をしてしまって、いた。その結果が、このザマだ。気まぐれにキスをされ、そんなことなんかまるでなかったみたいに振る舞われているのに、名前を覚えられてるってだけで嬉しいなんて、プライドないのかと自分でも思う。
でも、好きになってしまったから、どうにもできない。
「どうしたんですか」
声に感情が入らないよう、極力事務的に聞こえていて欲しい、と思いながら、俺は性懲りも無く弾む胸を抑えながら電話に出た。
「あ、忙しかった? もし都合悪いなら大丈夫だよ」
く、と俺は下唇を噛んだ。
こういう人なのだ。傍若無人みたいに見えて、すごく人を見ているし、今の俺の声の調子だけでこうやって気づいて、さりげなく気遣ってくる。嫌いになれるわけがない。
「いえ、ちょっとさっき洗車から帰ってきたばっかだったんでバタバタしてただけで、今は大丈夫です」
「そお? じゃあお言葉に甘えるねー。甘えついでに、裕貴くんにひとつ頼みがあってさあ」
それから碓氷さんは続けて、俺に全く理解不能の「お願い」を口にした。
「明日、助手席参加したいんだよね」
「は?」
助手席参加、つまりツーリングで自分の車でなく他の参加者の車の助手席に乗って参加すること。
「碓氷さん、車調子悪いんですか?」
碓氷さんの車はいわゆるヴィンテージカーだから、現代の車では考えられないような故障や不調を起こしやすい。真っ先に思いついたのは、それだった。
「いやー、ちょっと事情があって。詳しくは言えないんだけど、どうしてもダメ?」
その聞き方はずるい。俺が碓氷さんの「お願い」に弱いと分かっていて出している声だ。
「……わかりましたよ、よくわかんないですけど。で、何時にどこに迎えいけばいいんです?」
「お、さっすが裕貴くん! ええとね、じゃあ六時半に、場所はこの後送るから」
通話を切って、俺はため息をついた。
正直、嬉しい。
どんな事情があるのかは知らないが、長時間、同じ車に二人で乗って、ツーリングに行けるのだ。何より、「明日一日は俺がいなければ碓氷さんはどこにもいけない」という状況に、ぞくぞくと昂るものがある。
片思いを拗らせすぎて、自分がだいぶヤバいやつになっている自覚は、あった。
しかしその期待が翌朝呆気なく打ち砕かれることになるとは、この時の俺はまだ、予想もしていなかったのだった。
バタン、とドアを片手で閉めて碓氷さんが集合場所の駐車場に降り立った時、すでに集まり始めていたメンバーからざわめきが沸き起こった。
それもそうだろう、碓氷さんは愛車の種類が種類だけにツーリングの不参加なら珍しくないが、こうして助手席での参加なんて、多分初めてのことだ。
「碓氷さん、どうしたんです?」
碓氷さんの取り巻き……もとい、ファンの代表格みたいな女性が声をかけてくる。残りの顔ぶれも彼女の疑問にうんうんと一様に頷いた。
「ああ、俺ねえ、車、売っちゃったんだよ」
その一言は、その場にいた全員を大混乱に陥れた。
「えっ、うそ、それほんとですか?」
「いつ? 誰に? いくらでっ!?」
「俺言ってくれれば言い値で買いましたよ!!」
悲鳴を上げる人、我を忘れて詰め寄る人、信じられないという顔で口を開いたままの人。
まさに、阿鼻叫喚だ。
俺もまさかそんなことだとは思わず、呆気に取られて車から降りたままの姿勢で立ち尽くしてしまった。
「だから今日は裕貴に乗せてきてもらった」
ね、という顔で俺の方を振り返って、手招きされる。
何か違和感が走り抜けた気がしたが、呆然としたまま俺は碓氷さんのそばに寄った。
いきなり、肩を抱かれた。
「!?」
俺は硬直し、周りも目をむいている。
「ああ、言ってなかったっけ、俺たち、付き合ってんの」
「はああああああ!?」
今度は俺も一緒になって、悲鳴をあげた。
「……」
「機嫌、直してよ~」
車の中は自分で言うのもなんだが、氷点下だ。
一同を恐慌状態に叩き込んだ後、いち早く気を取り直した竹本さんに問いただされ、碓氷さんはあっさりと認めた。
「エイプリルフールってみんなわかってると思ったんだよ……」
「そりゃ、確かに今日は四月一日ですけど」
「敵を欺くにはまず味方からって言うじゃん」
「欺くにしたって程度ってもんがあります」
「コーヒー奢ったじゃん~」
年上のイケメンに抱く感想ではないのは分かっているが碓氷さんの拗ねる様子がどうにも可愛くて、それ以上強く言えない。
でも、俺は、怒っていると言うより、どこか、傷ついていた。
そういう冗談に俺が巻き込まれても平気だと碓氷さんに思われていたことに、だ。
俺が碓氷さんを好きなのは、碓氷さんも気づいている。そうでなければさすがにキスなんかしないだろう。下手をすれば警察沙汰だ。
——なのに、俺の気持ちを弄ぶようなことをしていると分かってるんだろうか、この人は。
きっと悪気はないから、余計に。
早く碓氷さんを下ろして、家に帰って酒でも飲んで早く寝よう。
俺はそう思ってアクセルを踏み込んだ。
「今日はお疲れ様でした」
「まだ怒ってんの? ごめんって」
頭を撫でられそうになり、咄嗟に避けた俺を、碓氷さんはびっくりした顔で見た。
——ほらやっぱり、分かってない。
俺は唇を噛んで、俯いた。あまり、知られたくないと思った。
「……どうした?」
碓氷さんの声が、変わった。
俺はそこで、なんでもないというべきだったんだと思う。
「……」
でも、できなかった。
代わりに、碓氷さんをじっと見た。
目に涙が溜まっていたことは、分かってしまったと思う。
碓氷さんが小さく息を呑んだ。
「……ご、めん」
今までと全く違う、「ごめん」だった。
俺はこれ以上そこにいたら醜態を晒しそうで、俯いて車のドアを閉めようとして、そこにぬっと差し入れられた碓氷さんの手を挟みそうになって慌ててもう一方の手で止めた。
「違うんだ。……ちょっと、時間をくれないかな」
俺が頷くまで手を退けてくれないみたいだから、俺は仕方なく黙って頷いて、俺の頭を撫でる手も今度は避けなかった。
バタン、とドアは閉じ、碓氷さんと俺との間を分断する。
流れる涙を拭いもせず、俺は夕暮れの中、家に向かってがむしゃらに走った。
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第107回 お題「エイプリルフール」「時間」
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