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27.覚悟

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 やっぱりデジャヴだ。
 前も、こうやって士郎のマンションまで連れて帰られて、こうやって怒った士郎に冷えたビールの缶を出された。

 なぜあそこにいたのか。
 どうして自分がいた場所が分かったのか。
 あの女性はどうしたのか。

 絢也が聞きたいことは山ほどあった。
 だが、士郎は話しかけることも躊躇われるほどの怒気をはらみ、タクシーの中でも一言も口をきかなかった。

 こんなに怒っている士郎を見るのは初めてだった。
 いつもは適当なことばかり言って、ケタケタ笑っているようなやつなのに。
 だが、絢也はなぜ自分がここまで怒られなければいけないのか、当惑もしていた。
 女性と話し込んでいたのは、士郎だろう。今更、勝手に何を怒っているのか。
 そんな、冷めた気持ちも絢也の心の中にはあった。

「俺、今、すっげえ怒ってっかんね」

 ドスの聞いた声で、士郎が言葉を発した。
 言われなくても絢也にだってそれくらい分かっている。

「自分でも、どうしたらいいかわかんねえくらい、頭に来てる」

 ——そう言うけどさ、あの女はどうしたんだよ。知らねえふりしようってか。

 そんな、どす黒い思いが絢也の心の中に湧き出してきて、止められない。
 絢也のもの言いたげな目つきに、士郎はぎっと絢也の顔を睨みつけたあと、大きく息を吐いた。

「こうやってても、お前はどうせだんまりだろうから、結局俺が全部話すことになるんだろうけど。お前、どうせなんかいろいろ勘違いして、俺と別れようとか思ってんだろ」
「え」
「言わんこっちゃねえ。お前さ、それもう直んねえんだろうな」
「それ?」

 それ、と言われても、絢也にはピンとこない。
 士郎が再び大きなため息をついた。

「ひとりで勝手にいろいろ決めつけて行動する癖! 夕方に俺と紗栄子が一緒にいたところ見て、お前逃げ出しただろ。で、あんな意味のわかんねえところにいた。大体絢也が考えそうなことくらい、俺にはわかるっつーの」
「あれは! お前が」
「俺が紗栄子とよりを戻そうとしてるとか、おおかたそんな風に思ったんだろ?」
「違うのか」
「ちげーわ」

 呆れたように士郎が鼻で笑って、ビールの缶を煽る。
 絢也も、ようやく目の前の缶に手を伸ばした。

「あれは、紗栄子が勝手に俺の知り合いに聞きまくって、俺のマンションを探し出して押しかけてきたんだよ。絢也が来たとき、俺は紗栄子をなんとかして帰らせようとしてた」
「でも、よりを戻したいって、言われたんだろ」
「そりゃね。そのために空港まで俺に会いにきたり、俺の住んでるところを知り合いに聞きまくったりしたんだろ」
「お前、それで、紗栄子さんとはやり直さないのか」
「はぁ? なんでお前にそれ言われなきゃなんねーの? お前、紗栄子のことがなくても俺と別れたいとか思ってたりする? 俺のことが嫌になったわけ?」

 絢也は慌てて首を横に振った。

「違う、そういうわけじゃねえ。ただ……」
「ただ?」

 言葉を探して言い淀んだ絢也に、士郎が間髪入れず先を促した。

「ただ……お前は、ゲイじゃない」

 また呆れて大声を上げそうになった士郎を手で押しとどめて、絢也が続ける。

「お前はそう言うと怒るけど、でも、お前には、女を好きになって、結婚して、ガキ作って、家庭を持つって将来が選べるんだよ。俺と違って。俺と一緒にいるってことは、そういうのを全部棄てるってことだ。俺がいたら、お前の中の、選択肢を潰すことになる。普通の幸せも選べるのに、俺がいたら、邪魔になる」

 だから、と続けようとして、絢也は士郎の鬼のような形相に怯んで口を閉じた。

「俺ね、帰ってきた時よりさらに今、怒りボルテージ上がったかんね」

 さすがにマンションで大声はまずいと思ったらしく、低く抑えた声で士郎が言う。
 だが、その目には絢也が今まで見たこともない激情を浮かべ、髪の毛を逆立てんばかりの殺気をまとっていた。

「お前、一発殴っていい?」

 絢也は口がきけなかった。
 自分が言ったことがまずかったのだということだけが、ひしひしと痛いほどに伝わってくる。

「絢也、お前が怖がりなのはよーく分かってる。人を信用しないのも、よーく知ってる」

 士郎の抑えた声が、しんとした部屋に響く。

「だけどな。俺の気持ちを軽く見るにも、程があるだろ。いい加減にしろよ。俺がどんな覚悟でお前と一緒になるって、お前と2人の将来を描くって決めたか、少しはその脳みそ使え! 昔の女が、売れて有名になった元恋人が惜しくなって復縁を迫ってきたくらいで揺らぐような、そんななまっちょろい気持ちで俺はお前と一緒にいたつもりはねえんだけどな! 伝わってなさすぎて、俺は今めちゃくちゃ泣きてえよ!」

 泣きたい、と言いながら、士郎の目からはすでに涙が溢れ落ちている。
 絢也は、言うべき言葉が見つからず、ただただ、自分の不甲斐なさを呪った。

 士郎の言うとおりだ。
 自分は、傷つくことを恐れて、士郎の気持ちを知ろうともしなかった。
 異性愛者であった士郎が、自分と恋愛関係になるということをどれほど真剣に考えてくれていたか、考えもしなかった。
 士郎のことを思いやるふりをして、自分のことしか考えていなかった。
 挙げ句の果てに、あんな形で、士郎の心を裏切った。

 自分のしでかしたことの重大さに今更気づいた絢也は、すぐ目の前の地面がパックリ割れて深淵を覗き見たような、底知れぬ恐怖に背筋が凍りついた。

「……ごめん。俺が、悪かった」

 絞り出すような声で、それだけを言うのが、絢也には精一杯だった。

「俺は、」

 涙で掠れた声で、士郎が続ける。

「紗栄子と、よりを戻そうなんて、カケラも思ってねーよ……お前にそう思われてたのが、ショックだわ」
「……ごめん」

 絢也は他に言葉が見つからず、同じ言葉を繰り返した。

「あの時、俺は、紗栄子に、俺にはもう一緒に生きていきたい人がいるから、お前とはもう会わない、もう俺の前に姿を見せるのはこれきりにしてくれって、そう話してた。だけどお前は何? 俺が紗栄子とより戻すって勝手に思い込んで、別の男引っ掛けてたわけ? やっぱり一発殴らせろ」

 一度は静まった怒りが言っているうちにまた盛り返してきたのか、目の据わった士郎に胸ぐらを掴まれ、絢也がよろける。

「お前さあ、なんで何度言っても直んねんだよ。あのクソプロデューサーに襲われそうになった時と一緒じゃん。全部ひとりで決めつけて、背負いこんで、ひとりで解決しようとして……俺、そんなに頼りねえのかよ。そんなに、信用できねえのかよっ……」

 絢也の胸ぐらを掴みながら、また士郎の目から大粒の涙がボロボロこぼれるから、絢也は慌てて士郎の目元を着ていたパーカの袖で拭った。

「どうしたら、俺のこと、信じてくれんの? どうしたら、お前の感じてる恐怖を俺も背負えんの? 俺、お前のそばにいることで、お前が安心して笑えるようになってほしいって、いつも思ってたのに」

 思ってもみなかった台詞が士郎の口から飛び出してきて、驚いた絢也が目を丸くする。
 そんなに、士郎が自分のことを思ってくれていた。
 その事実に、胸が苦しくなり、絢也は我知らず士郎を抱き寄せて、きつく腕の中に囲い込んだ。

「……ごめん」

 腕の中の黒髪に、そっと頬を寄せる。

「それしか言えねえのかよって感じだけど、本当に、悪かった。お前の、言う通りだ……何回言われても、全然変わってねえな、俺。だけど、お前のことを信用してないとか、頼りにならないと思ってるとか、そういうんじゃねえってことは、言わせてほしい」

 士郎がどんな顔をしているかは、この姿勢だと絢也からは見えない。
 ただ、士郎は何も言わず、わずかに身じろぎしただけだった。
 絢也は続ける。

「俺、お前に会うまで、ずっとひとりだったんだ。付き合うって意味だけじゃなくて、前にも言ったけど、親にも兄弟にもカミングアウトしてねえし、誰にも相談もできなかった」

 必死に言葉を探しながら、絢也は続ける。

「だから、なんつーのかな、ひとりで考えて決めて、行動して、その責任も自分で取るって癖が、ずっとついてた。だけど、お前の気持ち、覚悟を決めて俺といてくれてること、そういうのが全く見えてなかったのは、本当に悪かった」

 そう言って、絢也は、士郎の背中を撫でて、一呼吸おいた。

「だけど、少しずつになるかもしれないけど、俺も、お前と一緒に生きてくってことに、慣れるようにするから。お前が言ったように、なんでも半分ずつ、背負っていくってことが、できるようにするから。これからも、こうしてお前を泣かせることがまたあるかもしれないけど、それでもお前がいいって言ってくれるなら、俺は、お前といたい」

 士郎が絢也の背中で、小さく鼻をすする。
 言いながら、絢也の中で、何かがカチッとはまったような感覚があった。
 今、一番言うべきこと、それが絢也の頭の中に、突然降ってきた。

「士郎、ごめん。好きだ」

 士郎の新しい涙が、首筋を伝い落ちるのを絢也は感じた。

「今まで……」
「え?」

 掠れた声が聞き取れなくて、絢也が聞き返す。

「今まで、一度も言ってくれなかった……」
「そう、だっけ……」
「そうだよ……」

 士郎が絢也にぎゅうぎゅうとしがみつく。
 怒りながらも喜んでいるのがその声から分かって、絢也は士郎の身体を抱きしめ返した。

「好きだ」

 もう一度そう言って、絢也は首をひねって、士郎の赤く染まった首筋にキスをした。
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