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1.出会い

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 この人を傷つけたい。

 傷ついて、泣いて、絶望してしまえばいい。
 自分の中にそんな醜い感情があると、彼に出会ってはじめて知った。
 これほど恋焦がれても、こちらの気持ちに気が付きもしない男など、傷ついてしまえばいい。

 ……そんなどす黒い感情を、私は持て余していた。


◇◇◇◇◇


 
 ギルバート・ウィングフィールドに出会ったのは今からもう10年近く前のことになる。ギルバートと私、ルース・エヴァットは王都の貴族学校で同窓だった。国中の貴族子息のほぼすべてが15歳になったら入学する貴族学校。中には外国の貴族や王族もいる選ばれた場所。広く集められているとは言え、数はそう多くなく、同じ年に入学するのはせいぜい30名程度だ。その30名のうちの一人がギルバートだった。

 彼は快活で明るい性格で、かつその整った顔立ちのために目立っていた。まるで太陽のように輝くような金髪。瞳の色は透き通るようなアイスブルーで、高い鼻と薄い唇が絶妙なバランスで小さな顔の中におさまっている。入学当時はまだ15歳だったというのに既に周りよりも抜きんでて背が高く逞しく、まるで童話の中からでてきた騎士か王子のようだった。

 それにひきかえ私はパッとしない黒髪に茶色の瞳、平坦な顔立ちに男らしくない細身の体と何をとっても凡庸な男だった。ひっそりと教室の隅で本を読み、太陽のような同窓生を眺める。そんな陰気な少年だった。
 
 だからいつも朗らかに笑う彼と私では接点がないかと思ったが、人生とは不思議なものだ。
 交わる筈のない二人が、本当に偶然に言葉を交わしたのだ。

 ある日ギルバートは、偶然風邪をひいて1日学校を休んだ。彼はすぐに回復したが、その次の日に彼の取り巻き達も感染したのか欠席をしてしまった。貴族学校の教師たちは厳しく、休んだので授業についてこれない、なんて甘えは許してはくれない。そこでまたしても偶然、彼は教室の隅で筆を握る私に声をかけたのだ。

『君、次の授業の課題、もう終わってる?』
『ああ……えっと、終わっているけど、見る?』

 明るい太陽のような彼の他のみを誰が断ることができるだろうか。にこりと笑いかけられて私はノートを供物のように差し出した。きっと彼はぺらぺらとページをめくり、いくつかメモをとり、それで終わるだろうと思っていた。だが。

『……これ、君が書いたの?』
『そうだけど、どこか変だった?』
『いや、変どころか……すごいな。こんなの見たことない』

 彼はなにやら感心したような声をあげて、じっと私の字に視線を落としている。昨日の授業よりもずっと前までさかのぼってページがめくられていく。するすると私のノートを何枚もめくり、それからほぉと熱い息を吐いた。

『いや、ごめん。俺はギルバート。もし良かったら俺に勉強を教えてくれない?』
『勉強?』
『嫌かな? 面倒?』

 面倒だから嫌だというわけじゃない。ただ、彼は成績で一番というわけではないが、決して落ちこぼれではないのだ。友人たちと運動したり語らったりする時間を割いてまで、私から勉強を教わる必要なんてないだろう。

 そう思って口ごもっていると、彼はぐいと私の傍まで寄ってきた。

『ねぇ、駄目? 詳しく説明してくれなんて言わないから、お願い』
『いや、嫌じゃ、ないよ。ただ……』
『ただ?』

 ただ、私みたいな陰気な男とつるんでいると他の友人になんて思われるか分からないよ。私と一緒に勉強したって楽しいことなんて一つもないよ。
 そんな言葉を口の中で何度も混ぜるけれど、引っ込み思案すぎる私の唇はそれを吐き出してくれなかった。だってそうだろう。考えてもみてくれ。御伽噺の世界から飛び出してきた王子様に、急に吐息さえ聞こえそうなほどの距離に詰め寄られているのだ。もし彼を突っぱねることができるなら、それは鉄の心臓を持った人間か、それか同じく御伽噺のお姫様くらいだろう。

 ともかく、私にできることはただ一歩気が付かれないように後ろに下がり、首を間抜けに横に振ることくらいだった。そして彼から溢れ出る光のようなオーラから目を逸らして、ごくりと唾を飲みこんだ。

『……なんでもない。……私でいいなら、教えるよ』
『良かった! ありがとう、えーっと……』
『ルース。ルース・エヴァット』
『すまない。俺はギルバート。ギルバート・ウィングフィールド。ギルって呼んでくれ』
 
 同じ教室にいるというのに名前を憶えられていなかった。そのことに小さく肩を落としつつ、私は彼に向って手を差し出した。ギルバートは少しきまり悪そうに笑うと、力強く私の手を握りしめた。

 私の手よりもずっと大きく硬い掌に、同性だというのに心臓が高鳴る。

 でもきっと、勉強を教えてくれなんて気まぐれはすぐに終わる。数日もしたら私のことなんて忘れて、またいつもの取り巻き達と仲良く笑いあっているだろう。私の名前もまた忘れてしまうかもしれない。だって彼は光で、私は影のような男なのだから。

 それもまたしょうがないことだろう。
 そう思いながら、握られた掌をそっと引いた。

 彼と私は違う世界の住人なのだ。それをよく分かっている。
 分かっている……つもりだったのだが。

 ギルバートのそれからの行動は、少々、いやだいぶ予想の範囲外だった。
 
 私たちはみんな寮生活だ。歴史あるホールに集まって食事をとり、同じ宿舎で寝泊まりする。私はその中であまり目立たぬようにひっそりと、数名の同じように物静かな友人と過ごしていた。

 そしてそれは卒業まで続くと思っていたのだけれど……ギルバートがそれに乱入したのだ。

 朝起きて朝食をとろうとホールに出ると、明るく呼び止められて隣に座られる。喉を通らなくなる食事をなんとか飲み込んで学び舎へと向かうと、すかさず隣の席を陣取られ、授業中ずっと私の手元に視線が向かう。ようやく授業が終わったと思ったら、小休憩の間はもちろん昼も放課後もずっと付いて回られる。

 とにかくべったりとくっ付いてきたのだ。
 これは予想外だった。勉強を教えろと言われても、せいぜい小休憩の時にノートを見せたり分からないところを解説する程度だと思っていたのに、彼は深く深く私の生活に入り込んできた。
 
 傍に居て話すことは、最初は授業の内容とそこから発展する問題や考察なんかだった。それが時間が経つうちにどんどん広がっていき、政府の抱える問題、外交のこと、それから果ては心に響いた文学やら天文学への浪漫やらと取り留めなく広がっていった。これはひとえにギルバートがとてつもなく話し上手で聞き上手だったからだと思う。暗くてそれまで誰かと熱く語らったことなんてない私ですら、心を開いてぺらぺらと夢や理想を語ってしまうほどに。

 そうしていつの間にか親友になり、どこへ行くにも一緒に過ごすようになった。たぶんギルバートが先に私のことを親友と呼び出したのだと思う。だけどその時には私もギルバートがいない生活なんて想像できないくらい、彼にすっかり魅了されていた。

 そう。すっかり彼の虜になっていたのだ。

 ギルバートはとてもいい男だった。
 本当に彼は噂通りいい男だった。いい男で、明るく愉快で快活で、大貴族の息子であれだけ秀麗な美貌を持っているというのに鼻にかけることもなく謙虚で、それでいて賢くさらには運動神経も良くて本当に非の打ち所がない男だった。それこそ……いつの間にか好きになってしまった。

 初めてその気持ちに気が付いた時は絶望した。

 同性だというだけでも困難であるのに、相手はあのギルバートだ。100人いれば100人ともが好きになってしまうような、眉目秀麗な男をまさか自分が恋愛対象として好きになってしまうなんて。トカゲがライオンに惚れたようなものだ。
 まさに一欠けらも成就する可能性のない恋。絶望としか言いようがなかった。
 
 すぐに諦められるかと思ったけれど、私の恋心は意外にも粘り強くしつこかった。
 ギルバートが他の女性と噂になると心の中に嫉妬の炎がメラメラと揺れ動くのを感じた。彼に、私以外の親しい友人ができたと聞くとこっそりとその相手のことを探った。彼の言葉の端から、私が彼にとって一番の友人なのだとそっと確認しては胸を撫でおろした。

 好きになんてなりたくなかった。本当に、彼を好きになんてなりたくなかった。
 私の中にこんなにも醜い感情があるなんて、知りたくなかった。

 そんな苦い苦い想いを飲み込みながら、私はそれでも表面上は良い友人のふりをし続けた。

 そして……友人という分厚い仮面をかぶって、10年の月日を過ごしてきたのだ。


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