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小径を行くと右側に暖簾の出ているお店がある。引き戸を開けると、カウンター席がすくそばにあり、他にお座敷がある。座敷は苦手で、私はいつもカウンター席に座った。
狭いところだが、ここの料理はいつも美味しかった。
家族経営で、カウンターから見える調理場には店主の姿があった。
「いらっしゃい」
笑顔でおしぼりを渡しながらそう言ったのは店主の妻で容姿端麗な女性だった。
「瓶ビール、あと刺身の盛り合わせ」
「はい」
ここのメニューはもう頭に入っていた。
客足はまだ少ない。私は腕時計を見た。まだ、この時間帯ではこれぐらいだろうと思った。これからどんどん客が入ってくる筈だ。
ここはあまり若いのは来ない。若いのはここより安いところに行くだろう。私は騒がしいのは好きではないので、そういったところへは行かない。
「最近はどうですか?」
瓶ビールを持って来ながらその女性は話しかけてきた。
私はグラスを持ち上げる。
基本、手酌だが最初の一杯は注いでくれるのだ。
「いただきます」
そう言って冷たくて美味しいビールを飲むと、私は質問に答えた。
「いや、変わらずですよ」
私の家は昔、百姓の家で土地をある程度所有していた。その土地を田んぼをやめてアパートを建て、その収入があった。それを引き継いだだけの私は特に苦労することもなく、ありがたく大家という立場にある。
女性が訊いたのはそのことではない。
嫌味になるが金があることはこの女性も知っている。
むしろ、女性が私に訊いたのは体調の話しだ。
私がアメリカに旅行に行った時に自分はおかしくなってしまったことをその人にも話をしていたのだ。
「病院の先生はなんて言ってらっしゃるんですか?」
「今のところ治療法はないって」
実はこのやり取りは初めてではない。私はもう諦めているのだが、女性は私がまだ病院をあちこち回っているとでも思っているのだろう。
「はい、刺身の盛り合わせです」
「ありがとう」
私は小皿に醤油とわさびを少量つけ、食べ始めた。
「うん、美味しい」
「ありがとうございます」
私は人の名前を覚えられなくなった。この女性も知っている顔だが、名前がもう出てこない。だが、そのかわりに味覚が何故か敏感になっていた。前よりもなんというか、舌から伝わる情報が多くなった気がする。
「ご友人はどんな様子なんですか?」
「相変わらず立ったまま生活している」
「本当に?」
驚いた顔をされたが、これも初めてするやり取りではない。多分、未だに信じられないのだろう。まぁ、いいさ。
「あいつは小説家で講師だ。それが救いだ。立ってでも出来る仕事だ。ついでに男というのもそうだ」
「ああ」
女性は今ので分かったようだ。
「座ることも出来ないんですか?」
「そう」
「でも、困りません?」
「え? 何が? ああ、そうか」
ここでははっきり言わないが、大のことを言っているのだ。
「確かにそれは知らなかったな。今度、訊いてみるかな」
「いや、いいんです」
何故か女性は遠慮した。
「何故?」
「もしかするデリケートな質問になるかもしれませんから」
「そうかな?」
同じ男だぞと思ったが、女性は後悔した様子で「いえ、本当にいいんです。忘れて下さい」と言った。
「本当に言わないで下さいね?」
「ああ……分かった」
釈然としないが、まぁ明日になっていたらどうせ忘れてしまっているだろう。
「しかし、あの女性は可愛そうでしたね。なんで、ああなってしまうんでしょうね」
今度は顔がマネキンになった女性の話をしている。
確か、最後のネット記事では憔悴しきった感じの旦那の姿があって、そばに付き添っていた写真が掲載されてあった。あれ以来、その女性のことは知らない。
もう、あれから2年が経過しているんだ。いくら衝撃的な出来事だったとしても、風化していくものだ。
「まぁ、そうだね」
私が言えるのは同調することぐらいだった。
それ以上の言葉を求められる前に私はビールを口に入れた。
狭いところだが、ここの料理はいつも美味しかった。
家族経営で、カウンターから見える調理場には店主の姿があった。
「いらっしゃい」
笑顔でおしぼりを渡しながらそう言ったのは店主の妻で容姿端麗な女性だった。
「瓶ビール、あと刺身の盛り合わせ」
「はい」
ここのメニューはもう頭に入っていた。
客足はまだ少ない。私は腕時計を見た。まだ、この時間帯ではこれぐらいだろうと思った。これからどんどん客が入ってくる筈だ。
ここはあまり若いのは来ない。若いのはここより安いところに行くだろう。私は騒がしいのは好きではないので、そういったところへは行かない。
「最近はどうですか?」
瓶ビールを持って来ながらその女性は話しかけてきた。
私はグラスを持ち上げる。
基本、手酌だが最初の一杯は注いでくれるのだ。
「いただきます」
そう言って冷たくて美味しいビールを飲むと、私は質問に答えた。
「いや、変わらずですよ」
私の家は昔、百姓の家で土地をある程度所有していた。その土地を田んぼをやめてアパートを建て、その収入があった。それを引き継いだだけの私は特に苦労することもなく、ありがたく大家という立場にある。
女性が訊いたのはそのことではない。
嫌味になるが金があることはこの女性も知っている。
むしろ、女性が私に訊いたのは体調の話しだ。
私がアメリカに旅行に行った時に自分はおかしくなってしまったことをその人にも話をしていたのだ。
「病院の先生はなんて言ってらっしゃるんですか?」
「今のところ治療法はないって」
実はこのやり取りは初めてではない。私はもう諦めているのだが、女性は私がまだ病院をあちこち回っているとでも思っているのだろう。
「はい、刺身の盛り合わせです」
「ありがとう」
私は小皿に醤油とわさびを少量つけ、食べ始めた。
「うん、美味しい」
「ありがとうございます」
私は人の名前を覚えられなくなった。この女性も知っている顔だが、名前がもう出てこない。だが、そのかわりに味覚が何故か敏感になっていた。前よりもなんというか、舌から伝わる情報が多くなった気がする。
「ご友人はどんな様子なんですか?」
「相変わらず立ったまま生活している」
「本当に?」
驚いた顔をされたが、これも初めてするやり取りではない。多分、未だに信じられないのだろう。まぁ、いいさ。
「あいつは小説家で講師だ。それが救いだ。立ってでも出来る仕事だ。ついでに男というのもそうだ」
「ああ」
女性は今ので分かったようだ。
「座ることも出来ないんですか?」
「そう」
「でも、困りません?」
「え? 何が? ああ、そうか」
ここでははっきり言わないが、大のことを言っているのだ。
「確かにそれは知らなかったな。今度、訊いてみるかな」
「いや、いいんです」
何故か女性は遠慮した。
「何故?」
「もしかするデリケートな質問になるかもしれませんから」
「そうかな?」
同じ男だぞと思ったが、女性は後悔した様子で「いえ、本当にいいんです。忘れて下さい」と言った。
「本当に言わないで下さいね?」
「ああ……分かった」
釈然としないが、まぁ明日になっていたらどうせ忘れてしまっているだろう。
「しかし、あの女性は可愛そうでしたね。なんで、ああなってしまうんでしょうね」
今度は顔がマネキンになった女性の話をしている。
確か、最後のネット記事では憔悴しきった感じの旦那の姿があって、そばに付き添っていた写真が掲載されてあった。あれ以来、その女性のことは知らない。
もう、あれから2年が経過しているんだ。いくら衝撃的な出来事だったとしても、風化していくものだ。
「まぁ、そうだね」
私が言えるのは同調することぐらいだった。
それ以上の言葉を求められる前に私はビールを口に入れた。
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