始まりの順序

春廼舎 明

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その後14

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 早く帰りたいと思っていたのは、翠に会いたいから。翠の料理を食べたいから。切って醤油をかけただけの冷や奴でも、翠がテーブルに並べてくれるだけで、翠が向かいにいるだけで美味くなる。

「竜一さん、お仕事終わりですか?」
「うん。翠、こんな所でどうした?」
「ミュージカルのマチネのチケット貰って観てきたんです。その後散歩してたらこのビル見つけて」
「え? 劇場から歩いてきたの?」
「はい。それでこのビルの前通りかかって、思わず眺めてたところ」
「そっか」
「藤沢」

 上司が声をかけてくる。総務部にいると言っていた先輩の奥さんだろうか、見慣れない女性が後ろからついて来る。

「あれ? もしかして、今日予定あったの?」
「いえ、早く帰りたいとは思ってましたけど、彼女は今偶然ここで会ったんです。」

 会いたい相手に会えてしまったから、急ぐ理由もない。先輩方に引き合わせ、翠も夕飯に誘う。お互いのパートナーを連れての食事に、一人ぼっちな同僚はやさぐれていた。

「翠はなんで、タバコやめたの?」

 分煙されていない店だけど良いかと尋ねた友人の言葉にふと思いつく。

「ピル飲むため」
「え? そこは普通、子供欲しいからとかじゃなくて?」
「35歳以上の喫煙者にはピルは処方されないのよ。」
「は? 年齢制限あるの?」
「なん年前だったか、血栓症で死亡者が出るの。日本人とは体質も食生活もだいぶ違うから、一緒くたに見るのもどうかと思うけど。」
「え!」
「クリニックによっては、二十代でも喫煙者には処方しない、って方針のところもあるよ。」
「それでやめたの?」

 翠がピルを飲んでいると聞いた時、婦人科系の症状緩和の為だと言われ、自分なりに調べたことがある。医療機関のウェブページで信頼できる情報源ではあったけど、実際自分が飲むわけじゃないからかそんなことまでは知らなかった。

「ううん、その前にね。ショックなことがあって」
「なに?」
「枕カバーが、いつもくさいと思ってた父親のニオイと同じ、苦いニオイを感じたの。洗ってもいつもにおってた父親の服、あれはヤニの臭いだと気がついて、自分からもしてるって気がついてやめたの。」
「…なんか、翠なら気付いた途端スパッとやめられそうだな。」
「喉の不調も抱えてた時期だったし、意外に未練も禁断症状もなく、アッサリ」

 本人はいたって可愛い系でいかにもフェミニンなものが似合う風貌なのに、こざっぱり、冷徹な面のある彼女。なんとなく想像できてしまう。

「翠ちゃんはタバコの煙大丈夫なの?」

 店の扉を開けると今日は喫煙者が多いのか、思ったより強いタバコの匂いに心配そうに友人が気にかけてくれる。

「『ちゃん』!」

 翠が小声で呟き、目を白黒させている。
 座敷席に案内され、煙と臭いが来なくなる。

「あ、タバコは大丈夫です。吸われるならどうぞ。嫌いでも苦手でもないですから。」
「ああ、大丈夫。このメンバー喫煙者いないから。」
「そうなんです?」
「この店な、茶碗蒸しが絶品なんだよ。別にタバコ毛嫌いしてるやつ、このメンバーにいないしな。」

 靴を脱ぎ、上着をハンガーにかけ席に着きながら説明する。彼女の向かいに先輩の奥さんが座り、俺と先輩の間のテーブルの短辺に同僚が座る。

「わ、楽しみです。他にオススメは?」
「その前に飲み物…」

 翠がうきうきとメニューを開く。ノンカフェインの温かいブレンド茶を頼んで、同僚がなぜか申し訳なさそうにしてる。



「翠ちゃんはもしかして呑まない?」
「あ、はい。あの、『ちゃん』はさすがに、年齢的に厳しいです」
「え? ごめんなさい。若い女性にはついつけちゃうのよ。」

 竜一さんの先輩の奥さん__茶碗蒸しの中の椎茸が好きだと熱弁を振るう__香茹(こうこ)さんと心の中で呼ぶ事にした。

「居心地悪そうにしてるので、勘弁してやってください。」

 横から竜一さんが助け舟を出してくれる。サラダでなく、お浸しやたたきキュウリの梅和え、お新香など私の好みに合わせてメニューを上げていく。
 鶏とキノコの柚子胡椒炒めなる魅惑的なメニューを見つけ、追加してもらう。

「あら? 辛いの良いの?」

 香茹さんが、声をかける。
 お酒を頼まず、ノンカフェインの温かいお茶、竜一さんの世話焼きっぷりに勘違いされたのだろう。ああ、またこれか。

「お酒は体質で飲めないんです。注射前の消毒も、赤ちゃんのおしりふきとか、授乳前のおっぱい拭くのと同じの使うんですよ。」
「ああ、アルコールでかぶれたことありますか?って訊かれて、はいって答えたら何で消毒するんだろうって思ってた。赤ん坊のお尻拭き…」

 例えが微妙だな、と思ったら竜一さんまで乗っかってきてしまい、ますます微妙な空気になる。妊婦かと気遣い、あら勘違いと言うには『まだ』できないと気にしている夫婦には言えない。気にしてないから!! と必死に取り繕い、むしろなんと声をかけて良いか躊躇ためらわれる夫婦。そういうアピールになってしまったのだろうか。
 どうしたもんだろ。
 勝手に勘ぐり、勘違いして居心地悪くなってるんだから、知ったことではない。テーブルの下で竜一さんの太ももをつねり、こっそり溜息をついた。

 店員が飲み物を持ってきて、緩和された。

「うーん…」
「何?」
「やっぱり翠の作った煮豆の方が美味い」
「ありがとう。でもこれはこれで美味しいと思うよ?」

 お通しの五目豆を食べ、竜一さんが首をかしげる。
 どんだけ私補正かかっているの? と思ったけど、なんだか自画自賛、自惚れだと気がついた。

「ああ、彼女、料理得意なんだっけ?」
「この間のシーフードのスープ美味かった。」
「だろ、ハーブとかスパイスの使い方が上手いんだよなぁ」
「え? 食べたの?」
「いやー、あんまり良い香りしてたんで、いただきました」
「男性同士でも、一口ちょうだいってするの?」

 先日の鍋の〆の雑炊を、ひと匙はい、と食べさせてもらったことを思い出した。あれを男性同士…

「いや、男同士で食べさせたりしないからな?」

 思い浮かびそうになった光景を打ち消される。

「味噌汁用のカップに分けてやっただけだよ。」
「竜一はどこでこんな良い子ひっかけてきたの?」
「んー、違う違う。ひっかけたのは私」
「え! こんなおっさんどこが良かったの?」
「意外と肉食系?」
「えー? 私の方がおばさんだし」
「いやいやいや、翠はそろそろちゃんと、自分の見た目気づいた方がいいよ?」
「ええ! いかにも若作りしてますって感じとか、痛々しくなくて、でもババくさくなくてって、服装とかメイクとか気をつけてるんですけど、ダメですか……」

 電車の中でまでメイクしたり、毎月メイクや服に何万もかけたり、過度な痩せ願望とか外見ばかり気にしたりしないけど。私の場合、オシャレじゃなくて、身だしなみだもんなぁ
 ズーンと沈んで反省する。

「違う違う。翠、逆だよ。」
「逆?」

 身だしなみじゃなくてもっとオシャレしろ、じゃなくて華美になりすぎるな?
…んん~?

「多分、翠は自分で思ってるよりだいぶ若く見られてると思うぞ?」
「妊婦さんと間違われる程度には?」
「まあ、な。この中で一番年下、お前だぜ」

 竜一さんが友人を顎でしゃくる。

「え?マジで?」
「私、竜一さんより上ですよ」
「は?」

 一斉に3人から注目された。

「…見えない。」
「お肌ツヤツヤ…」
「…ひっ」

 思わず、竜一さんの背中に隠れた。
 しょうがないなぁと、頭を撫でられた。余計に生温かい視線を受けた。

 お茶をすすり、竜一さんが生々しいところを省いて出会いを語る。ああ、竜一さんから見れば、そうなるんだ。

 気になる人が出来た。なかなかチャンスがなくて声をかけられず、もたもたしている間に会うこともなくなってしまう。会える可能性がまたできたと思ったら、別の人とくっ付いていて声をかけられなくなる。そしてまた会わなくなり、忘れようとした矢先ばったりと出会い、その場でモノにした。なのに、あっさり逃げられ、その後またばったりと出会い気持ちを打ち明け確かめ、ようやくまとまった。
 要約するとそんなところだ。

「馴れ初めはわかった。私は翠ちゃんのお肌がなんでそんな綺麗なのか知りたいわ」
「え? 綺麗? ありがとうございます?」

 タバコ吸っていたからむしろ肌のキメは悪かったと思うし、乾燥肌で粉を吹いていた。だから、やめた後肌の調子が良くなるのは当然だろうし、なんでと言われても?

「そういえば、翠は真冬でも日焼け止め欠かさないよな?」
「うん」
「それか!」

 今時、化粧下地やファンデ、パウダーには大抵UVカット効果は付いている。だから、それはないだろうと思う。ピルを飲んでるから? ホルモンバランスが整ってる、心身共に健康でパートナーとも良好な関係? つまり

「…幸せだから?」

 3人からさらに生温かい視線を受けた。竜一さんはとてもご機嫌そうだった。
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