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しおりを挟むシンシアさんが両手を胸の前で組んで小さくなり、情けなく涙を零す私から興味を失ったように視線を逸らして、シンシアさんの方へと近づこうとしているジルベルト様に怯えている。
彼女が逃げないようにだろうか、ハミルトンがその両肩を掴んで支えていた。
ラファエル様は私の方へ手を差し出して、いつもと変わらない見慣れた優し気な微笑みを浮かべた。
「リディス、これでお前を縛るものはもうなくなった。私と、帰ろう」
これ以上醜態をさらすわけにはいかない。わたしは零れる涙を、振り払われて痛む右手で拭う。
今のジルベルト様が私を望まなくても、その傍を離れようとは思わない。私はシンシアさんと正々堂々と闘って勝つのだと約束したし、本来のジルベルト様はそれを望んでいる筈だ。
「私は、帰りませんわ」
「リディス。勝手に私の傍から離れたことは、許そう。何を不安に思ったのかは知らないけれど、私はお前を大切にするよ。これからも、ずっと」
聞き分けのない子供に諭すように、ラファエル様が言う。
泣きじゃくり嫌々と頭を振る私は、本当に幼い子供のようだ。しっかりしなければと思うけれど、私の事など全て忘れてしまったかのような、まるで本来の人格などなかったかのようにふるまうジルベルト様の様子が、辛い。
ジルベルト様は産まれてからずっと、ルシスの暗く深い感情の支配と戦ってきたはずなのに、シンシアさんを一目見ただけで変わられてしまうなんて、それ程女神の器の存在とは大きなものなのだろう。
過去の記憶が想起される。怯えるシンシアさんの姿と痛む体に、両腕を縛られて猿轡をされ糾弾された場面が重なる。
どんなに頑張っても、結局無駄なのかと――、一瞬だけ諦めのようなものが脳裏を過った。
「……ふふ、……あはは、泣かなくて良いよリディスちゃん!」
唐突に場違いな明るい笑い声が、広間に響く。
私の顔を隠す様にして、そっと私を抱きしめたアスタロトがとても愉快そうに笑っている。
ジルベルト様は煩そうにアスタロトを睨み、ラファエル様は苛立ったように眉を潜めた。
「若君は、リディスちゃんの事をいらない、って言ったよね?」
「そうですね、そういった意味合いの事を言いましたね」
「私も……、そう聞いた」
リアと、シュゼルが静かに頷いた。心なしか皆嬉しそうな気がする。
「どう思う?」
「よく言ってくれました。愚かなジルベルトなど忘れましょう、リディスさん。君には俺たちがいるのですから、何の問題もありません」
「そうだよね、そうだよねぇ、だって約束したもんねリディスちゃん。若君の次に、僕の事を愛してくれるんでしょ?」
アスタロトの言葉と共に、傷んでいる手がふわりと温かくなる。腫れていた手が元に戻り、痛みが消え去った。
リアは私を守るように私の前に立って、ジルベルト様を哀れむように見据える。
「アスタロトの次は俺ですよ」
「……次が空いている、なら、私も、リディスの傍に」
シュゼルが控えめに、私の指先と自分の指を絡める。
「ふふ、嬉しいなぁ。若君がリディスちゃんをいらないって言ってくれるなんて、こんな素晴らしい事はないよ。沢山子供を作ろうね、リディスちゃん。リアとシュゼルの出番がないぐらいには、僕がずうっと可愛がってあげるよ」
アスタロトが私の目尻に口づけて、涙を指先で拭ってくれる。
言っている事はどうかと思うけれど、その言葉とは裏腹に、頬に触れる指先はとても優しい。
「……それは順番でしょう、アスタロト。交代制を提案しますよ。あぁ、でも俺には発情期があるので、その時は離せそうにありませんけど。人狼族も種族に乏しくなってしまったので、よろしくお願いしますね、リディスさん。俺と一夜共にすれば、ジルベルトなんてすぐに忘れてしまいますよ」
リアが不服気に私の手首に口づけて、低い位置から見上げて言った。
「私は……、リディスが城に残り、私と共に過ごす時間を取ってくれたら、それで良い」
小さな声で、シュゼルが言う。
私としてもシュゼルと共に本を読んだり、古代語を教えて貰ったりする時間はとても有意義だったので、またお願いしたいと思う。
「シュゼル、そうやって自分一人だけ好感度上げようとしてるのずるくない? シュゼルだってリディスちゃんが好きだから、図書室で二人で喋ってるんでしょ。本当は色々したいくせに、言わないとかずるいよね」
「……羞恥心も配慮もないお前達とは、私は違う」
「酷いなぁ、僕にだって……、羞恥心はよく分からないけど、配慮ぐらいはあるよね。ともかくだよ、こんなに可愛いリディスちゃんをいらないって若君が言ってくれるなんて、今夜はお祝いだよ。ゆっくりじっくり、僕たちと愛し合おうねリディスちゃん」
アスタロトが軽々と私の体を抱き上げた。
メルクルが「古い側近の方々と送る愛と欲望の日々……、それもまた素敵かもしれませんよ、リディちゃん!」と、精一杯励まそうとしてくれる。
気持ちは有難いのだが、今はアスタロトに抱き上げられている場合ではない気がする。ごしごしと涙を拭って文句を言おうとしたが、その前にラファエル様の怒気を孕んだ声が響く。
「……シンシアと交換だと言ったはずだ。リディスを返せ」
「嫌だなぁ、エンデバラード王。僕たちは別に女神の器とかいらないし。欲しがってるのは、遥か昔のルシスの執念だけだよ。正直、気持ち悪いよね。ねぇ、そこのシンシアとかいうお嬢さんも、そう思うでしょ?」
アスタロトに話しかけられて、ふるふるとシンシアさんは首を振った。
言葉も発せない程、今の状況が恐ろしいのだろう。
シンシアさんはほんの最近までは市井に居た庶民なのだから、それは怖いだろうと思う。
「まぁ、別にどうでも良いか。若君がいらないのなら、リディスちゃんは僕たちの寵姫になる。そういう約束だからね。さぁ、皆でお祝をしようねリディスちゃん。あとは、そちらで適当にやってて。女神の器を若君に渡すのも、連れて帰るのも君たちの自由だ。僕たちには、関係がないし興味もないからね」
「アスタロト様……っ」
降ろしてくれと言おうとしたのだけど、その前に唇を塞がれた。
軽く触れるだけの口づけをしたアスタロトは、ぺろりと自分の唇を舐める。
「もう若君に遠慮しなくて良いよね、リディスちゃん。お行儀よく、ずっと待っていたんだよ?」
「そうです、けれど……、今はそんな状況では」
「別に良いでしょ。若君は……、ルシスは、女神の器が手に入って幸せ。僕たちは君が手に入って幸せ。君さえいてくれたら、危険を冒してまで人の国と交流をする必要なんてないんだし、丸く収まるじゃない。エンデバラード王とその従者には、お帰り頂くという事でさ」
「ですが、私は……」
「知ってるよ。若君が好きなんでしょ、リディスちゃん。でも、リディスちゃんの気持ちなんて別にどうだって良いんだよ。……だって、すぐに僕たちに、君は泣いて縋って愛を乞うようになるんだから」
「楽しみだね、僕の玩具」と言って、アスタロトは舐める様な眼差しを私に向ける。
どこまで本気なのかまるで分からないけれど、ぞくりとしたものが背筋を走るのを感じた。
私はアスタロトの手から逃れようとしたが、暴れる私を簡単に抑え込んで、アスタロトはリアたちと共に謁見の間から奥へと戻ろうとする。
「ジル、様……っ」
まともに言葉を交わすことも、ましてや別れを告げる事もできないまま、これで終わってしまうのかと思った。
手を伸ばして最後に名前を呼ぶ。ジルベルト様が振り向いて、私を見た。それはいつもの金色の瞳で、激しい怒りを此方に向けているのが分かる。シンシアさんとの邂逅を邪魔されたのが腹立たしいのだろうか。
なんだか今の状況に、ふつふつと怒りが沸き起こってくる。
子供のように泣きじゃくってしまった儚く可憐な私の事を、アスタロト達が思わずすぐさま手に入れたいと思うほどに愛してしまうのは仕方ない。当然のことだ。
問題はジルベルト様だ。あれほど私に愛を囁き、無体を働いておきながら、すぐに女神の器の誘惑に負けてしまうなんて、流石にちょっとどうかと思う。
「私……、私、浮気者は嫌いですわ! ジルベルト様もラファエル様も、大嫌いです……!」
他者を嫌いだと言ったことは、これがはじめてだ。
好嫌いで他者を判断するのは、上に立つ者として相応しく無い。愚かな事だと思って生きてきた。
私は愛を与える慈悲深い聖母なのだから、愛情を返すことはあれども嫌う事などは、無いと思っていた。
だけど今のジルベルト様も、前回のラファエル様も、ただそこにいるだけの、びくびく怯えるばかりのシンシアさんに心を奪われるなど、ひたすらに馬鹿げていて腹立たしい。
「……てめぇ、クソ蛇、リディスに触ってんじゃねえよ!」
低い怒鳴り声は、耳慣れたジルベルト様のものだった。
アスタロトがにんまり人の悪い笑みを浮かべながら、足を止める。
「リディス、お前もお前だ。クソ蛇やら根暗狼やらに愛想を振りまいてるお前が、浮気とか言える立場か!」
なんだか知らないが、アスタロトに怒鳴るのと同じ勢いで叱られた。
ラファエル様も私に近づきながら、大きな声で私を詰る。
「私は浮気などしていないし、兄やら執事やらに私に対するものと同じような愛情を振りまいている上、勝手に魔族の王に嫁いだのはリディスだろう! 浮気者はお前だ!」
ジルベルト様の言葉に同調するようにして、ラファエル様に怒られた。
不本意だ。私は何も悪いことはしていない。
「ジルベルト様もラファエル様も、そこのアナホリヤスデのような方が好きなのでしょう、勝手にすると良いですわ。私は、私の価値を分かってくださる方の傍に居ますもの!」
「なんと傲慢な……、我が国の為に魔族の国に来ることを了承してくれたシンシアを愚弄するとは。噂に違わない、性格の悪さだ」
忌々しそうにハミルトンが呟く。
なんだか懐かしい。内容は違えど、同じような事をかつてもハミルトンには言われたような気がする。
ハミルトンに支られながら、シンシアさんが戸惑ったようにきょろきょろと私たちを見ている。どうしたら良いのか分からずに、困っているようだ。
「リディスには悪意はないんだよ、ハミルトン。リディスは生き物全般が好きだし、アナホリヤスデの事も良く土から掘り返しては手に乗せて遊んでいたからね。でも、今の言葉は……、嫉妬なのかな。……もしかして、私がシンシアを保護していることを知って、腹が立ったから魔族の国なんかに来たの?」
「こんななんだかよくわからねぇ小娘のことなんて、どうも思ってねぇよ。俺が愛してるのはリディスだけだ。クソ蛇にも、根暗狼にも、そこの腹黒王太子にも絶対に渡さねぇ」
「俺はもう王太子じゃなくて、王だ。品性のなさそうな魔族の皇子にリディスは相応しくない。リディスを手に入れるために、何年待ったと思ってるんだ。邪魔をするな」
いつの間にかラファエル様の口調が変わっている。
睨み合い、言い合いをはじめる二人を、アスタロトに抱き上げられたままの私はぼんやりと見つめた。
なんだか、頭に来ていた気がするのだけど、腹立たしさはどこかに行ってしまった。
「リディスちゃんを取り合って、二人の男が争ってるよ。リディスちゃんてば罪深い美少女だよね」
「あら……」
アスタロトに言われて、私は小さく溜息をついた。
ジルベルト様に拒絶された心が凍るような悲しみも、どこかにいってしまった。
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