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女性の名前
しおりを挟む水無月先輩が描いていたのは、海の絵だった。
明るく晴れやかな海ではなくて、深く暗い海底に、一筋の光が差し込んでいる。
八音部長は、風景画を描いている。
春に描き始めたというそれは、桜並木の絵だった。
綺麗なのに、どこか寂しさと悲しさを感じるのは、その絵の中に誰もいないからなのかもしれない。
そうして、凪先輩の絵の前で、私たちは立ち止まった。
そこには以前見た物と同じ、窓際に佇む女性の姿が描かれている。
ただ、以前はその女性は、蠱惑的な笑みを浮かべていた筈なのに、今は泣き出しそうな悲しげな表情を浮かべていた。
「……あの、八音部長」
「うん、何?」
「このひとは、美術部の生徒じゃないんですか?」
ずっと思い悩むより、尋ねてしまった方が良い。
この人は――誰なんだろう。
「あぁ、……この女生徒は、皐栞先輩。僕の一つ上で、……本来ならもう、卒業しているはずだった人だよ」
八音部長は寂しげに笑った。
私はまじまじと、その顔を見上げる。
卒業している筈だった――
だって、私は廊下で皐先輩という名前の、この女性にそっくりな女の人と会っている。
「どういうことですか?」
「本当は、先に七瀬さんに話しておいた方が良かったのかもしれないね。……皐先輩は、美術部の部長だった。それで、去年の冬に死んだんだ」
薄ら寒いものが、背中を這い上がってくる。
皐先輩が、亡くなっている。
でも、まさか、そんな。
「ご病気ですか……?」
「うん。……それが、……僕も事情は知らないんだけれど、どうも自殺だったらしくて」
「……自殺」
「そう。真冬の海に、飛び込んだんだって。いつ飛び込んだのかは分からないけれど、浜に打ち上げられたときにはもう、手遅れだったそうだよ」
「そうなんですか……」
相槌を打つ以外に、何も言うことができない。
薄ら寒さははっきりとした悪寒に変わっている。
急に背中から冷水を浴びせられたように、体の芯が、冷たく凍えた。
「それまでは、美術部員も結構いたんだけどね。皐部長がそんなことになってしまって、それから部員がどんどん減っていって、今は三人だけ。皐部長の噂を知っている親御さんも多いから、仕方ないとは思うけれどね」
「皐先輩は、……何か、悩んでいたんでしょうか」
「さぁ、どうだろう。よく分からない人だったからね。そこまで親しかった訳でもないし。……凪がこうして部長の絵を描いているのは、弔いのつもりなのかなって思っていたけれど、凪は特別親しかったのかもしれないね」
「付き合っていた、とか」
「そんな様子はなかったけれど。気になる?」
「いえ……、そうだとしたら、辛いだろうなと思って」
「七瀬さんは良い子だね。……凪からは、何か聞いている?」
「何にも」
「凪は、冷たいよね。……それとも、七瀬さんには言えなかったのかな。君のことも、大切にしているようだから」
「妹みたいには、思ってくれているんじゃないかなぁとは思いますけど」
長い間話をしていたからだろうか、時刻はとっくに夕方五時を回ってしまっている。
夕闇が、すぐそこまで迫ってきている。
夕闇が迫る窓際に、皐先輩が佇んでいるような幻を見た気がした。
「ねぇ、七瀬さん。この国の年間の自殺者数は、およそ二万人。皐先輩の事情は知らないけれど、先輩は亡くなった二万人の内の一人というだけだよ。死は、そこで終わり。その先には何も続かない。だから、そう気に病むことは無いと思う」
「そんなに割り切れるものでしょうか……」
「冷たいこと言うようだけれど、死んだ人ばかりのことを考えても仕方ないと、僕は思う。死人は生き返らない。もし、皐部長の行為が凪の心を縛っているのだとしたら、僕は皐部長を哀れと思うよりは、腹立たしいと思ってしまうよ」
「……でも、こうしてずっと絵に描くぐらいに、凪先輩にとって、皐先輩は特別、だったんですよね、きっと」
「七瀬さん、あまり気にしない方が良いよ。君まで、……皐先輩に、引きずられて欲しくない」
帰ろうと、八音部長は言った。
皐先輩が描かれた絵から視線をそらせない私の手を引いて、強引に部室から連れ出してくれた。
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