贄の巫女と千年の呪い

束原ミヤコ

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迷い子とおむかえ

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 長い夢から、醒めたみたいだ。
 夢なのか、それとも、魂に刻まれた記憶なのか。

(神楽は、双樹を恨み、己を恥じていた)

 那智を愛していた。
 どうしようもないほどに、狂おしく、おさえきれない、感情。
 だから――何も見えなくなった。
 双樹の気持ちも、華の気持ちも。
 神楽は自分の都合のように考えて、そして、皆の運命を狂わせてしまった。

(漆間涼に会ったときの、私の中の神楽は、恨みと憎しみに支配されているようだった。けれど……)

 その奥底で、「謝りたい」と、強く思っていたのではなかっただろうか。
 たぶんきっと、涼ではなく、双樹に。

(私は……尽の声で、私を思い出すことができた)
 
 琥珀には思い出と呼べるものが何もない。
 神楽としての記憶の方が色濃く、琥珀としての何かを思い出そうとしても、本当に何もなかった。
 それでも「琥珀」と呼んでくれる声が、琥珀を形作っている。
 神楽として閉じ込められていた記憶の底で、声が響いた。
 ふと目を覚ますと、琥珀の前にいたのは、何かを祈る様に、懇願するように名前を呼ぶ尽だった。

「私には、なにもないけれど……私のまま、死にたい」

 意識を失った尽を残して、マンションの部屋を出た。
 閉じ込められていた屋敷で見た空と、同じ色の青い空を見上げて、琥珀は呟く。

「……私は、私がうまれたことは、無駄ではなかったと、無価値ではなかったと、思いたい」

 尽の手を取って、牢獄から逃げる選択肢を選んだのは、琥珀だ。
 他の誰でもない、自分自身。
 それは、瑠璃を救うため。
 忌まわしい因習を、おわらせるため。

「……私がしなきゃいけないことが、分かったような気がする」

 本当はもう少し、尽の傍に居たい。
 どうして必死に、救ってくれたのか。
 どうして、屋敷から連れ出してくれたのか。
 本当の理由を知りたい。
 もう一度話をしてみたい。
 尽とって那智の封印を解くことに、どんな意味があるのだろう。

(けれど、これ以上……迷惑をかけたくない)

 漆間涼に、酷いことをしてしまった。
 彼を殺さなければという神楽の想いに飲まれ、本当にそうしてしまう所だった。
 何が起きたのかはよくわからないけれど、狗神が消えたところまでは覚えている。
 彼は本来なら関係のない人間で、琥珀が関わらなければ、何もない彼の日常を過ごしていた筈だ。
 
「ありがとう、尽。ほんの少しの間だけど、多分、私は楽しかった。外の世界を見ることが出来て、良かった」

 名残惜しく、マンションを見上げる。
 尽はまだ眠っているだろう。
 もう二度と、会うこともない。

 思えば、一人きりで外に出たのははじめてだ。
 屋敷を連れ出されてから、いつも隣には尽がいてくれた。
 それがどれ程心強かったかと、独りになってみてあらためて感じた。
 マンションを出て、行くあてもないまま街を歩く。
 自分には無関係な筈のすれ違う人々の視線が、こちらに向くのが恐ろしいと感じる。
 同じ人間なのに、得体の知れない怪物のようだ。
 
(……怪物は人を殺そうとした私)

 人々の中で、自分だけが異物のように感じられる。
 あてどなく街を歩き、視界に映った小さな公園のベンチへと琥珀は腰を下ろした。
 それから、公園で遊んでいる子供たちや、それを見守る母親をぼんやりと眺めた。
 今日はとても晴れていて、子供たちは皆笑顔で楽しそうだ。
 その光景はとても微笑ましく、琥珀の世界とは切り離された別の日常のように思えた。
 やがて日時没が訪れて、子供たちは皆帰っていった。そうして帰る場所があるのは、とても良い事だと思う。

「……琥珀様、迎えに来ました」

 夕暮れに忍び寄る闇のように、黒い男が琥珀の前に立った。
 昔からずっと傍に居たのに、耳馴染みのない低い声だ。
 そういえば影虎はこんな声で、こんな顔だったなと、琥珀は目の前の男をまじまじと見つめる。
 着ているものは、上着からシャツからみんな黒く、肩で切りそろえられた髪も黒いけれど、肌は白い。
 相変わらず不機嫌そうな様子だが、口調は穏やかだ。

「うん。……いなくなって、ごめんなさい」
「あなたのせいではありません。あなたは攫われただけだ」
「影虎、私は自分の意志で、あの場所から逃げた。……でも、死にたくなかったとか、助かりたかった訳ではなくて、私で終わりにしたかったから」

 琥珀は肩の力を抜いて、小さく息をついた。

「座って、影虎。話をしたい」
「……分かりました」

 頷くと、彼は琥珀の隣に座る。
 幼いころから、父や母よりもずっと琥珀の傍に居てくれたのに、こうしてきちんと話をするのは初めての事だ。

「どうして、私の場所が? 影虎も、不思議な力が使える?」
「琥珀様を攫った人間も……いや、あれは人ではないかもしれませんが、術者でしたね」
「あなたの事を、教えて欲しい。……あなたも松代も、私にとっては親のようなものなのに、名前しかしらないなんて、淋しいから」
「琥珀様……」

 影虎は頷いた。
 すぐに無理やり連れ戻されるのかと思っていたが、彼にはそういう気はないようだ。

「私の名は、覡影虎と言います。あなたの、叔父ですよ」
「……もっと若いのかと」
「そこまで年老いてはいませんが、左程若くもありません。覡家の男子は、飾りのようなものです。当主は男ですが、実際に血を繋いでいるのは女です。私はあなたの母、蛍の兄で、琥珀様の前の巫である陽詩の弟になります」
「どうして、そんな人が監視役を? 」

 琥珀は首を傾げる。
 当主の血族が行うにしては、あまり良い仕事だとは思えない。

「琥珀様を連れて行った男程の力はありませんが、覡も少しばかり水妖の力を使うことができます。当主の直系として生まれてきた子供の中で、誰がそれを使えるのかは決まっていません。今回はたまたま私でした。だから、あなたの傍に居ることを決めました」
「私の側にいるのは辛かったでしょう。ありがとう、影虎」

 琥珀はそう言って笑みを浮かべる。
 それから立ち上がると、空を見上げた。
 沈みかけた太陽が、橙色に小さな公園を照らしている。

「帰りますか?」

 琥珀が頷いたのを見届けて、影虎も立ち上がった。
 公園の脇に、黒い車が停まっている。
 促されるまま後部座席に乗り込もうとすると、誰かがこちらに走ってくる足音が響いた。

「――やっと見つけた……!」

 息を切らせながらそう言って、彼は琥珀と影虎の前に立ち止まる。

「漆間、昴?」
「それは、父さんの名前。あんたは知ってるんだな、漆間昴が何をしたのか。それなら、話が早い」

 聞いたことのない名前で、影虎は彼を呼んだ。
 彼は――漆間涼は琥珀の手を取ると、力強く握りしめる。

「琥珀にはまだ、時間があるだろう? もう少し、一緒に考えたいんだ。だから、探してた」

 一緒に来て欲しいと、涼は言った。

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