上 下
8 / 46
第二章 南陽の兄弟

第八話

しおりを挟む
「何だと」

 劉縯は顔色を変えた。樊太公が来るとは聞いていない、と声を焦らせ、鄧晨に説明を求めた。何か想定外の事態が起きているらしいことを、劉秀は兄たちの様子から察した。劉縯の拳が回廊の柱を強く叩いた。

「あの老賊、また何か企んでいやがるな!」

「伯升、声が大きい」

 暴言を吐いた劉縯を、鄧晨が慌てた様子で宥めた。辺りを見回し、劉縯の暴言を聞いた者がいないか、確かめた。誰にも聞かれていないことを確認し、胸を撫で下ろした。

「とにかく、おまえは樊太公に挨拶しろ。宴は、樊太公がそのつもりで出席されている以上、予定通りにやるしかあるまいが」

「だが、こちらの予定通りには進まないだろうな」

 劉縯は忌々しげに床を蹴りつけた。

「わかった。とりあえず、樊太公に挨拶してくる。秀、一緒に来い」

 劉秀を連れて、劉縯は会談が行われる建物へ移動した。建物は中庭に面した部分が大きく開いた造りで、中庭から見て右側に樊氏一派の席が、左側に陰氏一派の席が、双方が対面する形で並んでいた。劉縯が歩を進めると、その姿を認めて樊氏の食客――護衛役の武芸者や参謀役の知識人が立ち上がり、劉縯に揖礼した。劉縯は揖礼を返しながら、布に包まれた髷、髷を収めるために後部が膨らんだ帽子、髷に被せられた箱状の冠の前を通りすぎ、給仕の女に酒を酌ませている老人に一礼した。

「樊太公」

「おう、縯か」

 老人が口から杯を離した。

 樊太公、と周りから呼ばれている老人は、姓名を樊重はんじゅうという。年齢は七十余、陽に焼けた顔の大柄な老人で、劉縯と劉秀の母方の祖父に当たる。豪族が犇めく南陽郡に突如として現れ、一代で湖陽県に豪族樊氏を築き上げた豪腕経営者である。

 樊重は杯の中身を呷ると、空にしたそれを劉縯に渡し、手ずから杓子で酒を酌んだ。

偉卿いけいから聞いたと思うが――」

 偉卿、とは鄧晨の字である。

「――倅が急に熱を出してな。とても動けそうにないから、代わりにおれが出てきた。今日はよろしく頼む」

「こちらこそ、今日はお手柔らかにお願いします」

「心配するな。可愛い孫の顔を潰すようなことはせんよ」

 酒杯を乾した劉縯の頬を、樊重はぺちぺちと叩きながら一笑すると、劉縯の体の向こうで頭を垂れている劉秀を見た。外祖父の視線を感じて、劉秀はより深く頭を下げた。

「ご無沙汰しております、樊太公。秀です」

 おお、と樊重は目を細めた。数年ぶりに劉秀と会えたことを喜び、劉秀の背丈が以前より伸びていることを喜び、近くへおいで、と優しい声音で劉秀を手招きした。劉秀は躊躇したが、兄に促されて樊重の前へ進み出た。

「秀や、手を出してごらん」

 樊重に言われ、劉秀は両手を出した。樊重は劉秀の掌の上に、一つ、二つ、三つと数えながら、孔に紐を通した銅貨の塊を置いた。劉秀が驚いて樊重の顔を見ると、樊重は悪戯をした悪童のように笑み、劉秀の耳に囁いた。

「お母さんには内緒だよ」

「いただけません、こんなにたくさん」

「遠慮することはない。これくらいの銭は、縯にも仲にもくれてやった。秀にもあげなければ不公平だ」

「僕は弟です。兄たちと同じというわけには――」

「勿論だ。だから、先に秀の兄たちにあげた。それが順序というものだからだ。もし秀が受け取らなければ、秀の妹、名は、名は――」

「伯姫です」

「そう、伯姫。伯姫が銭を受け取れない。それが順序だからだ。だから、秀、銭を納めておくれ。それが弟妹への思いやりだ。そうであろう、縯?」

 樊重は劉縯に目を向けた。劉縯は、陰氏を出し抜こうと試みた老賊が何を言うか、と言いたげな顔をしていたが、外祖父に一瞥されると、仰せの通りです、と些か慌てながら答えた。樊重は満足げに頷き、劉秀へ目を戻した。劉秀は外祖父に頭を下げた。

「順序と思いやり。学ばせていただきました。ありがとうございます」

 少しの間、劉秀は樊重と話した。樊重は叔父に養われている劉秀に、叔父、もしくは叔父の妻子に意地悪をされていないか、心配して訊ねた。叔父は厳しい人であるが意地悪はされていない、と劉秀は答え、その一例として、劉秀を族兄として敬うよう叔父が自らの子に言い聞かせていることを挙げた。さすがは堅物の劉良である、と樊重は頷き、もし劉秀を虐めていたら河川に沈めていた、と大笑した。外祖父の言葉が本気か冗談か、劉秀は俄かには判じかねた。冗談ということにして硬く笑う劉秀に、樊重は更に質問を重ねた。

「普段は、どのように過ごしているのかね?」

「午前は庠序に通い、午後は叔父の仕事の手伝いをしています」

「はて、劉良は官を辞めた後、どんな仕事をしていたかな?」

「人を田や畠で働かせ、出来た作物を販いでいます」

「ということは、秀は高祖の真似事などせず、農事に勤しんでいるわけか。それはよい心がけだ。お母さんが聞けば、さぞや喜ぶことだろう。そうではないか、縯?」

 樊重は給仕の女に酒を酌ませた。劉縯は額に汗を噴きながら、仰せの通りです、と答えた。そうであろう、と樊重は頷いて酒杯を乾した。

「いつか暇が出来たら、湖陽へ遊びにおいで。農事で儲けるにはどうすればよいか、教えてあげよう」

「はい。その時は、どうかよろしくお願いします」

 外祖父と話している間に、劉秀の席が樊氏一派の席の端に用意された。高さ二寸(約五センチ)ほどの台の上に敷き物を重ねた席に、劉秀は両膝を揃えて座した。劉秀の隣に座していた樊氏の食客が、主人の孫より上座に着いては礼を失するとして、自らの席を譲ることを劉秀に申し出た。劉秀が譲られた席に座り直すと、またも上座の食客が自らの席を劉秀に譲り、それが何度も繰り返されて、最終的に劉秀は兄の近くの席に落ち着いた。周りが大人ばかりで、何となく居心地が悪い思いをしていると、横から声をかけられた。

「注ぎましょうか?」

 劉秀の膳の横に壺が置かれた。給仕と思しき少女の手が壺の蓋を取ると、白濁色の酒がたぷたぷと揺れていた。劉秀は膳の上の杯の口を右手で覆い、給仕の少女へ目を向けた。

「申しわけありませんが――」

 断りの口上を、劉秀は半ばで途切れさせた。

 給仕の少女の手が杓子を取り、酒壺の中の酒を掬い上げた。少女は十四か十五くらいの年齢に見えた。漆黒の髪を簪で結い留め、宮廷の女官に似た装束を身に着け、顔立ちは端整でありながらも凛としていて、瞳は紅炎のように赤い色をしていた。

「……どうされました?」

 不意に黙り込んだ劉秀に、赤い瞳の少女が不思議そうに訊ねた。劉秀は我に返り、あたふたと両手で杯を取ると、お願いします、と少女へ差し出した。劉秀の杯の中へ、少女は杓子の中の酒を丁寧に注ぎ入れた。劉秀はぐいと杯を呷り、目を白黒させながら飲み慣れない酒を飲み乾した。少女は長く広い袖で自らの口を隠し、くすくすと微笑した。

「では、ごゆるりと」

 少女は劉秀の酒杯に二杯目の酒を注ぐと、左手を手前側にして揖礼した。酒壺を抱えて去る少女の後ろ姿を、劉秀は赤い顔で見送った。

 間もなく舂陵侯の長子、劉祉りゅうしが現れ、広間の最も奥にある席に着いた。宴の主催者の姿を目の当たりにして、雑談の声が止んだ。

「本日は当家の招きに応じてくださり、心から感謝する。特に樊太公は、老齢にも関わらず、湖陽から足を運んでくだされた。樊太公の隣におられるのは――」

 劉祉は宴の出席者を、舂陵劉氏の姻戚である樊氏の側から順に紹介した。陰氏は当主の陰陸いんりくではなく、陰陸の長子の陰識いんしきが出席し、まだ十代前半の陰識の脇を陰氏の身内や食客たちが固めていた。

「さて、本題に入ろう。事の発端は諸兄もご存知だと思うが――」

 劉祉はてきぱきと話を進めた。調停は事前に劉縯らが調整していた通りに進行し、先に買収工作を始めた樊氏が郷挙里選から手を引き、陰氏は樊氏の被推薦者に先の襲撃の慰謝料を支払う、ということで合意に至った。樊重と陰識の間で誓書が交わされ、続けて樊氏と陰氏の親睦を深めるための懇親会が行われた。中庭で闘犬が催され、勝敗を当てた者には賞金が出され、外した者には罰杯――酒杯に注がれた酒を飲み乾す罰が科せられた。劉祉が立て続けに罰杯を重ねて泥酔し、後のことを劉縯と鄧晨に任せて別室へ退いた。鄧晨は次の見世物の準備をさせ、準備が整うまでの間の余興として、あの赤い瞳の少女に一本の刀剣を持ってこさせた。

「実は、大変に貴重な刀剣を見つけましてね。どうぞ、ご覧ください」

 少女から受け取った刀剣を、鄧晨は樊重に差し出した。樊重は刀剣の握りを掴み、剣身を鞘から引き出した。

「ほう、これは……」

 樊重は感嘆の声を漏らした。刀剣は直刀、すなわち反りが無い片刃の刀剣で、刀身が炎のように赤い色をしていた。

昆吾こんごです」

 鄧晨は刀剣の名を明かした。座の一部が騒めいた。昆吾といえば、古代連合王朝の黄金時代を築いた明君、ぼく王が、異民族を征伐した際に入手したとされる宝刀である。

「本物なのかね?」

 直刀を鞘に収めながら、樊重が当然の疑問を口にした。伝承では、穆王が得た宝刀の長さは一尺(約二十三センチ)とされているが、この直刀は優に三尺(約七十センチ)を超えている。そのことを指摘されると、鄧晨は樊重の衣の帯に目をやった。

「その玉の帯飾りを、貸していただいてもよろしいでしょうか?」

 鄧晨は輪形をした玉製の帯飾りを樊重から借りると、昆吾とされる直刀を赤い瞳の少女に渡した。少女は直刀を抜いて床に片膝をつき、刃が上を向くように直刀を構えた。

「では、ご覧ください」

 鄧晨は右手を宝刀の上へ持っていき、玉の輪を掴んでいた指を開いた。玉の輪は重力に引かれて落下し、すっと赤い刀身を通り抜けると、床の上で跳ねて真二つに分かれた。

 おお、と驚く声が広間の各所で上がった。

「何て鋭さだ。刃が玉を噛む音すら聞こえなかった」

 両断された玉具の片方を拾い上げ、その磨いたように滑らかな切断面に触れながら、劉縯が唸った。樊重が嘆息と共に頷いた。

「なるほど。穆王のそれと同じものかはわからんが、刃の鋭さは間違いなく割玉刀だな」

 伝承によれば、昆吾は硬い玉石を泥のように割いたとされ、それゆえに別名を割玉刀という。

 鄧晨が樊重に一礼した。

「帯飾りは、後で弁償いたします」

「いや、弁償には及ばん。それよりも、その直刀を五万銭で売ってくれんか」

「……え?」

 思いがけない樊重の言葉に、鄧晨は狼狽えた。

「その、申しわけありませんが――」

「七万、いや、八万でどうだ」

「いえ、金額の問題ではなく、実を申せば、これはわたしの直刀ではなく、わたしの客の直刀なのです」

「その客はどこにいる? すぐに伝えてくれ、湖陽の樊重が昆吾を十万、いや、二十万銭で買うと」

「申しわけありませんが、この直刀は売れません」

 割玉刀を鞘に納めながら、赤い瞳の少女が口を挿んだ。樊氏の食客の内、如何にも気性が荒そうな数人が、給仕風情が口を挿むな、と声を荒げた。樊重は片手を上げて食客らを制し、穏やかな口調で少女に話しかけた。

「もしや、昆吾の持ち主は、あなたなのかね?」

武曲むごくと申します。鄧公に客として遇していただいている者です」

「ほう、偉卿の食客」

 女の食客とは珍しい、と樊重は目を円くした。なぜ昆吾を売れないのか、少女に理由を訊ねた。赤い瞳の少女は答えた。

「樊太公は、湛盧たんろという剣をご存知でしょうか?」

 湛盧、とは春秋時代の伝説的な剣匠が、国王に命じられて鋳造した五本の剣の一本である。正義を好む性質があるとされたことから仁道の剣と呼ばれ、後に隣国の王へ贈られたが、湛盧は王の邪知暴虐を嫌い、他国へ飛び去ったと伝えられている。

「真に優れた刀剣は、自らの意思で持ち主を選びます。この昆吾も例外ではありません。今はわたしに身を預けていますが、真に昆吾を持つに相応しい者が現れたら、わたしの手許から去るでしょう。ですから、これを銭で売ることは出来ないのです。預けられているものを、勝手に売ることは出来ませんから」

「くだらんな」

 若い男の声がした。広間の視線が声の方に集中した。

「何を言い出すかと思えば、刀剣が自分の意思で持ち主を選ぶ? 馬鹿らしい。その宝刀を売りたくないのなら、正直にそう言えばよいではないか」

「よされよ、聖公せいこう

 厄介な男が絡んできた、という顔で劉縯が声の主を注意した。しかし、聖公と呼ばれた男は劉縯を無視し、鄧晨らに遠慮して一言も反論しない武曲に絡んだ。

「よく聞け、女。刀剣は人殺しの道具だ。それ以上でもそれ以下でもない。剣が正義を好むだの、主を求めて飛び去るだの、そんなのは戯言だ。作り話だ」

「おい、聖公は酔われている。奥で休ませて差し上げろ」

 劉縯は給仕をしていた女たちに命じた。数人の女が聖公に近づこうとしたが、聖公を護衛する食客たちが機敏に動いて女たちの前を塞いだ。聖公は誰にも邪魔されることなく酒杯を呷り、酒精を含んだ息を吐いた。

「女、おまえが鄧公に養われているのは、察するに弁舌を買われてのことのようだな。しかし、この程度の女を食客にするとは、鄧公も存外、人を見る眼が――」

「庭へ出ろ、劉玄りゅうげん!」

 劉縯は聖公の姓名を直に呼んだ。漢帝国の礼法では、成人男性の名を直に呼んでよいのは目上の人間だけで、同輩以下が名を呼ぶことは非礼とされているが、それを承知で劉縯は膳を蹴倒して立ち上がり、護衛の食客に囲まれている劉玄へ詰め寄ろうとした。はらはらしながら成り行きを見ていた劉秀は、咄嗟に兄の腰に抱きついて引き止めた。

「兄上、兄上、落ち着いてください」

「そうだ、落ち着け」

 劉縯と劉秀の姉婿の鄧晨も、離せ、馬鹿野郎、と劉秀を振り解こうとする劉縯を押し止めた。劉玄、字は聖公は、劉縯と同じく舂陵劉氏の人間であり、事を荒立てれば舂陵劉氏の名に泥を塗ることになる。鄧晨はそう劉縯に囁いて自制を促したが、劉縯は暴虎のように吼えた。

「放してくれ! あいつは鄧兄の客を辱め、鄧兄を愚弄した! おい、劉玄! おまえも舂陵の豪傑なら、食客の後ろに隠れていないで、潔く庭へ出ろ! 豪傑らしく、拳骨で勝負しようじゃねえか!」

「縯」

 樊重が口を開いた。

「それくらいにしておけ」

 樊重の手が膳の上の酒杯を掴んだ。劉縯は樊重へ顔を向けた。

「樊太公、あんたは偉い人だ。尊敬している。けどな――」

「偉卿」

 樊重は鄧晨に目を向けた。劉縯を無視して鄧晨に話しかけることで、おれが話すから静かにしろ、と声に出さずに劉縯を一喝した。劉縯は外祖父の威に圧され、ち、と負け惜しみのように舌打ちして横を向いた。樊重は杯の酒で口を湿し、杯を膳の上に戻した。

「偉卿、おまえに問いたい」

「何なりと」

 鄧晨は樊重へ向き直り、頭を低くした。樊重は自らの顎へ手をやり、白い鬚を撫でた。

「おれが思うに、凡そ食客というものは、一に義を知り、二に勇を具え、三に能が有らねばならん。義を知らねば為すべきことが判らず、義を知れども勇を欠けば為すべきことを為せず、勇を具えども能が有らねば為しても成し得ないからだ」

「仰せの通りです、樊太公」

「然らば、偉卿、その武曲という者は、如何なる能を具えていたから鄧氏の食客になれたのだ?」

「それは――」

 鄧晨は答えることを躊躇した。

「それは、その――」

「剣です」

 躊躇する鄧晨の代わりに武曲が答えた。武曲が言う剣とは剣術のことで、剣術の技量を鄧晨に評価された、という武曲の言葉を聞き、その場にいた者の多くが失笑した。女に剣が扱えるものか、と武曲を小馬鹿にした。樊重の近くにいた学者風の男が、樊重の表情に気づいた。おほん、と咳払いをして、周りにいる者たちに樊重の表情に気づかせた。失笑した者たちが慌てた様子で口を閉じ、いそいそと威儀を正した。辺りが静かになると、樊重は改めて口を開いた。

「鄧偉卿、おまえは出来た男だ。おまえが養うに足ると認めたのであれば、その食客の剣は見事なものであるに違いない。どうだろうか、偉卿。おまえが認めた食客の剣を、この場にいる皆に見せてはくれまいか。その食客の剣が如何程のものであるかを知れば、そこにいる劉聖公も納得するだろう」

「面白い」

 劉玄が愉しげに声を上げた。

劉稷りゅうしょく

 己の後ろの席にいる男に、劉玄は声をかけた。

 その男は、広間にいる誰よりも大きな体をしていた。立ち上がると、身長七尺七寸の劉縯の頭よりも高い位置に肩が存在した。男の巨躯が劉縯の眼前を通りすぎ、樊重と鄧晨の前に進み出た。

「この劉稷は舂陵劉氏でも指折りの勇士で、剣を能く使う。劉稷、あの小娘の剣を試してやれ。勿論、真剣でだ。真剣でなければ、本当の実力は測れんからな」

 劉玄は劉稷に命じた。劉稷は佩剣を撫し、中庭へ下りた。中庭で見世物の準備をしていた曲芸師の一団が、劉稷を恐れて蜘蛛の子を散らすように場所を空けた。鄧晨は顔を蒼くした。樊重の前に膝をつき、考え直すよう求めた。劉縯が樊重に詰め寄り、やるならおれにやらせろ、と喚いた。劉秀も兄たちに倣い、外祖父に翻意を懇願しようとしたが、中庭に下りようとしている武曲が目に入り、後を追いかけて袖を掴んだ。

「そんなことをする必要はありません。すぐに兄たちが何とかしてくれます」

「あなたは――」

 武曲は足を止め、劉秀を顧みた。

「――劉公の弟君ですね」

 武曲の紅炎色の瞳が劉秀を映した。劉秀はどきりとした。武曲は僅かに腰を屈め、劉秀と目の高さを合わせた。

「お聞きください。凡そ食客たる者は、一に義を知り、二に勇を具えていなければなりません。今、鄧公は己に咎なくして辱めを受けました。主人が辱めを受けた時、恥を雪ぐために行動を起こさないことは義ではありません。義を知りながら何もしないことは勇ではありません。我、武曲は才に乏しく、この場にいる皆さまを納得させられる剣を見せられないかも知れません。しかし、鄧公の名誉のために、この場で死んでみせることは出来るはずです」

「死んで――」

 死んでみせることは出来る、という武曲の言葉に、劉秀は身を竦ませた。武曲は劉秀の手を掴んだ。

「わたしは死を恐れないことで義と勇を示し、鄧公の食客に義を知らざる者、勇を具えざる者がいないことを証明します。それを以て、鄧公が受けた辱めを些少なりとも雪ぎたいと存じます」

 武曲は劉秀の手に昆吾を握らせた。武曲の手が劉秀の手から離れ、劉秀は手に昆吾の重さを感じた。劉秀が昆吾に気を取られている間に、武曲の背中が劉秀の前から離れた。劉秀が気づいた時、武曲は丸腰で中庭に下り、劉稷と対峙していた。

 劉稷の頬がぴくりと動いた。

「何のつもりだ」

「昆吾は天下の名剣。十に満たない子供が帯びてさえ、大の男を打ち負かせます。昆吾を用いては、剣の技量を正しく測ることは出来ません。幸いにして、剣も白手すでも基礎となる体の動きは同じ。わたしは剣を持たず、白手で闘います」

「ふざけるな。おい、誰か、そいつに剣を貸して――」

「子曰く、市朝に諸と遭えば、兵に反らずして闘う。危急の時に、剣を貸してくれる人を探すような有様で、どうして事が成せるでしょうか。事が成せない者に、どうして食客が務まるでしょうか」

「おい、おまえ――」

「劉稷」

 劉玄が堂上から声を割り込ませた。

「好きにさせろ。だが、手加減はするな」

 食客に注がせた酒を呷り、劉玄は片頬を薄く笑ませた。劉稷は表情を消して頷き、剣を鞘から引き抜いた。鞘を横へ投げやり、剣を一颯して頭上へ振り上げた。劉稷の巨躯が更に大きく膨らんだように、堂上の人々の目には見えた。

 武曲の紅炎色の瞳が、凛とした光を帯びた。

「劉稷、恐れるに足らず」
しおりを挟む
1 / 3

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

ぼくらのごはん

児童書・童話 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

古代の秘宝

O.K
エッセイ・ノンフィクション / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

数寄の長者〜戦国茶湯物語〜竹馬之友篇

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:4

小説、文字数増加のための偽エッセイ

エッセイ・ノンフィクション / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

【短編】ZERO 〜怨霊の定義〜

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

処理中です...