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第二章 南陽の兄弟

第十三話

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 劉縯と別れた後、破軍は有翼鹿身の一角獣を疾走させ、梢から月光が漏れる夜の森を駆けた。岩を跳び、風に乗り、枝を渡り、川を奔り、山と山の境を越えた。

「この辺りでよかろう」

 破軍は一角獣の首に手を置いた。一角獣は翼を広げて空中で急停止し、羽毛のように柔らかく落ち葉の上へ着地した。

「ここなら邪魔は入るまい。そろそろ姿を現してもよいのではないか?」

 周囲に林立する木立の陰に、破軍は呼びかけた。ぱき、と木の枝を踏み折る音が闇から響いた。

「わたしのことは、知らないのではなかったのですか」

 破軍の前方に黒々と広がる闇の奥から、紅炎色の瞳が現れた。くすりと破軍は微笑みを漏らした。

「久しぶりの再会だというのに、随分と機嫌が悪そうだ。破軍はこんなにも――」

 とんとん、と破軍は青銅の仮面を指で叩いた。

「――あなたに気を遣っているのに、あなたは破軍に笑顔を見せてはくれないのか?」

「破軍、単刀直入に訊ねます。こんなところで、あなたは何をしているのですか?」

 赤茶色の斗篷状の外套の内側で、武曲は密かに昆吾割玉刀の柄に手をかけた。その気配を察し、破軍は何気ない風を装って手指を屈伸させた。

「破軍が何をしているのか、あなたが知らないはずはないと思うが」

「とぼけないでください。世界が、少しずつ寒くなっています」

 破軍の挙動に、武曲は鋭く目を光らせた。

「降るはずがない場所に雪が降り、凍るはずがない川が凍っています」

「知っている。長い冬が訪れようとしている。ミケーネとヒッタイトが滅び、最後の偉大なファラオが逝き、バビロンがエラムとアッシリアに踏み躙られ、十王戦争が七大河サプタ・シンドゥを引き裂いた、あの千年前の夜のように」

 破軍は少しだけ頭を前へ傾がせた。前十二世紀の大崩壊カタストロフ。後にそう呼ばれることになる暗黒の時代、東西の文明が断末魔を響かせた二百年の冬のことを、破軍は今も鮮明に憶えている。

「また、戦いが始まろうとしています」

 武曲の声が、破軍の意識を現実へ引き戻した。

「北から押し寄せる雪と氷が、人々を戦いの場へ追いやろうとしています。多くの人が死ぬでしょう。多くの国が滅びるでしょう。そのような時に、あなたが現れた。よりによって、この南陽に」

 昆吾の柄を握る武曲の手が、自然と力を帯びた。

「答えてください。なぜ南陽に現れたのですか? なぜ劉縯に接触したのですか? あなたは何を企んでいるのですか?」

 武曲は厳しい口調で詰問した。やれやれ、と言いたげな様子で破軍は手を振り、手の筋肉が滑らかに動くことを確かめた。

「企む、とは酷い言われようだ。さすがの破軍も、小さな胸が少しだけ痛む」

「忘れましたか? わたしの兄は、あなたに殺された。わたしの祖父も、あなたに殺された。わたしの父は、あなたを殺すことに生涯を費やした。あなたに命を奪われたようなものです」

「汝の命も、予の手で奪うべきであったな。それとも、まだ遅くはないか?」

 二人の間の空気が張り詰めた。鳥が梢を揺らして飛び立ち、藪に潜んでいた虫や野鼠がざわざわと逃げ出した。二人の周囲から急速に音が遠のき、耳が痛いほどの静寂が辺りに満ちた。

「やめよう」

 破軍の口から、ふ、と吐息が漏れた。

「破軍は闘うことが嫌いではない。強く勇ましい武曲が相手ならば尚のことだ。しかし、今は闘いたくない。今は、闘いを心から愉しめそうにない」

「一つだけ確かめさせてください。あなたが劉縯と接触したのは、世の混迷を更に深めるためですか?」

「違う」

「この地に百年の大乱を巻き起こすためではないのですね?」

「今は、それどころではない」

「その言葉を信じる証拠は?」

「無い。が、もしあなたの疑いを晴らす、乃至はあなたとの闘いを避ける方法があるのであれば、破軍は和解の努力を惜しまないだろう。真に相応しい舞台で、あなたと死闘を愉しむために」

 破軍は青銅の仮面に手をかけた。風が起こり、半透明の小鳥のようなものが破軍の周りを過ぎた。梢が鳴り、雲が月と星を隠した。暗闇の中で、白髭を蓄えた青銅の仮面が外され、破軍の顔から離れた。数秒、ざわざわと梢が鳴り続けた。雲が去り、再び月の光が梢の間から地上に射し込んだ。武曲の手が昆吾割玉刀から離れた。

「確たる証拠も無く、あなたに疑いをかけたことを詫びます」

「詫びることはない」

 顔から外した青銅の仮面を、破軍は着け直した。

「破軍は李下りかに冠を正した」

 李の樹の下で冠を被り直そうと頭に手をやれば、傍目には枝の果実へ手を伸ばし、盗み取ろうとしているように見える。つまり、他人に誤解されるようなことをした、という意味である。

「破軍があなたと同じ立場でも、同じように疑ったに違いない」

「…………そうですか」

「なぜ眉間に皺を寄せる?」

「あなたのせいです。あなたのようにはならない。わたしがそう思っていることを知っていて、あなたはわざとそういう言い方をする」

「あなたが可愛いからだよ」

「……………………………………………………………………………………それはどうも」

「なぜ汚物を見るような目で破軍を見る?」

「自分の胸に訊いてください。ところで――」

 おほん、と武曲は小さく咳払いをした。

「――先程の言葉は本当ですか?」

「勿論だ。武曲は可愛い。とても可愛い。食べてしまいたいほどに可愛い」

「そちらではありません。それよりも前、もし闘いを避ける方法があるのなら、という辺りです」

「何だ、それか。ああ、勿論だ。破軍と武曲は剣を交える運命にある。しかし、運命の時は今ではない」

「では――」

 ざ、と地上の落ち葉が風で飛んだ。無数の落ち葉が、半透明の小鳥のようなものと共に月の輪郭を掠める中、武曲は口を動かした。青銅の翁面の奥で、破軍の目が一瞬だけ大きく開かれ、細められた。風が止み、武曲が口を閉じた。武曲の言葉を聞き終えた破軍の口から、ころころと鈴を転がすような笑い声が零れた。
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