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第三章 翟義の乱

第十四話

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 劉秀が生家へ帰り、八日が過ぎた。八日の間、劉秀は四年間の空白を埋めることに努めた。次兄の劉仲と一緒に自家で飼育している家畜の世話をした。牛の体を藁で拭いていた時、牛に足を踏まれた。その日は大事を取るよう劉仲に言われ、劉秀は家の中で過ごしたが、自分だけ休んでいては申しわけないと思い、劉仲が滞らせていた事務仕事に手をつけた。劉仲が農作業を終えて帰宅した時、劉秀は劉仲が数日かけて処理する書類を全て片づけていた。

 家業を手伝うだけでなく、妹の伯姫との距離を縮める努力もした。伯姫が畠の近くで蟋蟀を探していたので、劉秀は蟋蟀を捕まえて伯姫へ差し出した。しかし、伯姫は受け取らず、ぷいと顔を背けて走り去った。今度は汚れた衣服を洗おうとしていたので、劉秀は妹の手から衣服を取り上げて洗濯し、汚れを綺麗に洗い落としてから返そうとしたが、伯姫はまたも受け取らずに走り去った。どうしてだろう、と母の嫺都に相談すると、嫺都は答えた。

「あの子がやろうとしていることを、あなたが先にしてしまうものだから、面白くないのでしょう」

 それは悪いことをした、と劉秀は反省したが、既に手遅れであった。次の日から、伯姫は劉秀の姿を見ると、くるりと背を向けて走り去るようになった。あの自称三番目の兄は余計なことばかりする、と憶えられてしまったようであった。劉秀は肩を落とした。今回の滞在中に伯姫と仲良くなることは、どうやら諦めねばならないようであった。

 九日目の朝、雨が外を白く霞ませた。劉稷は内職の弁当箱作りの手伝いをした。豆を撒いているかのような雨の音を聞きながら、細く割いた竹を球状に編んだ。母と次兄が慣れた手つきで次々と編み上げる中、劉秀はようやく最初の一つを完成させたが、母たちが編み上げたものと比べると酷く歪んでいた。劉秀が自らの不器用さに落ち込みかけた時、劉仲が劉秀の弁当箱をひょいと手に取り、初めてにしては悪くない、これはわたしが使わせてもらおう、と劉秀に微笑みかけた。

 昼、表の門扉が叩かれた。劉秀が門扉を開けると、劉縯がいた。劉縯は雨で濡れた笠と蓑を脱ぐと、祖霊が祀られている祭壇の前で、先日の夕食で暴れたことを嫺都に詫びた。劉秀は雨で体が冷えているであろう兄のために温めた酒を運んだ。

「ありがとうな」

 劉縯は酒杯へ手を伸ばした。劉秀は微笑んだ。その表情に、戸惑いのようなものが微かに含まれていることを、劉縯は感じた。

「秀」

「はい」

 白い湯気を上げる白濁色の液体を、劉秀は杓子で兄の杯に酌み入れた。聞いたのか、と劉縯は劉秀に訊こうとした。

「すまないが、仲を呼んできてくれないか。大事な話がある」

「わかりました」

 劉秀は杓子を置いた。立ち上がろうとした劉秀を、劉縯は呼び止めた。

「仲を呼んだら、少しの間、外してくれ。本当に大事な話だから、おれと仲と母上の三人だけで話したい」

「……わかりました」

「悪いな」

 寂しげに微笑んだ劉秀から、劉縯は目を逸らした。劉秀が部屋から出て行くと、劉縯は酒杯を口許へやり、ふう、と息を吹いて杯の中の酒を冷ました。

「おれのことを、あいつに話したのですか?」

 杯から立ち昇る湯気越しに、劉縯は嫺都に訊ねた。嫺都は穏やかに頷いた。

「あの子は、何があろうとも、あなたの味方だと思いましたから」

「そうでしょうか」

「信じてあげなさい。あの子は、あなたの弟です」

「兄らしいことは、何も出来ていません」

「秀が庠序に通い始めた時、あなたは毎日、秀の送り迎えをしていた。あなたと手を繋いで、庠序への道を共に歩いたことを、あの子は忘れてはいないはずです」

 劉仲が現れた。藺草の敷き物を床に敷き、その上に腰を下ろした。劉縯は杯を置いて居住まいを正し、改めて母の顔を見た。

「おれは明日、蔡陽を離れます」

 そう劉縯が言うと、嫺都と劉仲は顔を曇らせた。また官憲に睨まれるようなことをしたので、熱りが冷めるまで身を隠すつもりなのではないか。そう母と弟が考えているらしいことを察し、劉縯は二人を安心させるために顔を微笑ませた。

「そうではありません。おれが蔡陽を離れるのは、義挙に加わるためです」

「義挙?」

 劉仲が怪訝な顔をした。

「義挙とは、どういうことです?」

 劉仲は劉縯に訊ねた。劉縯は答えず、母の顔を見つめた。屋根の瓦を雨が叩く音が部屋に満ちた。劉縯が何を考えているか、嫺都は察した。

仮皇帝かこうていを、討とうというのですね」

 仮皇帝、とは王莽のことである。

 二年前の冬――まだ劉秀が沛郡から南陽郡へ戻らず、劉縯が手を血肉刺だらけにして剣を振り続けていた冬、王氏一門に擁立された少年皇帝が、十四歳で崩御した。皇帝は王莽の娘を皇后としていたが、王莽の娘が皇帝の子を懐妊することはなく、王氏一門は協議の末に、四代前の皇帝の玄孫である二歳の幼児を後継者に選んだ。

 その直後、王氏一門の長老であり、太皇太后として幼帝を後見している元后に、帝国政府の高官たちから奇妙な上奏が行われた。曰く、武功ぶこう県の長官が井戸で白石を得た。白石には朱で文字らしきものが書かれており、王莽よ、皇帝と為れ、と読める。これは神託ではないか。天、すなわち宇宙の法則を統べる超自然的な存在が、王莽が皇帝に即位することを望み、それをこのような形で大漢帝国に伝えてきたのではないか。

 無論、元后はこのような上奏を真に受けたりはせず、逆に高官たちを叱りつけた。大漢帝国の大官ともあろう者が、こんな子供騙しに惑わされるとは何事か。恐らくは、その武功県の長官が王氏一門の歓心を買おうとして神託を捏造したのであろうが、王氏一門は皇帝の忠良な臣下であり、皇帝の栄光と帝国の繁栄だけを一途に祈願している。白石の文字は王氏一門の忠節を傷つけ、帝国を混乱に陥れるものである。直ちに長官の首を刎ねて白石を叩き壊し、大漢帝国の威信と王氏一門の忠心を臣民に知らしめるべし。

 元后の言は正論であり、反論の余地は無いように思われたが、高官たちは諦めず、今度は王莽の許へ押しかけた。王莽は高官たちの話を聞くと、側近らと協議した上で、元后とも高官らとも異なる第三の解釈を示した。

「神託の、皇帝と為れ、という文章は、皇帝に即位せよ、という意味ではない。皇帝が行うべき国事を代行せよ、という意味である。我、王莽は徳が薄く、とても皇帝の代わりを務めることは出来ない。しかし、それでも天が強いて望むのであれば、天と皇帝と臣民のために身を擲つ覚悟である」

 王莽は元后に拝謁し、皇帝が成人するまでの間、皇帝の代わりに国事を執り行うことを元后に願い出た。元后は難色を示した。同じ王氏一門の一人である王舜が説得した。確かに白石の神託は捏造であるかも知れないが、世間には神託を信じたいという気持ちが蔓延している。白石を破壊して神託を否定したとしても、迷信に惑わされた人々を抑えることは難しい。それに王莽とて他意があるわけではなく、自らの権威を重くすることで、幼帝の治世を安定させようとしているだけである。そう語る王舜の様子は、元后ではなく自分自身を説得しているようにも見えたが、ついに元后は大漢帝国の歴史上、前例が無い詔勅を下した。

 王莽は摂政として皇帝が行う国事の全てを代行すべし。臣民は王莽を仮皇帝と呼び、王莽の前では自らを臣妾と称すべし。

「仮皇帝。仮の皇帝」

 劉縯は拳を握りしめた。

「臣下でありながら皇帝を称する。このようなことが許されてよいのですか」

 劉縯の拳が震えた。ごろごろと唸るような雷鳴が、部屋の外の黒い雲間から聞こえた。

「王莽の本心は見えています。次は仮ではなく、真の皇帝になるつもりです。正統から遠いとはいえ、おれは高祖の子孫だ。大漢帝国を踏み躙る王莽を、どうして見過ごすことが出来ましょうか」

「それでは、兄上は王氏打倒の兵を挙げると」

 劉仲が顔を蒼くした。兄の返事を待たず、前へ身を乗り出した。

「おやめください。無謀です。先年の安衆あんしゅう侯のことをお忘れですか」

 王莽が仮皇帝を称した時、危機感を抱いたのは劉縯だけではない。劉縯と祖を同じくする南陽郡の貴族、安衆侯劉崇りゅうすうも、王莽の過度の専横に義憤を発した一人であり、王氏一門を排除して帝室の権威を回復させるべく、去年の春頃に兵を挙げた。安衆侯は自らが先陣を切れば各地で勤皇の志士が蜂起するはずと信じ、南陽郡の首府である宛へ数百の手勢を率いて進撃したが、これは無謀を通り越して狂気の沙汰であり、僅か数日で鎮圧された。

「安衆侯でさえ、あのような最期を遂げられた。舂陵侯の族子でしかない兄上が挙兵されても、成功するはずがありません」

「話はよく聞け。おれは義挙に加わると言った。おれ自身が挙兵するとは言っていない。王莽打倒の兵を挙げるのは、とう郡のてき太守だ」

「翟太守、というと、まさか――」

「先の丞相であられた高陵恭こうりょうきょう侯のご子息だ」

 高陵恭侯は、元后の子である孝成皇帝の時代に丞相、すなわち帝国政府の首席官僚を務めた人物である。十二歳の頃に父と死別するも、内職で生計を立てながら儒学を修め、その努力を認められて州の監察官に抜擢され、汚職の摘発に力を発揮して昇進を重ねた。不正を許さない厳格な為政者であり、丞相就任後も厳しい姿勢で国政に臨み、腐敗した高官を容赦なく弾劾して官界の浄化を図り、外戚の王氏一門とも対立した。しかし、その清廉ではあるが寛容ではない性格を多くの官僚に憎まれ、最後は同僚らに陥れられて皇帝に自殺を命じられた。後に皇帝は高陵恭侯を自殺させたことを悔い、翟氏の邸宅へ幾度も弔問に訪れた。

 その高陵恭侯、姓名は翟方進てきほうしんの次男が、東郡太守、すなわち東郡の長官を務める翟義てきぎである。

「なるほど、そういうことですか」

 翟義が挙兵の首謀者であることを聞かされ、嫺都が裏面の事情を察して頷いた。舂陵侯の長子、劉祉の妻は、翟義の兄の娘である。翟義の王莽打倒の企てに、舂陵侯も加担していると見て間違いない。

「舂陵侯だけではありません。他にも、東平とうへい王――」

 この場合の王とは、皇帝から王の称号を与えられた帝室出身の大諸侯のことである。

「――真定しんてい王、膠東こうとう王、厳郷げんきょう侯、武平ぶへい侯、徐郷じょきょう侯」

 劉縯は挙兵に参加する諸侯の名を次々と挙げた。

「翟太守は東郡の官兵を完全に掌握しておられます。東平王や真定王は数万の兵を擁しており、他の諸侯も、それぞれ数百から数千の兵を集めることが出来ます」

 それだけではない。翟義が属している翟氏は、一族から顕官を出したことで本籍地の汝南郡で声望を集めており、翟義が王莽打倒を叫んで決起すれば、王莽の豪族抑圧の施政に不満を抱いている汝南郡の豪族は、その多くが翟義に与するであろう。それらの兵を合わせれば、翟義の下に集まる兵力は二十万を超えるに違いない。

「恐らくは、これが王莽の野心を挫く最後の機会になるでしょう。王莽打倒のために、これほどの力と意志が結集することは、多分、二度とありません。だからこそ、おれは翟太守の義挙に、この七尺七寸の体を投じたいのです。高祖の血が流れている、この体を」

 劉縯は杯へ手を伸ばした。雨が屋根の瓦を打つ音が、再び部屋の中に満ちた。部屋の外の暗い空の一部が僅かに光り、遠雷の響きが微かに聞こえた。劉縯は空にした酒杯を置いた。

「王莽を討つことは、秀のためにもなります」

 舂陵侯、及び舂陵侯の一族は、粛清された紅陽侯と親しく交際していたことから、帝国政府に猜疑の目を向けられている。王莽が権力を掌握している間は、どれほど高度な学問を修めたとしても、舂陵侯の一族が官界で立身することは難しい。劉縯の叔父、劉良が県令の職を辞したのも、王莽政権下では出世が望めず、悪くすれば左遷の可能性もあるからである。しかし、翟義の挙兵が成功し、王莽を権勢の座から引き摺り下ろせれば、舂陵劉氏が冷遇されている状況を変えることが出来る。

「王莽を討てば、修めた学問を正しく評価されるようになります。勿論、それで出世できるかどうかは秀の努力次第ですが、何をしても認められない今よりは、状況はよくなります」

 また劉縯は杯へ手を伸ばした。杯を持ち上げた時、杯を空にしていたことに気づいた。嫺都の手が杓子を取り、酒壺から酒を汲んだ。劉縯の杯に白色の酒が注がれた。

「正統から遠いとはいえ、あなたは高祖の子孫であり、漢室の藩屏であるべき舂陵劉氏の男子です」

 漢室、とは漢帝国の帝室の通称である。

「大漢帝国が悪しき者に脅かされた時、漢室を守護するために戦う義務が、あなたにはあります」

「まさしく。高祖が周公の聖制に倣われ、ご自身の血族を各地に封建されたのは、今日のような事態に備えてのことでした。呉楚ごそ七国の乱より後、諸侯の力は大きく削られましたが、高祖に託された使命は生きています」

「劉氏に嫁した女として、あなたが己の使命を自覚したことを嬉しく思います。亡き父上も、喜んでおられるでしょう」

 父が喜んでいる。その一言が、劉縯の眼を潤ませた。雨粒に似たものが幾筋も頬を流れ落ちた。劉縯は顔を俯かせ、目や頬を濡らすものを拳で拭うと、顔を上げて不器用に笑んだ。

「おれも、あるべき己の姿を、ようやく――」

「それでも――」

 嫺都の手が杓子を置いた。

「それでも、敢えて言います。仮皇帝を討つことは、正しいことではありません」

「…………え?」

 劉縯の手から杯が落ちた。落ちて倒れた杯の口から酒が零れ、白い湯気を上げた。

「今、何と言われましたか?」

孟子もうし曰く、民を貴しと為し、社稷しゃしょくは之に次ぐ」

 国家や皇帝よりも人民の方が貴い、という意味の儒学の言葉である。

「漢室の目から見れば、仮皇帝は許しがたい人でしょう。しかし、大漢帝国は劉氏の私物ではなく、仮皇帝は良民のために尽力する善良な為政者です。いつの日か、劉氏が王氏に替わられることになるとしても、それでも、仮皇帝を討つことが正しいことであるとは、わたしには――」

 稲光が外を白く照らし、雷鳴が至近で炸裂した。劉仲が腰を浮かせた。母と兄の間に己の体を割り込ませ、母を目掛けて飛んできた拳を顔で受けた。拳を受けた衝撃で吹き飛ぶように床に倒れた。劉仲が倒れる音で、劉縯は自分がしたことに気づいた。劉仲が体を起こした。

「兄上」

 母と兄の間に、劉仲は再び自身を割り入らせた。

「兄上、違います。違うのです。母上は、兄上の身を案じておられるのです。母上は、兄上のことを――」

「母上は――」

 弟と、弟の体の向こうにいる母から、劉縯は顔を背けた。

「母上は、劉氏の人ではない。樊氏の人だ。だから――」

 痛む拳を、劉縯は強く握りしめた。

「――だから、わからないんだ」

 また雷が鳴り、部屋の中に射し込んだ閃光が、劉縯の拳を数瞬だけ白く染めた。劉縯は母と弟を振り返らず、部屋を出た。

 酒肴を載せた盆を抱えた劉秀が、部屋の外にいた。

「秀」

 劉縯は足を止めた。

「まさか、聞いていたのか?」

「いいえ」

 劉秀は弾かれたように首を横に振った。

「雨や雷の音で、何も聞こえませんでした」

 血の気が失せている顔を、劉秀は下に向けた。雨が絶えず屋根の瓦を叩き、雨水が絶えず屋根の庇から流れ落ちていた。劉縯は劉秀から目を逸らし、劉秀の横を通り抜けようとした。

「兄上、あの――」

 擦れ違う瞬間、劉秀が顔を上げた。劉縯は立ち止まり、自らの肩越しに劉秀を見た。

「何だ?」

「あの、その――」

 劉秀は目を伏せた。黙り込んだ劉秀に、劉縯は近づいた。腕を伸ばし、弟の肩に手を置いた。

「秀。おれは、高祖の子孫だ」

「はい。兄上は、高祖の子孫です」

「そうだ。おれは高祖の子孫だ」

 劉縯の手が、劉秀の肩から離れた。

「おれは、高祖の子孫だ。それだけだ」

 翌日、劉縯は翟義がいる東郡を目指し、誰にも見送られることなく蔡陽県を出た。漢帝国の各郡では、毎年七月に軍事演習を行うことになっており、翟義はそれを利用して東郡の正規軍を移動させ、挙兵の準備を整えていた。劉縯は舂陵侯の私兵の一部を率いて翟義の軍に加わることになっていたが、最初から全員で行動すると目立ちすぎるため、ばらばらに出発して東郡で落ち合うことにしていた。

 東郡へ向かう途中、劉縯は南陽郡の北東にある陳留ちんりゅう郡の宿で、翟義挙兵の報に接した。宿で話していた行商人によると、翟義は厳郷侯劉信りゅうしんを皇帝に据え、自らは柱天ちゅうてん大将軍と称し、帝国全土に檄を飛ばして叛乱への参加を呼びかけているという。

 翟義挙兵の報は、すぐに帝都の王莽にも伝えられた。翟義の檄文を入手した王莽は、腹心の王舜らを自邸に集めた。王舜が王莽に命じられて檄文を読み上げた。檄文には王氏一門に対する批判に加え、王莽は先帝を毒殺した、という衝撃的な一文が書かれていた。王舜が檄文を読み終えると、王莽は天を仰いで瞑目した。

「予は先帝が病に倒れた時、周公の故事に倣い、先帝の快癒を祈祷した」

 儒学の始祖、孔子が尊敬した為政者である周公旦は、兄の武王――暴君を打倒して連合王朝を建てた聖王が、若くして病に倒れた時、兄の代わりに自分を冥界へ召すよう神と祖霊に祈願した。王莽は尊敬する周公旦の例に倣い、自分が身代わりになる旨を記した文書を神前に奉じ、天地の諸神に対して当時の皇帝の命乞いをした。

「予が仮皇帝として国に臨み、幼い聖上の代わりに国事を執り行うのも、摂政として国を治めた周公に倣わんとしてのことだ。予は偉大な周公がそうされたように、聖上が成人された暁には、大政を奉還するつもりでいる。それなのに、このような誤解を受けるのは、偏に予の不徳の致すところである。予は謹んで仮皇帝の位を返上し、身を引こうと思う」

「お待ちください」

 王莽の参謀である甄邯けんかんが声を上げた。

「あの周公でさえ、摂政として国を治めた当初は、兄の管叔かんしゅくに叛乱を起こされました。翟義が叛旗を翻したのは、仮皇帝の不徳ゆえではありません。天が仮皇帝の聖徳を試しているのです」

「然様」

 大漢帝国を代表する儒学者、数学者、暦学者、天文学者であり、その深い学識を買われて王莽の政治顧問を務めている劉歆りゅうきんが頷いた。

「聖徳とは、困難に遭遇してこそ強く発揮されるもの。これは天が仮皇帝に与え給うた試練です。試練を避けて身を引けば、天に咎められることになりましょう」

「仮皇帝、弱気になられてはいけません」

 孫建そんけんが身を乗り出した。王莽政権の軍事を担う老武人で、その勇猛さと忠烈さから王莽の爪牙と称されている。

「翟義など、所詮は父親の名声を恃むだけの豎子こぞう。恐れるに足りません。どうか、この孫建に五万の兵を預けてくだされ。新春までに叛乱を平らげ、正月の祝賀に彼奴の首を奉げてみせましょうぞ」

 孫建の勇ましい発言の後も、王莽を仮皇帝に引き止める声が相次いだ。それらの声を受ける王莽を、王舜は不安げな目で仰ぎ見た。

 王莽は、変わった。
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