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第三章 翟義の乱

第二十一話

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 都市を包囲した翌日、翟義は麾下の将兵に攻城戦の準備をさせる一方で、都市に篭城している荘尤へ降伏を勧める文書を送り、都市の開城と義軍への参加を求めた。荘尤は降伏を拒み、翟義が皇帝を立てたことを非難する文書を送り返した。

 降伏勧告から二日後、翟義軍は攻撃を開始した。再び破城槌が城門へ突進し、多数の梯子が城壁に殺到した。

 劉縯は前回と同じく、弩兵の横列を率いて城壁の方へ前進した。前進の途中、城壁の上に奇妙なものを見つけた。

「何だ、あれは?」

 城壁から突き出した竿の先に、麻の筵が船の帆のように吊り下げられていた。城兵は筵の陰に身を隠して活動していた。

「あんなもので矢を防ぐつもりかよ」

 劉縯は一笑した。敵の姿が筵で見えなければ、人を殺すことに抵抗がある兵士たちは逆に矢を射やすいだろう。そう思いながら、弩兵の横列を止めて攻撃を命じた。弩から一斉に矢が放たれた。矢は安々と筵を貫いたが、半ばまで貫いたところで勢いを失い、ぱらぱらと城壁の下へ落ちた。

「何だと」

 ありえない、と劉縯は更に弩を撃たせた。しかし、放たれるたびに矢は麻の筵に柔らかく受け止められ、勢いを殺がれて空しく地上へ落ちた。

 劉縯らの隣に展開していた弓弩兵の一隊が、城壁上へ火矢を射た。幾つかの筵が炎上したが、城兵は落ち着いて筵を竿から切り離した。城壁の下に押し寄せている翟義軍の兵士の頭上に、燃え盛る筵が何枚も落ちた。筵を避け損ねた兵士たちが炎に包まれて絶叫し、その間に新たな筵が竿の先に吊り下げられ、再び城兵の姿が覆い隠された。

 城門への攻撃を担当した翟義軍の諸隊も苦戦していた。門扉に迫る破城槌に対し、城兵は先に接収した破城槌の部品の一部、先端が鉄で補強された丸太を投げ落とした。丸太は破城槌の屋根を砕き、その下で働いていた兵士を押し潰した。城兵は綱を引いて丸太を引き上げると、破城槌の屋根に開いた穴に油壺と松明を投げ入れた。破城槌の内側から炎が上がり、何人もの兵士が火に巻かれて破城槌から転がり出た。

 攻撃開始から四日が過ぎた。都市は巍然として落ちず、更に後方の都市から物資を輸送していた輜重隊が敵の騎兵に襲われた。翟義軍は当面の食糧を携行しており、一度や二度の襲撃で軍の運営に支障が出ることはないが、翟義は戦いが長期化することを恐れ、諸将に厳命して都市への攻撃を激化させた。戦場に雲梯うんていが登場した。雲梯とは大きな台車に可動式の梯子を取り付けた攻城兵器で、城壁を目指す雲梯を援護するために大量の矢が城壁上へ放たれた。目標を逸れた矢が城内の民家に降り注ぎ、多数の民間人が死傷した。防戦を指揮する荘尤は県令と共に現場へ駆けつけ、戸板を担いで矢を防ぎながら負傷者を救助した。

 攻撃開始から十一日目、城内で一つの事件が起きた。翟義軍の最初の攻囲を防ぎ、荘尤が入城してからは荘尤の指揮下に入り、献身的に働いていた県令が、自室で首を吊って自殺した。荘尤に宛てられた遺書には、守るべき良民を戦闘に巻き込んだ苦衷が書かれていた。県令の自殺はすぐに城兵の知るところとなり、城内の士気は目に見えて落ちた。

 十四日目の夜、今度は城外で事件が起きた。翟義軍の哨戒網の一角を、正体不明の影が走り抜けた。影は都市の城門の下まで走ると、城門を守る城兵に自らの姓名を告げた。荘尤が洛陽へ走らせた急使であった。すぐに縄梯子が下ろされたが、急使はひどく疲労しており、幾らも登らない内に縄梯子から落ちた。二度目に落ちた時、無数の松明が城門へ近づいてきた。急使は覚悟を決めて剣を抜き、城壁上の兵士たちに、孫建が二十万の大軍を率いて洛陽から出撃したと叫んだ。二十万の援軍が到着するまで耐えろ、と城兵たちを励ました。その声を聞きつけ、松明の群れが迫ってきた。急使は最後の力を振り絞り、松明の群れへ突進した。突進しながら、援軍が来るぞ、もうすぐ二十万の援軍が来るぞ、と何度も叫んだ。先頭の松明が揺れ動き、剣を打ち交わす音が一度だけ鳴り響いた。急使の声が途切れ、松明の群れが去った。夜が明けると、首が無い死体が城門の近くに残されていた。連絡を受けて駆けつけた荘尤は、城兵に命じて縄梯子を下ろさせると、自ら危険を冒して縄梯子を下りた。朝霜に埋もれている死体へ駆け寄り、抱き起こして肩の霜を払い落とした。

「よく報せてくれた。おまえの挺身は、決して無駄にはしない」

 荘尤は死体を背負い、自らの胴体に縄で固く縛りつけ、揺れる縄梯子を攀じ登った。城兵の一人が、払暁の空へ矛を突き上げ、援軍が来るぞ、と叫んだ。別の兵士も得物を突き上げ、もうすぐ二十万の援軍が来るぞ、と叫んだ。援軍が来るぞ、援軍が来るぞ、と叫ぶ声は瞬く間に城壁の上を駆け巡り、城内の民家にも、城外の翟義軍にも届いた。翟義軍の形式的な総司令官である皇帝劉信は、二十万の大軍と聞いて恐れ慄いた。しかし、皇帝の傍らに立つ翟義は、王邑との戦いで捕らえた敵兵を尋問して情報を得ており、二十万という兵数が誇張であることを見抜いていた。

「恐れるには及びません。実際の兵力は、六万から七万というところでしょう」

 翟義は皇帝に都市の包囲を解くよう説いた。現在の翟義軍は十万を超える大軍であり、数では孫建が率いる討伐軍を凌いでいる。盗賊や無法者、食糧が目当ての貧困者等も軍に受け入れているため、兵士の質に些か不安を覚えないではないが、王邑を撃破して自信をつけていた翟義は、孫建を野戦で撃破することを目論んだ。敵の騎兵に何度か輜重を襲われていることも、翟義の考えを短期決戦へ傾かせた。翟義は孫建との決戦を皇帝劉信に進言し、劉信は翟義の言葉を容れ、弟の武平侯に五千の兵を預けて荘尤の反撃に備えさせ、自らは十万の大軍を率いて北進した。

 二日後、翟義軍の斥候が討伐軍の斥候と接触し、その半日後に別の斥候が野営中の討伐軍を発見した。翟義は討伐軍から二十里(約八キロメートル)ほど離れた場所で軍を野営させた。

 翌朝、翟義は兵を野営地から引き出し、戦場となるであろう平野へ移動させた。平野には丘があり、そこに布陣することを将校の一人が主張したが、翟義は退けた。戦いでは高所を占めた方が有利であるため、多勢の翟義軍が丘の上に布陣すれば、寡兵の討伐軍は決戦を避ける可能性がある。そうなれば戦いが長期化してしまう、と翟義は考え、敢えて丘の上には陣取らず、丘を背にして兵を展開させた。

 討伐軍を率いる孫建も、翟義に少し遅れて軍を動かした。有利な高所を敢えて捨てた翟義の采配に、自分たちの焦りを見透かされているような気分になりながらも、死中に活を求めるべく兵士に戦列を組ませた。進んでくる討伐軍の戦列を、翟義軍は丘の下で待ち受けた。高所を自ら捨てた不利を少しでも補うために、翟義は一歩でも多く討伐軍の将兵を歩かせ、戦う前に疲れさせようとした。

 翟義軍と討伐軍、双方の戦列が一里(約四百メートル)の距離まで近づいた。討伐軍の戦列で打たれていた太鼓の音が早まり、兵士たちが喊声を上げて走り始めた。翟義軍の戦列から矢が放たれたが、少し早く放ちすぎた。矢は討伐軍の手前の地面に突き立ち、討伐軍の歩兵は矢を蹴散らして突進した。翟義軍の戦列から再び矢が放たれ、幾人かの兵士が矢を浴びて倒れた。討伐軍の歩兵は全力で走り、自身に矢が突き立つよりも早く翟義軍の戦列に矛を突き入れ、更に後続の味方に押し出されるようにして数歩前進し、敵の盾に自分の盾を叩きつけた。盾で押し合う最前列の歩兵の頭越しに、矛や戟が激しく打ち交わされた。幾らも経たない内に、翟義軍の中央と右翼が押され始めた。早々の劣勢に皇帝劉信は傍らの大将軍を顧みた。

「翟義」

「ご心配には及びません。我が軍の主力は左翼におります。左翼の兵が敵の右翼を突き破れば、我らの勝ちです」

 戦闘開始から二時間が過ぎた。翟義軍の中央、及び右翼の諸隊は更に押し込まれた。翟義らがいる本陣の近くに矢が射込まれた。その内の数本が皇帝劉信の戦車の傘に突き刺さり、鏃が傘を貫いて劉信の目の前に飛び出した。劉信は腰を抜かした。

「翟義」

「ご心配には及びません。敵は寡兵です。勢いを長く保つことは出来ません」

 戦闘開始から四時間が過ぎ、太陽が中天に達した。疲労と損耗のために討伐軍の攻勢が鈍り、翟義軍の本陣の手前で押し止められた。機は熟した、と判断して翟義は乗馬した。柱天大将軍、と大書された戦旗を従えて自軍の左翼へ駆け、自ら陣頭で声を嗄らして将兵を督戦した。

「我が声を聞け、大漢帝国のために戦う義兵たちよ。逆賊王莽に与する不義不忠の者どもは崩れかけている。もう一歩、もう一歩で勝てる。もう一歩だ。勇を奮い、もう一歩だけ進むのだ。国のために、もう一歩、前へ。民のために、もう一歩、前へ。もう一歩、もう一歩、もう一歩、もう一歩!」

 矢が冑を掠める中、翟義は拳を空へ突き上げた。将兵は翟義の激励に奮い立ち、死力を尽くして敵を攻めた。剣で叩き、盾で殴り、鉄冑で頭突きを喰らわせた。その猛烈な勢いに押され、討伐軍右翼の戦列が少しずつ下がり始めた。

「いかん」

 全体の戦況を馬上から見ていた孫建は、右翼の劣勢を報じられて呻いた。もし右翼の諸隊が敗走すれば、討伐軍は多勢の翟義軍に右側面から包囲されてしまう。右翼の諸隊を救うために、孫建は大声で指示を飛ばした。その間も討伐軍の右翼は押され、後退する右翼と踏み止まる中央の戦列の間に空隙が生じた。その空隙から翟義軍の兵士が少数ながら侵透し、討伐軍の側面を攻撃した。中央の諸隊は翟義軍の攻撃に耐えたが、余力が無い右翼は耐えられずに後退した。右翼と中央の間の空隙が更に拡がり、大勢の翟義軍の兵士が空隙に雪崩れ込んだ。

 空隙に雪崩れ込んだ翟義軍の兵士たちは、千を超す馬蹄の轟きを前方に聞いた。

「殺せ! 殺せ!」

 孫建に率いられた騎兵の一群が、侵透を図る翟義軍の兵士へ突撃した。奮武将軍、の四字が大書された軍旗を背後に従え、孫建は突撃の先頭を駆けた。この王莽の爪牙と称される老将は、若かりし頃、西方のオアシス都市国家群に駐留する漢帝国軍で勤務し、巧みに馬を操る異民族と小規模ながら幾度か交戦した。その時に鍛え上げた馬上戦闘術を、孫建は翟義軍の将兵に見せつけた。暴虎のように雄叫びを上げ、旋風のように戟を振り回しながら馬を走らせ、前を遮る歩兵を蹴散らして翟義軍の只中へ突入した。繰り出される矛を戟の一振りで払い除け、敵兵の塊を馬で断ち割りながら猛然と進んだ。奮武将軍の旗が翟義軍の旗幟を掻き分けて前進し、旗の後に続く騎兵の群れが翟義軍の歩兵を戟と直刀で斬り散らした。血が飛び、旗が倒れ、翟義軍の兵士の一部が逃げ始めた。

「翟義、翟義、翟義は何処か!」

 孫建は馬上から戟を突き下ろし、また一人、翟義軍の歩兵を斃した。

「翟義、翟義、おれの前に現れる勇気があるか!」

 恐れを生して逃げようとした翟義軍の歩兵を、孫建は馬の蹄で蹴倒し、踏み潰した。翟義の近くにいた将校が、後退して孫建を避けるよう翟義に進言した。翟義は進言を退け、逆に孫建の方へ馬を進めながら、浮足立つ将兵を叱咤した。

「義兵たちよ、恐れるな! 柱天大将軍がここにいるぞ! 敵は少ない、押し返せ!」

 翟義の背に柱天大将軍の旗が続いた。前進する柱天大将軍の旗を見て、翟義軍の将兵は再び勇気を奮い起こし、柱天大将軍を守れ、と叫んで反撃に転じた。矛や戟が討伐軍の騎兵へ無数に繰り出された。一人、また一人と騎兵が馬から叩き落とされた。孫建は馬を反転させた。

「退け、退け。全員、退け」

 孫建は翟義軍に背を向けて逃げ出した。尾を巻いた犬のように遠ざかる奮武将軍の旗を見て、翟義は勝利を確信した。もう十分と見て馬を止めた翟義の左右を、大勢の歩兵が走り抜けた。馬の脚にも劣らない速さで、翟義軍の歩兵は奮武将軍の旗を追いかけた。逃げる騎兵と追う歩兵の距離が少しずつ縮んだ。ようやく翟義は異変に気づいた。

「待て、追うな。罠だ。これは罠だ」

 どれほど健脚であろうと、必死に逃げている騎兵に歩兵が追い縋れるわけがない。もし追い縋ることが出来たとすれば、それは騎兵が故意に速度を緩めたからに他ならない。

「追うな、引き返せ! これは罠だ、あの老賊めの罠だ! 皆、戻れ! 引き返せ!」

 翟義は叫んだ。逃げる敵を追うことに夢中になり、敵を側面から攻めるという本来の任務を忘れた兵士たちを、懸命に止めようとした。しかし、翟義軍は短期間に兵力を膨らませたせいで、兵士の平均的な質が低下していた。奮武将軍の旗を高く掲げ、着かず離れずの距離を維持しながら馬を走らせる孫建を、翟義軍の将兵は烏合の衆の本性を剥き出しにして追いかけた。

「孫建、辺陬の粗野な老賊め! 王莽に諂う奸人め!」

 翟義は馬の鞍を殴りつけた。翟義軍の左翼は孫建の挑発に乗せられ、作戦通りに戦う者たちとそうでない者たちに分裂し、敵に対する圧力を半減させた。翟義は当初の作戦を放棄することを迫られた。すぐに次の作戦を馬上で考えた。挑発に乗せられた兵士たちの勢いを逆に利用し、敵軍の総司令官の孫建を討ち取る、或いは孫建を退けて敵の中央と右翼の間を突破し、敵の背面を衝くことを思いついた。激しい抵抗を受けることが予想されたが、幸いにも将兵の士気は極めて高く、成功の可能性は十分にあるように思われた。翟義は馬の横腹を蹴り、孫建を追う将兵の一群へ馬を駆けさせた。

 翟義軍を誘引することに成功した孫建は、翟義軍の有象無象の兵士たちを十分に引きつけながら、味方の歩兵の戦列の中に駆け込んだ。再び馬首を巡らして翟義軍の方へ向き直りながら、してやったり、と会心の笑みを浮かべたが、すぐに表情を引き締めた。討伐軍の右翼は崩壊の危機を脱したが、敗北の可能性が消えたわけではない。こちらへ誘引した敵兵を食い止められなければ、今度こそ討伐軍は敗れる。

 翟義軍の旗幟と喊声が近づいてきた。少し遅れて到着した討伐軍の重装歩兵が、不退転の決意を固めた孫建の横を次々と走り抜け、盾を連ねて堅牢な戦列を構築した。近くを駆け抜けようとした重装歩兵の一人を、孫建は手を上げて呼び止めた。

「王虎牙」

 先の戦いの敗将、虎牙将軍の王邑が足を止めて振り向いた。

「どうだ、怖いか?」

 孫建は馬上から王邑を見つめた。王邑は精一杯に胸を張った。

「怖くなど、ありません」

「そうか。実を言うと、おれは怖い」

「……え?」

 ぽかん、と王邑は口を開けた。孫建は恥ずかしげに苦笑した。

「話はそれだけだ。今度は立ち向かえよ」

 孫建は敵へ視線を戻した。王邑は我に返り、孫建に一礼した。

 翟義軍の重装歩兵が大地を踏み轟かせて突撃してきた。討伐軍の重装歩兵は盾を構えて迎撃した。両軍の歩兵が衝突した。討伐軍の盾を翟義軍の矛や戟が乱打した。討伐軍の歩兵は翟義軍の矛や戟を盾で押し返すと、鋭く前へ踏み込みながら矛を突き出した。翟義軍の歩兵の甲冑の隙間に、ずぶりと矛の穂先が突き立てられた。討伐軍の歩兵は敵の体から矛を引き抜くと、後続の敵に攻撃される前に元の位置へ下がり、隊形を維持した。

「こいつら」

 突撃する歩兵の中にいた劉縯は、討伐軍の重装歩兵の手際の良さを見て、背に冷汗を滲ませた。これまで劉縯が見た兵士の多くは、敵を自分から遠ざけて身を守るために、矛を突き出し、振り回していた。しかし、今、劉縯の目の前にいる討伐軍の重装歩兵は、敵を殺すために矛を突き出している。かつて破軍が説明したように、突くという動作は斬る、或いは叩くという動作よりも、繰り出すために必要な空間が小さい。翟義軍の兵士は武器を振り回すことが多いため、自然と兵士の間隔が開いているが、目の前の敵兵は突くことに専念しているため、兵士の密度が高い。兵士の密度が高くなれば、攻撃の密度も高くなる。討伐軍の戦列に攻め寄せた翟義軍の歩兵は、進め、進め、という翟義の督戦の声も空しく、一方的に突き殺された。

「これが、慣れているということか」

 武曲の言葉の意味を肌で理解し、劉縯は戦慄した。劉縯の横を劉秀が駆け抜けようとした。劉縯は劉秀の腕を掴んで引き止めた。

「待て。正面は無理だ。横から回り込むぞ」

「わかりました」

 劉縯と劉秀は敵の戦列の端を目指した。戦列の端では、同じく横から回り込もうとした翟義軍の兵士と、それを阻もうとする王邑らが入り乱れて剣を交えていた。劉縯も乱戦の中へ突入した。一人、二人、三人と敵を打ち倒した時、直刀の血を振るい落としていた王邑と目が合った。劉縯は剣を振り上げて王邑へ突進した。王邑は左手の鉤鑲こうじょう――上下に鉤を付けた鉄の小盾を構えた。剣と鉤鑲が正面から激突し、剣の刃が王邑の冑を掠めた。劉縯は更に剣を振り上げ、振り下ろした。三度、四度と打ちつけられた剣を、王邑は鉤鑲で受けて凌ぐと、五度目の斬撃を鉤鑲の鉤の片方へ受け流し、剣の勢いを利用して剣身に鉤を絡め、体勢を低くして剣を押さえ込んだ。劉縯は剣を引き抜こうとしたが、片手では引き抜くことが出来ない。その隙に王邑は直刀で劉縯を斬りつけた。右腕の力だけで振られた直刀を、劉縯は容易く盾で受けたが、王邑は続けて劉縯の盾を直刀で叩いた。劉縯は敵に一方的に攻撃されていることに焦り、幾度目かの王邑からの攻撃を払い除けると、左手の盾を王邑の直刀に投げつけた。不意の衝撃に王邑の直刀が怯んだ。その隙に劉縯は王邑に押さえ込まれた剣を両手で握り、渾身の力で引き抜こうとした。劉縯が剣を引く瞬間を見計らい、王邑は鉤鑲を離した。剣が勢いよく引き抜かれ、劉縯は勢いを受け止めかねて後方へよろめいた。倒れる寸前で踏み止まり、体勢を立て直そうとした劉縯の冑に、直刀が真上から打ち下ろされた。劉縯は衝撃で目を眩ませ、後ろに倒れた。王邑は劉縯の手から剣を蹴り飛ばし、意識が朦朧としている劉縯の胸を踏みつけた。劉縯は焦点が合わない目で、自分へ突き下ろされようとしている直刀を見た。

 劉秀が叫ぶ声が聞こえた。

 わあ、と叫ぶ声と共に、王邑へ戟が突き出された。王邑は戟の穂先を直刀で叩いて刺突を逸らし、返す一撃で戟の穂を斬り落とした。棒切れと化した戟を捨て、劉秀は腰の剣に手をかけた。剣が鞘から抜き放たれるよりも早く、王邑は劉秀を蹴り倒し、劉秀の体を踏みつけて直刀を振り上げた。

「……子供か」

 王邑は振り上げていた直刀を下ろし、劉秀の体の上から足をどかした。

「早く逃げろ。こんなところにいたら死んでしまうぞ」

 王邑は劉秀の腕を掴んで引き起こした。二度、劉秀の肩を軽く叩くと、新たな敵を求めて劉秀の前から走り去った。劉秀は数秒、呆然としたが、我に返って兄に駆け寄り、肩を貸して助け起こした。

 戦いは膠着した。翟義軍は敵の戦列を突破することに失敗した。一方の討伐軍も再び攻勢に出る余力は無く、両軍は泥沼で足掻くように血を流し続けた。

 その戦況に変化が生じたのは、戦闘開始から七時間が過ぎ、戦場の空が朱に染まり始めた時であった。負傷して後方で休んでいた翟義軍の将校の一人が、翟義軍の背後の丘の上に数旒の旗が翻る様を見た。あれはどこの旗だ、と将校が目を凝らすと、丘の稜線を越えて数百の騎兵が現れた。横一列に並んだ騎兵の中心には、戦国の名将の末裔である廉丹がいた。廉丹は馬を後脚で立ち上がらせながら、右手の戟を空へ掲げた。戟の穂先には武平侯――五千の兵を率いて荘尤の反撃に備えていた皇帝劉信の弟の首が突き刺さり、虚ろな眼で丘の下の翟義軍を見下ろしていた。

「突撃だ!」

 武平侯の首を突き刺した戟で、廉丹は翟義軍を指した。

「偽りの皇帝を殺せ! 叛徒どもを殺し尽くせ!」

 廉丹は戟を振り上げ、馬を走らせた。数百の騎兵が喊声を上げて後に続いた。廉丹の騎兵隊が地を踏み轟かせて丘を駆け下る様が、討伐軍の戦列からも見えた。討伐軍の将校の多くは、不意に現れた騎兵隊が敵なのか味方なのか、俄かには判じかねた。しかし、孫建は騎兵の位置と動きから、それが翟義軍の騎兵ではないと判断した。

「鼓を打て! 攻撃だ! 敵を攻めろ! 力を振り絞れ!」

 騎兵の突撃を少しでも援護するために、孫建は攻撃を命じる太鼓を打たせた。孫建の期待を背負い、廉丹と数百の騎兵は駆けに駆け、翟義軍の背面へ突撃した。背後からの攻撃に、翟義軍の形式的な総司令官である皇帝劉信は恐怖したが、翟義は孫建が騎兵を迂回させて背面を衝いてきた場合に備え、数千の兵を後方に配置していた。長駆して疲れていた廉丹の騎兵隊の突撃は、皇帝劉信の許に達する前に止められた。廉丹は再度の突撃を期して後退した。皇帝は安堵したが、その時、武平侯が廉丹に討たれたことが皇帝に報せられた。

 この報せが、戦いの行方を決した。弟の死を報せられた皇帝劉信は、これまで以上に取り乱した。退却だ、と顔面を蒼白にして喚いた。退却しろ、と自らが乗る戦車の馭者に命じた。周りにいた将校が諫止した。将校の諫言を遮るように、廉丹の騎兵隊が再び突撃してきた。皇帝は周囲の制止を振り切り、馭者に剣を突きつけて強引に戦車を走らせた。

 皇帝が逃げた、という情報は、間もなく戦場全体へ伝えられた。翟義軍の将兵は混乱に陥り、逃亡する者が相次いだ。廉丹が戟に刺している首を皇帝の首と誤認したのか、皇帝が討ち取られたという誤報まで飛んだ。兵士の離散は更に加速し、相対的に討伐軍の圧力が増した。ついに翟義軍は戦列を維持できなくなり、潰走した。

「逃がすな。追え、追え、追え」

 孫建は自ら騎兵を率い、敗走する翟義軍を追撃した。陽が落ちても追撃を緩めず、松明を掲げて街道を進んだ。翌朝、約二千の軍勢が前方に現れた。軍勢は荘尤に率いられていた。荘尤は廉丹と協力して武平侯を撃破した後、翟義と孫建の決戦に馳せ参じるべく軍を進めたが、敗走した翟義軍の兵士を斥候が捕えたことで状況を知り、兵を展開して翟義や劉信を捜していた。孫建は期待を込めて荘尤に戦果を訊ねたが、残念ながら捕らえた敵将は小物ばかりで、翟義と劉信は網から逃れていた。孫建は落胆したが、すぐに気を取り直して荘尤の働きを称賛した。

「よくぞ城を守り抜いた。おまえの活躍は、おれの口から仮皇帝に伝えよう」

「多くの――」

 不意に荘尤が言葉を詰まらせた。荘尤の両目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。

「多くの兵や民が死にました。どうか、仮皇帝にお伝えください。仮皇帝を信じて、多くの民が死んだと」

「必ず伝えよう。後のことは任せて、おまえは休め」

 孫建は労わるように荘尤の肩を叩いた。

 一方、討伐軍の追撃から逃れた翟義は、逃避行の途中で皇帝劉信と合流し、南に確保していた都市へ入城した。次の戦いに備えて都市の城門が閉じられるまでの間に、劉縯、劉秀を含む数千の敗兵が都市に辿り着き、廉丹に討たれた武平侯の首が帝都長安へ届けられた。

 武平侯の首が帝都へ届けられた翌日、帝都に居住していた翟義の親族が処刑された。これまで帝国政府は翟義と交渉する余地を残すために、敢えて翟義の親族を収監するに止めていたが、討伐軍が叛乱軍に大勝したことを受け、もう交渉の必要は無いと判断した。翟義の親族は帝都の広場に引き出され、翟義の二人の子供は斬首刑に、翟義の母を含む二十四人は磔刑に処された。翟義の兄で、舂陵侯の長子の妻の父に当たる人物も、磔台の上で死んだ。翟義の亡父、翟方進の墓も暴かれ、数十種の毒草が棺の中に詰め込まれた。

 翟義の親族の処刑から数日後、舂陵侯が帝都へ来て王莽に拝謁した。舂陵侯は叛逆者の肉親と婚を通じたことを謝罪し、翟義討伐の先陣に立つことを志願した。王莽は舂陵侯の謝罪を受け入れ、討伐軍への志願についても、それには及ばず、と寛大に言い渡した。

 翟義軍大敗の報せは、翟義軍の本拠地である東平王国にも伝えられた。東平王国の領主である東平王は、窮地の皇帝を救うために陳留郡へ援軍を送ろうとしたが、援軍が東平王国を発つ前夜、翟義軍に見切りをつけた者たちが兵や民を煽動して叛乱を起こした。東平の市街は猛火に包まれた。その火の中に、青銅の翁面に白色の装束の破軍がいた。破軍は燃える東平の庁舎の奥へ進み、やがて翟義が執務で用いていた部屋へ至ると、足を止めて辺りの気配を探り、光剣を抜いて一閃させた。書物を収めていた棚が倒れ、床に簡冊が散乱した。破軍は光剣を鞘に納め、足許に転がる簡冊の一つを拾い上げた。念のために紐を解いて内容を確かめると、翟義と舂陵侯の密議が書かれていた。庁舎の屋根の一部が焼け落ち、炎に包まれた梁が破軍の背後に落ちた。破軍は動じることなく簡冊を炎の中へ投げ入れ、簡冊に火が燃え移る様を見届けてから、燃え落ちる庁舎を悠々と後にした。
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