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第四章 大漢帝国滅亡

第二十二話

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 居摂二年十二月(西暦八年一月)、孫建を主将とする討伐軍は翟義が篭もる都市を包囲した。孫建は翟義の親族の処刑、及び翟義軍の本拠地である東平王国の陥落を翟義軍の将兵に公表し、故意に包囲の一角を開いた。孫建の目論見通り、翟義軍の前途に絶望して逃亡する士卒が続出した。

 翟義と皇帝劉信も都市から逃亡した。翟義は皇帝のためと称し、数百の兵を劉信の護衛につけた。深夜、護衛の兵たちと共に城門を出た劉信は、すぐに討伐軍に気取られて追撃された。劉信は馬の首にしがみついて逃げ惑い、その混乱の最中、劉信が身に帯びていた伝国璽の紐が切れた。伝国璽は劉信の肉体から離れ、泥の中へ落ちた。劉信は気づかずに馬を走らせ、単騎で夜の森へ迷い込んだ。

「誰かいないか。いたら返事をせよ」

 敵に聞こえないよう、劉信は囁くような声で護衛の兵を捜した。梢から漏る月の光を頼りに馬を進めていると、ほう、と頭上で梟が鳴いた。ひ、と劉信は小さく悲鳴を漏らし、梟の声から逃れるべく馬を駆けさせた。しばらく駆けさせてから馬を止め、梟の声が聞こえないことを確かめて安堵すると、改めて護衛の兵を捜した。数秒も捜さない内に、また梟の声が聞こえた。ほう、ほう、と右からも左からも聞こえた。ほう、ほう、と前からも後ろからも聞こえた。劉信は恐怖に駆られ、再び馬を走らせようとした。次の瞬間、馬が何かに驚いて後脚で立ち上がり、劉信は馬の背から振り落とされた。馬は劉信を置いて森の奥へ走り去った。劉信は急いで起き上がり、自らの足で馬を追いかけようとしたが、森の樹と見紛うような大きな影が劉信の前を塞いだ。

「何だ、おまえは」

 劉信は慣れない手つきで剣を抜き、小刻みに震える剣先を影に向けた。影は動じず、丸太のような腕を劉信へ伸ばした。劉信は悲鳴を上げて跳び退いた。翟義、翟義と何度も名を呼んで助けを求めながら、影に背を向けて逃げようとしたが、前方の闇の中に無数の眼を見出して立ち竦んだ。

「おまえが、皇帝か?」

 犬頭人身の獣を従えた青い瞳の少年が、劉信に問いかけた。劉信は右へ左へ剣を向け、周りを囲む眼を懸命に牽制しながら、絹を裂くような声で答えた。

「違う、違う。人違いだ。朕は皇帝ではない」

 その言葉が、少年に確信を与えた。少年の視線が、劉信の喉を掻き切るように動いた。犬頭人身の獣、野狗子の影が一斉に地を蹴り、八方から劉信に殺到した。断末魔は一瞬で途絶えた。ごろりと転がるものを奪い合う野狗子たちを後目に、少年は劉信の死体に近づいた。正直に言えば命までは奪わなかったのに、と小さく息をつきながら、右肩に担いでいた二本の戟を地面に置いた。頭部が失われた劉信の死体を探り、目的のものを探した。

「…………あれ?」

 少年は片眉を顰め、劉信の死体を探り直した。

「……………………無い」

 目的の物が見つからない。少年は劉信の死体から鎧や着物を剥いで調べた。

「…………………………………………無い。まさか――」

 少年は劉信の着物を置き、改めて劉信の死体の方へ目を向けた。多年の運動不足のせいで膨らんだ劉信の腹を、真剣な表情で見つめた。

「――まさか、この中?」

 少年は劉信の腹部へ手を伸ばした。腹を力任せに引き裂いて中にあるものを調べようとしたが、少年の手が劉信の腹を掴む前に巨大な影が少年の腕を掴み、劉信が身に着けていた帯を示した。帯には紫色の紐の切れ端、すなわち伝国璽の紐の切れ端が残されていた。

 皇帝劉信が脱出した後の都市では、劉縯と劉秀の兄弟が城壁の見張りについていた。手に白い息を吐きかけながら城外の篝火を見ていると、急に城内が騒がしくなった。劉縯は不審に思い、劉秀に様子を見に行かせた。劉秀は血相を変えて戻ってきた。

「大変です。柱天大将軍がいないそうです」

「何だと」

 すぐに劉縯は劉秀と共に翟義を捜した。劉縯らが翟義を見つける前に、翟義が消えたことに絶望した兵士たちが逃亡を図り、都市の城門へ押し寄せた。城門を守る兵士と逃亡を図る兵士が衝突した。騒ぎを聞いて駆けつけた劉縯の目の前で、城門が開かれた。大勢の兵士が互いに押し合いながら城外へ走り出た。劉縯は劉秀を顧みた。

「もう篭城は無理だ。おれたちも逃げるぞ」

 弟を逃がさなければ。それだけを考えて、劉縯は走り出した。劉秀の腕を掴み、揉み合う兵士たちを自らの体躯で掻き分けて城門を抜けた。城門から五里(約二キロメートル)も走らない内に敵の騎兵に襲われた。幾つもの悲鳴が月下に響いた。おれから離れるな、と剣を抜きながら劉秀に叫んだ声は、馬蹄の轟きに掻き消された。月光を弾いて繰り出された戟が劉縯の小札鎧を掻き、劉縯は引き倒された。身を起こそうと地面で足掻く劉縯の体の上に、甲冑を着た死体が倒れ込んだ。馬蹄の音が劉縯の上を駆け抜けた。激痛が劉縯の左脚を襲った。劉縯の上に更に死体が倒れ込んだ。

「秀、秀、無事か。秀」

 劉縯は土煙の下で叫んだ。馬の蹄が劉縯の横を走り抜け、頭を直刀で割られた死体が劉縯の眼前に倒れた。劉縯は左脚の痛みに耐えて体を動かし、死体の下から這い出した。

「秀。秀」

 弟の名を何度も叫んだ。悲鳴と喊声と馬蹄の轟きが、劉縯の周りから離れた。折れた左脚を引き摺り、劉縯は地面の上を這い進んだ。

「秀」

 握りしめていた剣を地面に突き立てた。剣を杖にして立ち上がろうと試みた。一度目は失敗し、二度目も途中で倒れた。三度目で成功し、左脚の激痛に耐えて前へ進んだが、死体に躓いて転倒した。左脚の痛みと甲冑の重さに苦しみながら、再び剣を地面に突き立てた。今度は五度目で立ち上がることが出来た。弟を捜して前へ進んだ。十歩も進まない内に、また死体に躓いて転んだ。また剣を地面に突き立てた。今度は九度も失敗した。弟を逃がさなければ、という一念で十度目に挑んだ。あの弟は、このどうしようもないほどに愚かな兄のために来てくれた。自分を一人にした兄を、一人にしないために来てくれた。

 こんなところで、あいつを死なせられるかよ。

 全身の力を振り絞り、劉縯は自らの体を持ち上げた。斬り落としてしまいたいほどに左脚が痛んだ。体が持ち上がり、立つことに成功した。ずりずりと折れた脚を引き摺りながら前へ進んだ。また死体に躓いた。体が大きく傾いたが、今度は転ばずに済んだ。歯を食い縛り、更に前へ進んだ。また死体に躓いたが、また転ばずに済んだ。月下を前へ進み続けた。殺戮の喧騒が遠くから絶えず聞こえていた。自分の体が誰かに支えられていることに、劉縯は気づいた。目を動かし、自分を支えてくれている誰かの横顔を見た。

「破軍か?」

 劉縯は横顔に訊ねた。聞き覚えのある声が答えた。

「いいえ、武曲です」

「ああ、先生、武曲先生か」

 劉縯は安堵した。武曲は強い。破軍と同じくらい強い。この紅炎色の瞳の、少女のような面立ちの少年なら、劉秀を無事に逃がせる。

「おれのことはいい。秀を、逃がしてやってくれ」

「ご心配には及びません。劉公の弟君には、わたしの馬を渡してあります。とても良い馬です。劉公の弟君を無事に逃がしてくれるはずです」

 そう武曲が微笑んだ時、複数の人馬の声が劉縯らの方に近づいてきた。武曲は地に片膝をつき、その場に劉縯を横たわらせた。

「敵です。すぐに片づけます」

 横たわる劉縯の視界から、武曲の姿が消えた。数秒後、人の声が途絶え、馬の嘶きが八方に散じた。武曲の姿が再び劉縯の視界に現れ、劉縯を助け起こした。

「行きましょう」

「斬ったのか?」

「斬りました」

「すまない」

「平気です。わたしは、慣れていますから」

「でも、先生は、人を殺すのは嫌いだろう?」

「どうでしょう。認めたくないだけかも知れません」

 劉縯に肩を貸しながら、ほろ苦そうに武曲は微笑した。

 新たな喊声が、劉縯が逃げてきた方向から聞こえた。劉縯は武曲に支えられて歩き出した。折れた脚が酷く痛んだ。もう無理だ、歩けない、おれを置いて秀と逃げてくれ。一度だけ、そういう弱音が劉縯の口から漏れた。劉秀は兄を置いて逃げる弟ではない、と武曲に諭された。厄介な弟だ、と劉縯は口の右端を笑ませながら歯を食い縛り、必死に足を進めた。また馬蹄の音が近づいてきた。

「兄上」

 声が聞こえた。劉縯が月明かりを頼りに声の方へ目を凝らすと、馬影から下りる小さな影が見えた。小さな影は劉縯の方へ駆けてきた。

「兄上、その様子は――」

「心配するな。掠り傷だ」

「左脚の骨が折れています」

 劉縯を地面に寝かせながら、武曲が劉秀の問いに答えた。

「折れた骨が変形しないように処置します。劉公の甲冑を脱がせてください。わたしは脚に副えるものを探してきます」

「わかりました」

 劉秀は劉縯の頭の近くに膝をついた。緒を解いて冑を脱がせてくれた劉秀の顔を、劉縯は見上げた。

「おれのことはいい。早く逃げろ。敵が来るぞ」

「兄上を置いて逃げることは出来ません」

「愚かな豎子め」

「兄上ほど愚かではありません」

「言いやがったな、こいつめ」

 劉縯は右の拳を上げ、劉秀の頭を軽く小突いた。劉秀は今にも泣き出しそうな顔で微笑み、小札鎧を脱がせるために劉縯の肩の辺りの革紐に手をかけた。劉秀が劉縯の甲冑を脱がせ終えると、折れた矛を手に武曲が戻ってきた。

「ずれた骨をあるべき位置に戻します。とても痛みますから、誤って舌を噛むことがないよう、これを劉公に噛ませてください」

 武曲は劉秀に布を手渡した。

「準備が出来たら、劉公の体を押さえてください。あまり激しく動かれると骨を戻せませんから」

 武曲に言われた通り、劉秀は渡された布を捩り、兄の口に押し込んだ。兄の腹の上に跨り、兄の両肩を手で押さえた。

「それでは、いきます」

 えい、という声が劉縯の左脚の方から聞こえた。次の瞬間、劉秀の体が宙に浮くほどの勢いで劉縯が体を仰け反らせた。劉秀は兄の体を懸命に押さえた。

「もう一度、いきます」

 えい、という声が再び聞こえた。劉縯の体が前よりも激しく仰け反り、折れていない方の脚が空と地面を何度も蹴りつけた。何かを訴えるように、劉縯の右手が劉秀の腕を強く掴んだ。劉秀は目を強く瞑り、抱き着くようにして劉縯の体を押さえ続けた。

「終わりました」

 武曲の手が折れた矛へ伸びた。劉縯の全身から力が脱けた。劉秀が劉縯の口から布を引き出すと、新鮮な空気を求めて劉縯の胸が大きく上下した。劉縯の左脚に矛の柄が副えられた。裂いた布を巻いて副え木を固定する武曲へ、劉縯が声を絞り出した。

「何が処置だ。折れた時より痛かったぞ」

「そういうものです。早くここから離れましょう」

 武曲は劉縯に肩を貸して立ち上がらせた。劉秀も反対側から兄の体を支え、共に劉縯の体を武曲の馬の上に押し上げた。劉秀が馬の鞍の後ろに乗り、武曲が馬の轡を取って走り出そうとした時、無数の松明が近づいてきた。

「わたしが時を稼ぎます」

 武曲の手が轡を離した。

「大きな道は避けてください。多分、敵が兵を伏せています。林の中を進んでください。危険を冒すことにはなりますが、敵の網の中に飛び込むよりはましです」

 先生、と劉秀が武曲へ呼びかけた。武曲は劉秀の手を取り、自らの両手で劉秀の手を包み込むと、馬上の劉秀を見上げて微笑んだ。

「わたしを信じてください。劉公は必ず助かります。あなたもです。わたしも、後で必ず追いつきます」

 武曲の手が劉秀の手から離れた。松明の群れの方へ走り去る武曲を、劉秀は目で追いかけた。赤茶色の外套が小さくなり、劉縯と劉秀を乗せた馬が歩き出した。松明の群れの方から声が響き、松明の一つが動きを止めた。動きを止めた一つを残し、松明の群れが何かを追うように別の方向へ動き出した。

 地元の農民しか通らないであろう小さな道を、劉縯と劉秀を乗せた馬は進んだ。劉秀は背を丸めた。深々と冷えた冬の夜の空気が体に沁みた。劉秀は手に白い息を吹きかけた。

「兄上、寒くありませんか?」

「おれは平気だ。おまえこそ、寒くないか?」

「僕は平気です」

 劉秀は嘘をついた。進んでいた道が途切れ、何もない畠の中を馬が進み始めた。劉秀は空を見上げた。百万の氷片を擲ったかのような星空が広がっていた。劉秀は手に息を吹きかけた。

「兄上、寒くありませんか?」

「おまえが寒くないなら、おれも寒くない。おれは、おまえの兄だからな」

 馬が畠を抜け、林立する樹影の間を進み始めた。ぱき、と蹄が枝を踏み折る音が小さく響いた。う、と劉縯が呻く声が聞こえた。劉秀は体を緊張させた。

「兄上」

「大丈夫だ。脚を、藪に引っ掻かれただけだ」

 劉縯は苦しげに顔を笑ませた。劉秀は馬から下りた。剣を抜き、葉が落ちた藪を切り払いながら、林の中を進んだ。進みながら何度も空を振り仰ぎ、北斗七星を探した。北斗七星を見つけられたら、紫微星を見つけられる。紫微星を見つけられたら、どれほど深い闇の中でも方角を見失わずにいられる。しかし、今は樹の影が邪魔で、北斗七星も紫微星も見つけられない。

 右手の剣で藪を払い、左手で馬の轡を引きながら、劉秀は歩き続けた。少し開けた場所に出た。劉秀は足を止め、また北斗七星を探すために空を仰いだ。

 夜空の一角が、仄かに赤い色をしていた。先程まで翟義軍がいた都城に火が放たれ、夜の一部を赤々と焼き焦がしていた。

「燃えている」

 赤く焼き焦がされた夜空の一部を見つめながら、劉縯が呟いた。

「大漢帝国が、燃えている」

 陳勝呉広の乱――王侯将相、寧んぞ種有らんや。

 楚漢戦争――天が我を亡ぼす。

 呂氏の専横――狡兎死して良狗烹らる。

 呉楚七国の乱――劉氏に非ざれば王に非ず。

 西域遠征――絲綢の路シルクロードはローマへ通ず。

 李陵の禍――天道、是か非か。

 孝宣皇帝の中興――漢家を乱す者は太子ならん。

 王氏の台頭――天の時にして人力の致すに非ざるなり。

「おれたちの国が、燃えている」

 劉縯は呟いた。大漢帝国が燃えている。大漢帝国が積み重ねた光と陰が灰になろうとしている。大漢帝国が滅びようとしている。

「行きましょう」

 劉秀は轡を握り直した。

「今は、生き延びることを、それだけを考えなければ」

「秀」

 歩き出そうとした劉秀を、劉縯は呼び止めた。

「下ろしてくれ」

「兄上、しかし――」

「下ろしてくれ」

 劉縯は繰り返した。逆らえない何かを劉秀は感じた。劉縯を馬から下ろした。左脚を庇いながら劉縯は地面に座り込んだ。

「大漢帝国は終わりだ。もう誰も王莽を止められない。大漢帝国は、滅びたも同然だ。おれは、高祖から託された使命を果たせなかった」

 劉縯は懐中から短剣を取り出した。劉秀は青褪めた。

「兄上、何を――」

「おれは、大漢帝国に殉じる」

「なりません!」

 短剣を鞘から引き抜こうとした兄の手を、劉秀は胸に掻き抱くようにして押さえた。

「それだけは、それだけはなりません」

「秀、聞け。おれは、高祖の子孫だ。この大漢帝国の皇帝の血を引いているんだ。大漢帝国が滅びたら、おれはおれでなくなる。だが、今ならまだ、おれは、おれとして死ねる」

「なりません。兄上は、生きておられます。殷が滅びた時も、周が滅びた時も、秦が滅びた時も、人々は生き続けました。兄上もそうなさるべきです」

「だが、母上が死んだんだぞ」

「……え……?」

 劉秀は兄の顔を見た。劉秀の声と瞳が大きく震えた。

「今、何と? 母上が、母上が――」

「母上は死んだ。自分の命と引き換えに、おれを生き延びさせるよう先祖の霊に祈り、自害された」

「自害」

 呆然とした声が、劉秀の口から漏れた。劉秀の手から力が失われた。劉縯は劉秀の手を振り払い、短剣を鞘から引き抜いた。

「母上が死んだのは、おれのせいだ。大漢帝国を守れず、母上も死なせた。もう、おれに出来ることは――」

 劉縯は短剣を凝視した。初めて人を殺した時のように、短剣を持つ手が震えていた。手の震えを押さえるように、もう一方の手を短剣を持つ手に重ねた。

「おれに、出来ることは――」

 短剣の尖端を、劉縯は自分の喉に向けた。古代神聖王朝の暴君は、古代連合王朝の聖王に敗れた時、自ら火中に身を投じて死んだ。覇王項羽は、高祖劉邦に敗れた時、自らの首を自らの手で掻き刎ねて死んだ。悪逆非道を極めた者たちでさえ、その時が来たら自らの手で始末をつける程度の気概は具えていた。ましてや高祖の血を引くおれが、と劉縯は短剣を強く握りしめた。

 劉秀が、自らの剣を自身の前に置いた。

「僕も――」

 地面の上に両膝を揃え、劉秀は両手を揖礼の形に組んだ。

「――お供します」

 劉秀は深々と頭を下げた。劉縯は弾かれたように劉秀を見た。

「駄目だ。おまえは生き延びろ」

「もはや国に忠を尽くすことはならず、父母に孝を尽くすこともならないのなら、生きる意味などありません。どうか、兄上と一緒に、あの世で父上と母上、そして、高祖の御霊に仕えさせてください」

「秀」

 劉縯は弟を見つめた。劉秀は僅かに顔を上げ、兄の目を見つめ返した。

「僕は、兄上についていきます。いつまでも、どこまでも、兄上についていきます」

 劉秀は微笑んだ。澄んだ目をしていた。劉縯は顔を俯かせた。愚かなやつめ、と小さく呟き、両手で握りしめていた短剣を劉秀の前に置いた。

「頼む」

「わかりました」

 全てを了解し、劉秀は頷いた。右手で兄の短剣を取り、左手で兄の肩を掴んだ。星空を仰ぎ、深く息を吸い、深く息を吐いた。先程まで探していた北斗七星を、自身の白い吐息の向こうに見つけた。視線を兄に戻し、短剣の先を兄の喉へ向けた。もう一度、北斗七星を見上げた。深く息を吸い、深く息を吐いた。更に息を深く吸いながら、短剣を後ろに引き、兄を見た。叫びながら、渾身の力で短剣を突き出した。その剣先が劉縯の喉を抉るよりも早く、後ろから伸びてきた手が劉秀の手を掴み止めた。

 平手が飛んだ。劉秀は頬を打たれて倒れた。平手は更に閃いた。今度は劉縯の頬が音高く鳴った。

「何と心弱き人か」

 武曲であった。武曲は腕を伸ばし、呆然としている劉縯の胸倉を掴んだ。

「高祖の故事をお忘れか。高祖は、覇王との戦いに臨むこと百回、その内の九十九回に敗れるも、最後の一回に勝利して大漢帝国を興された。それなのに、あなたは一度の負けで全てを諦めるのか。それでもあなたは高祖の末裔か」

「武曲先生」

 劉秀は打たれた頬を押さえ、激情を露わにしている武曲の横顔を見上げた。武曲は劉縯の胸倉から手を離し、地面に片膝をついて劉縯の肩に手を置いた。武曲の赤い瞳に宿る光が和らいだ。

「負けたのなら、また戦えばよいのです。国が滅びたのなら、再び興せばよいのです」

 武曲は柔らかく微笑んだ。劉縯の目が大きく見開かれた。月の光が、劉縯の目の縁を優しく光らせた。武曲に打たれた頬を、光るものが一筋だけ流れ落ちた。

 劉秀の頬も光るもので濡れていた。星が流れるように、目から雫が止め処なく溢れていた。劉秀は顔を伏せ、目の周りを手で拭いた。

 翡翠色の小さな光を、劉秀は見つけた。劉秀から少し離れた地面の上で、小さなものが仄かに光り輝いていた。劉秀は立ち上がり、光へ近づいた。翡翠色の光が消え、五匹の龍の彫像を戴いた四寸四方の方形の玉器が現れた。劉秀は引き寄せられるように両手を玉器へ伸ばした。玉器を持ち上げると、その下の地面に八つの文字が燐光を帯びて浮き出ていた。

 受命于天既寿永昌――命を天に受く、既に寿くして永く昌ならん。

 文字の光が消えた。体に流れる高祖劉邦の血が、劉秀に玉器の正体を悟らせた。劉秀は兄に走り寄り、兄の前に跪いた。

「兄上、見てください」

 劉秀は兄に玉器を差し出した。

「伝国璽です。高祖の伝国璽です」

 劉縯は瞠目した。それが間違いなく本物の伝国璽であること、そして、自分たちの前に伝国璽が現れたことの意味を、劉縯も本能的に理解した。

「生きろと、言われているのか。生きて戦えと、高祖はそう言われているのか。生きて、戦い続けろと」

「生きましょう、兄上。生きて、あと九十九回、戦いましょう。僕も、お供します。いつまでも、どこまでも、兄上についていきます」

 劉秀は兄に伝国璽を手渡した。劉縯は弟の顔を見つめた。劉秀は眼を涙で光らせながら頷いた。その様子を見て、武曲が一瞬だけ寂しげに目を伏せた。しかし、すぐに春風のように微笑して立ち上がり、兄弟から離れて自らの愛馬へ手を伸ばした。
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