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第五章 北狄の樹、南陽の竈

第三十話

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 陰麗華いんれいかには不思議な記憶がある。

 幼少の頃、陰麗華には二人の兄がいた。上の兄は勉学で忙しく、あまり麗華に構ってはくれなかったが、下の兄はよく麗華と遊んでくれた。綺麗な花を簪のように髪に挿してくれた。蝶や蛍を捕まえて麗華に見せてくれた。噛むと甘い草の茎を教えてくれた。麗華は下の兄に懐き、いつも一緒に遊んだ。

 ある日、麗華は下の兄の姿が見えないので、上の兄に下の兄の居場所を訊いた。上の兄は首を傾げ、それは誰のことかと訊き返した。その時、麗華は自分には兄が一人しかいないことに気づいた。

 自分が下の兄だと思い込んでいた男の子は、どこの誰なのか。我が家で祀られている竈神そうしんではないか、と麗華は考えている。

 始建国しけんこく五年(西暦十三年)十二月の朝、丈長の緩やかな衣を幾重にも纏い、斗篷マント状の赤い外套を肩にかけた陰麗華は、杯と小さな酒壺を抱えて邸の庭へ出た。陰麗華は南陽なんよう新野しんや県の大豪族、いん氏の娘であり、陰氏の大邸宅の奥には、竈神が祀られた建物がある。竈神は家庭の安全と幸福を司る神であり、大漢だいかん帝国、及び大漢帝国の後継である大新だいしん帝国では広く祀られているが、陰氏は特に竈神への信仰が篤い。陰氏の家伝によれば、陰氏の先祖は竈神を祭ることで家運を開いたとされており、陰氏は毎年十二月になると、一族を挙げて竈神の祭儀を行う。

 陰麗華は竈神が祀られた建物へ入り、竈神に朝の挨拶をした。今日は正午から祭儀が行われることを竈神へ伝え、竈神の像に深く一礼した。古代風の青銅の杯を竈神の像の前に置き、白い湯気を上げている酒を杓子で酌み入れた。一度、建物の外へ出て、骨付きの羊肉を焼いたものを運んできた。

 奇妙なことに、陰麗華は気づいた。先程、竈神に供えた青銅の酒杯の中から、酒が消えていた。仄かに酒の香が残る杯の口を、陰麗華は覗き込んだ。なぜだろう、と首を傾げながら、羊肉を竈神の像に供えた。改めて青銅の杯に酒を酌み入れるために、杓子へ手を伸ばした。杓子へ伸ばした手を不意に止め、竈神の像を見上げた。

「もしかして、兄上ですか?」

「わたしだよ」

 後ろから声が聞こえた。ひゃあ、と陰麗華は驚き、驚いた拍子に転倒した。あいたた、と呻きながら体を起こそうとした陰麗華の前に、少女の手が差し出された。陰麗華は少女の手を掴んだ。

「もう、驚かせないでくださいよ、伯姫はっき

「あんたが勝手に驚いたんだよ」

 伯姫、すなわち劉伯姫りゅうはっきは、陰麗華を立ち上がらせた。あ、と陰麗華は大事なことに気づいて声を上げた。

「いけませんよ、伯姫。この建物は、陰氏の者でなければ入れません」

「なら、構わんでしょ。わたしは、あんたの母の父の弟の妻の妹。つまり、陰氏の者も同然なんだから」

「あ、そうか。なら、入っても構いませんね」

 陰麗華は微笑んだ。構わないわけないだろう、と思いながら、劉伯姫は竈神に供えられている骨付き肉を掴んだ。あ、とまた陰麗華が声を上げた。

「いけません。それは竈神への供え物です」

「心配しなくても、骨は返すよ」

「そうですか? なら、いいですけど」

 きちんと返してくださいね、と念を押しながら、陰麗華は空の杯に酒を注ぎ直した。いいのかよ、と思いながら、伯姫は羊肉に齧りついた。ぐむぐむと羊肉を咀嚼しながら、竈神の像を見上げた。

「これが、あんたが話していた兄上?」

 ごくり、と伯姫は羊肉を嚥下した。一般的に竈神の像は人の姿をしているが、陰氏で祀られている竈神の像は、片足を上げ、左右の手に一匹ずつ蛇を握りしめた奇妙な姿をしていた。大きさは陰麗華と同じくらいで、寒くないように、という配慮なのか、陰麗華が着ているものと同じ、斗篷状の赤い外套が着せられていた。こいつが着せたのかな、と伯姫は陰麗華の方を見た。麗華と目が合いそうになると、反射的に竈神の像へ目を戻した。

「どうも、劉伯姫です」

 竈神の像へ、伯姫は軽く頭を下げた。自分は陰麗華の母の叔父の妻の妹で、遠い親類のようなものであると自己紹介をした。一年前に陰麗華から聞かされた、幼少の頃に竈神と遊んだ、という話を信じているからではなく、竈神と遊んだと信じている麗華のために、そうした。そんなことを知る由もなく、陰麗華は嬉しそうな顔をした。兄のことを伯姫は信じてくれていると思い、竈神の像に話しかけた。

「伯姫は凄いんですよ。兄上と同じくらい、虫を捕まえるのが上手です。それから、兄上と同じくらい、色んなことを知っているんです」

「あんたが色んなことを知らなすぎるだけだと思うけどな」

 また一口、伯姫は羊肉に齧りついた。

 陰麗華と劉伯姫が初めて出会ったのは、二年前、麗華が七歳、伯姫が九歳の時である。その日、邸の中庭で弟と遊んでいた陰麗華は、母方の叔父であり、幼馴染でもある少年の訪いを受けた。麗華が幼馴染に走り寄ると、幼馴染は紹介したい人がいると言い、少し離れた場所で背を向けていた伯姫を見た。陰麗華は幼馴染の眼差しを辿るように伯姫へ近づき、伯姫の背中に話しかけた。自らの名を伯姫へ伝え、伯姫に姓名を訊ねた。劉伯姫、と伯姫は肩越しに答えた。どこから来たのか、好きなものは何か、幼馴染とはどういう関係か、陰麗華は劉伯姫に質問した。伯姫は麗華と目を合わせず、短く言葉を返した。自然、二人の会話はすぐに途切れた。陰麗華が沈黙に困惑していると、麗華の幼い弟が伯姫へ近づき、伯姫の衣の裾を掴んだ。伯姫は麗華の弟を見下ろし、見るからに不快そうな顔をした。何て顔をするのだろう、と陰麗華は伯姫に対して悪い印象を抱いた。そんなことは露知らず、伯姫は麗華の弟から目を逸らした。逸らした先で何かを見つけ、見つけたものへ手を伸ばした。花へ手を伸ばす伯姫を、何をしているのだろう、と陰麗華は見つめた。伯姫の手が花から離れ、伯姫の衣を掴んでいる麗華の弟の手に触れた。数秒の間を置いて、伯姫の手が麗華の弟の手から離れた。

 小さな緑色の蟷螂カマキリが、陰麗華の弟の手の甲に乗せられていた。

 ぎゃあ、と陰麗華の弟は泣き出した。見慣れない奇怪な形の昆虫が、鎌のような前肢を振り上げて威嚇する様に恐れを生し、手に火をつけられたかのように泣いた。陰麗華と陰麗華の幼馴染は慌てた。陰麗華の幼馴染が麗華の弟に駆け寄り、蟷螂を捕まえて元の場所へ戻した。麗華の弟は姉の許へ走り、姉の衣へ顔を埋めた。ち、と舌打ちする音を、陰麗華は聞いた。これくらいで泣くなよ、と伯姫が言い、横を向いた。何て乱暴な人だろう、と陰麗華は伯姫を睨んだ。

 陰麗華の幼馴染が険悪な雰囲気を察し、空気を変えるべく会食を提案した。三人は場所を移して会食に臨んだが、陰麗華は、早く食べ終えて帰れ、とばかりに伯姫を無言で睨みつけ、伯姫の方も相変わらずの様子で箸を動かすのみで、陰麗華と劉伯姫の共通の幼馴染は困り果てた。やがて伯姫は目の前の魚の片面を食べ尽くした。魚の尾を箸で掴み、くるりと裏返した。残る片面の身を箸で毟り、食べ始めた。その時、陰麗華は天地が覆されたかのような衝撃を受けた。

「え!? 魚って、裏も食べられるんですか!?」

「……………………………………………………………………………………は?」

 伯姫は思わず箸を止め、陰麗華を見た。その瞬間、陰麗華と劉伯姫は初めて正面から目を合わせた。

 その日から二年が過ぎ、陰麗華の年齢は二年前の劉伯姫のそれに並んだ。二年の間に、陰麗華は劉伯姫という歳上の少女のことを、少しだけ理解した。伯姫も陰麗華という歳下の少女のことを、麗華が伯姫を理解した以上に理解した。こいつを嫂上あねうえと呼ばねばならない日が来るかも知れないのか、と些か憂鬱になりながらも、次姉が嫁した新野県の鄧晨とうしんの邸を訪れた時は、何となく陰氏の邸宅の門を叩いた。

 陽が高くなり、竈神の祭儀が始まる時間が近づいた。陰氏の親類や、近くの集落に住む人々が陰氏の大邸宅に集まり始めた。色鮮やかな布飾りが結ばれた庭樹の枝に腰かけ、来訪する人たちを眺めていた伯姫は、次姉と鄧晨を見つけた。次姉の娘が伯姫を見つけ、外叔母上おばうえ、と伯姫の許へ駆けてきた。わたしもそこに座る、と言い、庭樹を攀じ登ろうとした。

「駄目だ。危ないし、行儀が悪い。母上に叱られるぞ」

 外叔母上は叱られないのか、と次姉の娘は伯姫に訊ねた。

「わたしは母がいないから叱られない」

 ずるい、と異母姉の娘は口を尖らせた。

「ずるくないよ。ずるいことでも、羨ましがることでもない」

 伯姫は目を次姉の方へ戻した。

 鄧晨と次姉に挨拶をしている兄、劉秀りゅうしゅうを見つけた。

 げ、と伯姫は眉を顰めた。何でいるんだよ、と呟いた。劉秀が伯姫に気づいた。伯姫は咄嗟に横を向いた。横目で劉秀の方を窺うと、こちらへ歩いてくる劉秀が見えた。何で来るんだよ、と呟き、逃げるために樹から下りようとした。何で逃げなければいけないんだよ、と呟き、樹の上に座り直した。劉秀の影が樹に近づいてきた。次姉の娘が胸の前で両手を重ね合わせ、舅上おじうえ、と劉秀に揖礼した。劉秀は微笑んで揖礼を返した。劉秀の目が樹の上の伯姫を見上げた。伯姫は小さく息をつくと、覚悟を決めて樹から飛び下りた。着地して劉秀の方へ向き直ると、両手を揖礼の形に重ね合わせた。

「兄上」

「伯姫」

 劉秀は伯姫に礼を返した。翟義の乱から六年、大新帝国の建国から五年が過ぎ、劉秀は十九歳の若者に成長していた。久しぶりに妹の伯姫と会えたことを喜び、伯姫も陰氏の祭事に招かれたのかと訊ねた。

「……そんなところです」

 伯姫は劉秀と目を合わせずに答えた。劉秀は伯姫に近況を訊ねた。伯姫は話が弾まないであろう言葉を選んで答えた。やがて質問の種が尽き、劉秀は自分の近況を話し始めた。別に知りたくないよ、と思いながら伯姫が劉秀の話を聞いていると、伯姫の後方から陰麗華の弟が歩いてきた。伯姫の次姉の娘を見つけ、外従叔母上おばうえ、と手を振りながら駆け出そうとしたが、近くに伯姫がいることに気づいて足を止めた。伯姫だ、蟷螂の伯姫がいる、と言い、くるりと体の向きを変えた。来た方へ走り去る陰麗華の弟の背に向けて、伯姫は密かに小指を立てた。このちび、と伯姫の体の後ろで立てられた小指を、じ、と次姉の娘の眼が見た。劉秀は何も気づかず、走り去る陰氏の子供を見ながら伯姫に訊ねた。

「あの子は、伯姫の知り合いかい?」

「麗華の弟です」

 伯姫は陰麗華の弟に気を取られ、よく考えずに答えた。答えた直後、自分の失敗に気づいた。劉秀は伯姫の言葉を聞き逃さず、伯姫の方へ顔を向け直した。

「麗華というのは、あの陰麗華のこと? 伯姫は陰氏の子女と知り合いなのかい? あの子は伯姫のことを蟷螂の伯姫と呼んだけど、どうしてそう呼ばれているの?」

 劉秀は立て続けに伯姫へ質問した。伯姫は半面を歪めた。やらかした、と思いながら伯姫が視線を横へ泳がせた時、陰麗華が近くの建物から回廊へ出てきた。知らない男に執拗に話しかけられているらしい伯姫を見つけ、む、と麗華は眦を上げた。誰か来て、と周りに呼びかけながら、ぱたぱたと伯姫の許へ駆けつけた。後ろから伯姫の腕を引き、伯姫の体を数歩、劉秀から引き離した。

「あなた、誰ですか」

 自らの体で伯姫を守りながら、陰麗華は劉秀を睨んだ。戸惑う劉秀を、陰氏の腕自慢の食客たちが囲んだ。

「劉伯姫に近づかないでください。こう見えて、伯姫は知らない人と話すことが苦手なんです。伯姫を困らせないでください」

「麗華」

 どう見えているんだよ、と思いながら、伯姫は口を挿んだ。

「そいつは知らない人じゃない。わたしの三兄だよ」

「え? そうなんですか?」

 伯姫の説明を聞き、陰麗華は驚いた。胸の前で両手を重ね、劉秀に謝罪した。

「失礼しました、舂陵しょうりょう劉伯升りゅうはくしょう

「違う。それは長兄。これは三兄」

 伯姫は陰麗華の間違いを正した。え、と陰麗華は驚き、再び劉秀に頭を下げた。

「失礼しました。伯姫が知らない人に話しかけられた時のような顔をしていたので、勘違いをしてしまいました」

「あ、いや、気にしないでください」

 知らない人、という言葉に些か傷つきながらも、劉秀は温顔で応じた。劉秀を囲んでいた陰氏の食客たちが、お嬢さんの早とちりか、と笑いながら散じた。食客たちが去ると、伯姫は劉秀と陰麗華の間に立ち、改めて兄を陰麗華に紹介した。

「わたしの三兄の、劉、劉、劉――」

 劉秀の字を思い出せず、伯姫は劉秀を見た。劉秀は姿勢を正した。

「姓は劉、字は文叔ぶんしゅくと申します」

 劉秀は陰麗華へ丁寧に頭を下げた。続いて伯姫は陰麗華を劉秀に紹介した。

「兄上、こちらは陰麗華。ご存知だとは思いますが、陰氏の長女で、樊太公はんたいこうが定めた兄上の許嫁です」

 え、と陰麗華が声を上げた。

「わたし、許嫁がいたんですか?」

 え、と今度は劉秀、劉伯姫兄妹が声を上げた。思わず兄妹は顔を見合わせた。劉秀と目が合い、伯姫は反射的に目を逸らした。

 その時、伯姫は思いついた。

「そうだ。兄上と麗華は将来、夫婦になるわけですから、この機会に、二人だけで話されては如何ですか?」

 え、と今度は劉秀と陰麗華が声を揃えた。劉秀の方は赤面して慌てた。若い娘が男と二人きりになるなんてとんでもない、と言いたげな顔をした。一方、陰麗華は頬を赤らめながらも、妙に嬉しそうに伯姫の肩を叩いた。

「もう、いやだわ、この子ったら、気を遣っちゃって、おませさんなんだから」

「……もうあによめ気取りか」

姑妹いもうとよ、何か困ったことがあったら、何でも相談するんですよ」

「…………言っておくけど、婚礼を行うまでは、わたしの方が齢も世代も上だからな」

「伯姫、伯姫」

 劉秀が小声で伯姫の袖を引いた。

「まずいよ。幾ら許嫁でも、二人だけになるのは、本当によくない。せめて、伯姫もいてくれないと――」

「竈神の祭儀が行われる今日、兄上が麗華と会うことが出来たのは、竈神の計らいに違いありません。わたしが兄上と麗華の間に割り入れば、竈神の好意を無碍にすることになります。それとも、兄上は妹が竈神に祟られてもよいのですか?」

「いや、そんなことはないけれど、そもそも、僕が陰氏の邸に来たのは、姉上に誘われたからで――」

「それに、先程のように固い言葉が口を衝くのなら、間違いは起きないでしょう」

「間違い。伯姫、何てことを言うんだ」

 ますます劉秀は顔を赤くした。何を想像しているんだか、と軽侮するような目で伯姫が劉秀を見た時、陰麗華の手が劉秀の左腕を掴んだ。

「あのように姑妹も気を遣ってくれていることですし、向こうで話しましょう。すぐに火を運ばせます。温かい酒も用意させます」

 こちらです、と陰麗華は劉秀を引き摺り、回廊を歩いて建物の角の向こうへ消えた。鬱陶しい兄を陰麗華へ押しつけることに成功し、は、と伯姫は肩で息をついた。布が飾られている庭樹へ登り、枝に腰かけた。伯姫の次姉の娘が、また登った、と伯姫を見上げた。

「何だ。まだいたのか」

 そこに座りたい、と次姉の娘は伯姫に言った。

「駄目だ。母上に叱られるぞ」

 外叔母上は叱られないのか、と次姉の娘は伯姫に訊ねた。

「わたしは――」

 わたしは母がいないから叱られない、と伯姫が言おうとした時、こら、と伯姫を叱る声が飛んできた。伯姫が声の方へ目をやると、次姉がいた。危ないから下りなさい、と次姉は伯姫に命じた。次姉の娘が、外叔母上が叱られた、と伯姫へ向けて嬉しそうに小指を立てた。それを見て次姉が顔色を変え、その仕草をどこで覚えたのか、と娘に問い質した。外叔母上、と娘は答えた。まずい、と伯姫は庭樹から飛び下り、全速力で逃げた。伯姫、待ちなさい、と次姉の怒声が伯姫を追いかけた。
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