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第五章 北狄の樹、南陽の竈

第三十一話

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 陰氏の邸で働いている家内奴隷が、邸宅の一室に金属製の方形の火鉢を運んだ。劉秀りゅうしゅうの席と陰麗華いんれいかの席が、隣り合う形で設えられた。劉秀の膳に酒杯と塩漬け肉が、陰麗華の膳に棗が置かれた。劉秀が陰麗華に勧められて席に着くと、数人の家内奴隷が部屋の隅に控えた。それはそうか、と劉秀は苦笑し、二人きりではないことに安堵した。陰麗華が劉秀に話しかけた。

「劉公のことは、伯姫はっきからよく聞かされています」

「そうなんですか?」

 あの伯姫が、と劉秀は表情を明るくした。陰麗華は頷き、膳の上の棗へ手を伸ばした。

「自分には、乱暴者の兄と働き者の兄がいて、乱暴者の兄は大嫌いだけど、働き者の兄は嫌いではないと」

「……それ、僕ではなくて、僕のもう一人の兄です」

「そうなんですか?」

「真面目で、大らかで、よく働く兄です。とても背中が大きくて、伯姫はよく懐いています」

「まあ、あの伯姫が懐くだなんて、公のもう一人の兄は、とても好い人なのですね」

「そうですね。とても好い人だと思います」

 劉秀は複雑な笑みを浮かべた。

 劉秀はどういう人なのか、陰麗華は劉秀に訊ねた。自分は学問が好きで、帝国の最高学府、太学たいがくへ進学する予定であることを、劉秀は陰麗華に話した。陰麗華は学問に対して興味が無く、何だか難しそうな話をしているな、と思いながら劉秀の話を聞いたが、劉秀が学識豊かな人であるらしいことは何となく理解した。

「劉先生は、凄い人なんですね」

 劉公、ではなく、劉先生、と陰麗華は劉秀を呼んだ。劉秀は顔を僅かに赤くした。

「先生と呼ばれるほどのことではありませんよ。僕が太学へ進めるのは、父の功績です」

 帝国の最高学府、太学は、大漢帝国の第七代皇帝、孝武こうぶ皇帝の時代に設置された。当初は学生の定員が五十名に過ぎず、後に定員が増やされ、入学方法も多少は緩和されたが、一握りの者しか入学を許されない状態が続いていた。しかし、今から十数年前、当時の大漢帝国の軍務長官、王莽おうもうの制度改革により、六百石以上の高級官僚の子弟全員に太学への入学資格が与えられた。劉秀の亡父の最後の官職は県令であり、県令の等級は千石、もしくは六百石であるため、劉秀には太学へ入る資格が有る。

 太学で何を学ぶのか、陰麗華は劉秀に訊ねた。劉秀は孝経こうきょうを始めとする儒学の経典を幾つか挙げ、最後に尚書しょうしょという書物の名を出した。尚書とは古代の演説集で、古代連合王朝の聖王が暴君との決戦を前にして、兵士たちに語りかけた言葉などが記されているが、無論、陰麗華は尚書も孝経も知らない。

「劉先生は伯姫と同じで、書物が好きなんですね」

「伯姫も好きなのですか?」

「わたしの兄から、伯姫が書物を借りているところを見たことがあります。わたしの兄も書物が好きで、朝から晩まで書物を読んでいます。劉先生は、兄と気が合うかも知れませんね」

 陰麗華は棗の実を口に含んで微笑んだ。また複雑な笑みを浮かべた劉秀に、そうとは気づかず、更に質問した。

「わたしの兄は官吏になるそうですが、劉先生も官吏になられるのですか?」

「僕は、官吏にはなれませんよ」

 大新帝国の成立後、漢帝国の帝室に属していた人間は、王莽の伯母である王政君おうせいくんや、王莽の智嚢である劉歆りゅうきんのような例外を除き、帝国政府から冷遇されている。特に劉秀が属している舂陵しょうりょう劉氏は、王莽と対立した悪徳貴族の紅陽こうよう侯や、打倒王莽を叫んで叛乱を起こした翟義てきぎと、親しく交流していた過去がある。何か特別な伝手でもない限り、舂陵劉氏の劉秀が大新帝国に仕官することは難しい。そう劉秀が苦笑いしながら説明すると、陰麗華は口の中の棗を、こくん、と呑み込んだ。

「伝手ならありますよ」

「え?」

「この新野しんやには、聖上の子女がおられます」

 十数年前、新都しんと侯と呼ばれていた頃の王莽が、政争に敗れて南陽なんよう郡の領地へ追いやられていた時期に、奴隷に産ませた子供のことである。王莽は政界に復帰する際、妻に遠慮して奴隷の子を新野県に留め置き、皇帝に即位した今も帝都に住むことを許していないが、陰麗華の父は王莽の庶子を奇貨、すなわち将来の見返りが期待できる人物と考え、息子たちの立身出世のために接近していた。

「そうだ」

 ぱん、と陰麗華は両の掌を叩き合わせた。

「今から聖上の子女へ使者を送りましょう」

「え?」

「劉先生を、聖上の子女に紹介します。聖上の子女も書物を読むことを好まれるので、劉先生とは気が合うはずです」

 我ながら何という良案、と陰麗華は微笑した。劉秀は狼狽した。

「駄目です。それは、いけません」

「なぜですか?」

「それは、あれです」

「あれ?」

「そこまでしていただくのは、申しわけないです」

「遠慮なさらず。劉先生は伯姫の兄です。わたしに出来ることは、何でもして差し上げたいのです」

 陰麗華は笑顔で席を立ち、絹の履き物を履いた。部屋の隅に控えていた家内奴隷が、陰麗華に斗篷マント状の赤い外套を着せた。陰麗華が外套を着せられている間、劉秀は、あの、とか、その、という意味が無い言葉を呟きながら、陰麗華を止める言葉を懸命に探した。劉秀が言葉を探し出す前に、家内奴隷が赤い外套を陰麗華に着せ終えた。すぐに戻ると言い残し、陰麗華は使者を手配するために部屋を出た。

 麗華、と親しげに呼ぶ声が、回廊へ出た陰麗華を迎えた。陰麗華は足を止め、自らの前に立つ少年の顔を見上げた。陰麗華の表情が、ぱ、と花が咲いたように輝いた。

舅上おじうえ

「元気にしていたかい、麗華」

 少年は顔を微笑ませた。劉秀が陰麗華を追い、部屋の外の回廊へ出てきた。陰麗華の前にいる少年を見て、劉秀は目を円くした。

ほう、きみも来ていたのか」

「え?」

 陰麗華は少年の顔と劉秀の顔を交互に見た。

「お二人は、知り合いなんですか?」

「おいおい」

 少年は苦笑した。

「麗華に伯姫を紹介したのは、おれだぞ。伯姫の兄の劉文叔を、知らないはずがないだろう?」

「そういえば、そうですね」

 陰麗華は納得して微笑んだ。少年は劉秀の方へ体を向き直らせ、揖礼ゆうれいの形に両手を重ね合わせた。

「劉公」

鄧奉とうほう

 劉秀は少年へ揖礼を返した。鄧奉、と劉秀に呼ばれた少年は、陰麗華へ目を向けた。

「急いでいるみたいだけど、どうしたんだい?」

「そうでした。実は――」

 新野県に留め置かれている王莽の子女へ使者を送り、会う約束を取りつけようとしていることを、陰麗華は鄧奉に説明した。鄧奉は陰麗華の説明を聞きながら、ちらりと劉秀の方を見た。陰麗華を止めてくれ、と劉秀は身振り手振りで鄧奉に伝えた。鄧奉は陰麗華へ目を戻した。

「少し急ぎすぎではないかな。劉文叔は、これから太学へ進む人だ。聖上の子女に紹介するのは、太学で学び終えてからにすべきだろう」

「そうですか? でも、父と兄は――」

「それよりも、伯姫が拗ねていたぞ」

「伯姫が?」

「麗華が劉文叔ぶんしゅくにばかり構うから、面白くないとさ」

「でも、伯姫はわたしに、二人だけでと――」

「劉伯姫はそういうやつなんだよ。わかるだろう?」

「そうでした。伯姫はそういう子でした」

 くすくすと陰麗華は笑い声を零した。鄧奉は劉秀を見た。

「そういうわけですから、構いませんよね、劉先生?」

「あ、うん。行ってあげて。伯姫は、僕の大事な妹だから」

「わかりました」

 陰麗華は劉秀に揖礼した。劉秀と鄧奉に背を向け、ぱたぱたと伯姫の許へ急いだ。走り去る陰麗華へ手を振る鄧奉の横で、劉秀は大きく息を吐いた。鄧奉は振る手を止めずに劉秀へ話しかけた。

「気に入られたみたいですね、麗華に」

「そういうわけではないよ。伯姫の兄だから、親切にしてくれているだけだ」

「誰でも最初はそういうものだよ」

 鄧奉は、劉秀の次姉の夫、鄧晨とうしんの甥である。陰麗華の母の弟でもあり、劉伯姫と陰麗華の幼馴染でもある。

「伯姫も、初めはそうでした」

 陰麗華の背中が見えなくなり、鄧奉は手を下ろした。

「初めて二人を会わせた時、背を向けて黙り込んでいる伯姫に、麗華は自分から話しかけた。伯姫は決して話しやすい子ではないのに、伯姫を連れてきたおじのために、そうしてくれた。けれど、伯姫は伯姫だから、善かれと思ってしたことで、麗華の弟を泣かせた」

「そういえば、蟷螂の伯姫と呼ばれていたけど」

「麗華の弟の手に、蟷螂を乗せた」

「なるほど。蟷螂は怖い」

 劉秀は苦笑した。鄧奉は微笑して話を続けた。

「当然、麗華は怒る。伯姫も悪気があったわけではないから、素直に謝らない。泣く方が悪いと言わんばかりだ。その時の、どうしようもなさそうな悪い雰囲気に比べたら、劉先生は遥かに好い感じだ。伯姫が麗華の友になれたように、劉先生も麗華の大事な人になれるよ」

 庭に設えられた即席の竈に火が入れられ、付近の住民に振る舞われる豚肉が煮られ始めた。劉秀と鄧奉は竈の近くへ移動した。麗華と二人で何を話したのか、竈の火に手を翳して暖を取りながら、鄧奉は劉秀に訊ねた。陰氏は子弟の教育に力を入れていると聞いたので、書物や学問について話した、と劉秀が答えると、鄧奉は笑い出した。

「それは駄目だ。麗華に書物や学問の話は」

「そうなの?」

「そういうものに興味が無い。覚えている文字も、二百か、三百か、それくらいだ。とても一人で書物を読むことは出来ない。新野で一番の士大夫、陰氏の子女が、論語ろんごも孝経も読めないのでは様にならないから、せめて千は文字を覚えるよう諭したんだけど、そうしたら、あいつ、何て言ったと思いますか?」

「さあ、何て言ったのかな?」

「わたしが文字を覚えなくても、伯姫が読み聞かせてくれる、だってさ。その時の伯姫の顔ときたら――」

 親友に頼られた嬉しさと、どうしてそこまでしてやらねばならないのか、という苛々が混在した伯姫の顔を思い出し、くつくつと鄧奉は笑った。劉秀は炎へ目を向け、白い息を吐いた。

「伯姫は、書物が読めるんだね」

湖陽こようはん太公が仰ったんです。伯姫の母も、よく書物を読んでいたと。それで、伯姫も文字を覚えて読み始めた。多分、母が恋しいんだろうな。母が読んでいた書物を読むことで、僅かでも母の何かに触れられたらと、そう考えているんだと思います」

「奉は、凄いな」

 劉秀は微笑んだ。

「伯姫のことを、よく知っている。まるで、本当の兄みたいだ。僕よりも――」

「そう思うのは、劉先生が伯姫の本当の兄だからだよ」

「それは、そうだろうけど」

「これからだよ。麗華と同じ。これから仲よくなるんだよ」

 祭事で竈神に奉げられる羊の鳴き声が、庭を囲む建物の向こうから聞こえた。祭事の始まりが近いことを感じながら、鄧奉は話を転じた。

「太学には、何年くらい?」

「三年か、四年か、それくらいは学ぶことになるかな」

常安じょうあんは――」

 常安、とは大新帝国の帝都の名で、旧称を長安ちょうあんという。

「――物の値段が高いと聞いたけど、向こうで四年も生きていけそうですか?」

「苦労はするだろうけど、何とか四年間、生き延びられそうだよ」

 太学へ進学するに際し、劉秀が直面した最大の問題は、費用である。劉秀の実家は食うに困らない程度の収入はあるが、帝国の最高学府へ人を送り込めるような経済的余裕は無い。そのため、劉秀は当初、強い向学心を持ちながらも進学を諦めていたが、劉秀の長兄の劉縯りゅうえんは、劉秀が最高学府で学ぶことを強く望んでおり、費用の問題を何とかするために奔走した。最初は姉婿の鄧晨に援助を求めたが、鄧晨の妻である次姉に、甘えるな、と一喝された。劉秀の養父である叔父に頭を下げたが、仕官の可能性が無いのに太学で学ぶのは時間と金銭の無駄だ、と言われた。そんなことはない、と劉縯は反論した。帝位を簒奪した王莽の天下が長く続くはずがない、太学で学んだことが役に立つ日は必ず来る、と訴えた。現実を見ろ、と叔父の劉良りゅうりょうは言い、劉縯を邸から追い出した。

 その後も劉縯は親類を訪ねて回るも、叔父と同様の理由で断られ、最後は外祖父の樊重はんじゅうに援助を懇願した。樊重は溜め息をつき、おまえはそういうところがよくない、と劉縯を諭した。親戚や姻戚を頼る前に費用を抑える努力をすべきだ、と説教した。舂陵劉氏ほどの家ならば帝都に知人がいる者がいるはず、まずは安く住める場所を帝都の知人に紹介してもらえ、と助言した。

 この樊重の助言を機に、これまでの逆風が少しずつ変わり始めた。帝都に友人がいる親類が、劉秀が友人の家に寄宿できるよう動いてくれた。別の親類が、日雇いで働きながら太学で勉強している苦学生を紹介してくれた。劉秀が働きながら勉学に励むつもりであることを知り、これまで厳しい態度で弟たちに接してきた次姉が、帝都は寒いと聞いているから、と暖かい衣類を用意してくれた。時間と金銭の無駄、と劉秀の進学に反対していた叔父の劉良が、新しい筆記具を劉秀に買い与えてくれた。贈られた荷物を帝都へ運ぶための驢馬が、劉秀の長姉から劉秀へ贈られた。

「兄上や姉上、それから、親戚姻戚の父兄には、幾ら感謝しても足りないよ」

 劉秀の口から白い息が淡く漏れ出た。鄧奉は劉秀の横顔を見た。陰氏の邸宅の奥、竈神が祀られた建物の前に設けられた祭壇へ、厨房から料理が運ばれ始めた。鄧奉は火の方へ目を戻した。

「おれも、劉先生に感謝されてみようかな」

「え?」

「鄧氏の男が一人、常安で学んでいます」

 鄧奉の目の前の火に薪が足された。火にかけられている大鍋に、一口大に切られた根菜類がどさどさと入れられた。

「とても優秀な人で、何とかという学者の一族と親交があるらしい。公の助けになると思うから、よろしくと書簡で伝えておきます」

「ありがとう。その人の名は?」

「姓は鄧、名は、字は仲華ちゅうか

「鄧仲華か」

「鄧先生は凄い人です。若くして詩経しきょうに習熟し――」

 詩経、とは儒学の五大経典の一つで、古代連合王朝時代の詩篇である。

「――常安では、十年に一人の俊英と呼ばれたとか。くれぐれも、失礼のないようにしてくださいね」

「心得た」

 劉秀は頷いた。陰氏の者たちが、間もなく竈神を祭る儀式が始まることを触れ回り始めた。劉秀は鄧奉に促され、祭壇の方へ共に歩き出した。
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