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背中
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一歩進むたびに「はあ、はあ」と大きく息をしながら母が坂道を登る。
「あーもう。ずっと嫌だったのよ、この坂が。なんでこんな所に生まれちゃったかなあって、いっつも思ってた」
母は途中で立ち止まって大きく肩で息をしている。
「お母さん、運動不足だね。ほら」
母のキャリーバッグを手にした風花が軽やかに足踏みをして見せた。
「私だって……はあ……あなたの頃は……はあ……あなたよりもっと軽やかに上がってたわよ」
強がりを言っている母の背中に風花は回り込んだ。
「ほら、もう一息。がんば」
そして背中を押すと、仕方なくまた登り始めた。
風花が古びた玄関のガラスの引き戸を開けて先に中へ入ると、母は中に入るのを躊躇うように手前で立ち止まり、少し唇を噛んで屋根の方を見渡してから、おもむろに玄関の中へ足を踏み入れた。
「ただいま」
誰にいうともなく小さな声で母が言うが、何も返事がない。
「お婆ちゃん、着いたよ」
先に上がった風花はキャリーバッグを居間に置くと、台所に背中が見えた祖母に声をかけた。その後ろから、土間で靴を脱いだ母が上がってきて、台所へ入ってきた。
「お母さん、ただいま」
母が祖母の背中に声をかけた。
「ああ、お帰り」
祖母はチラリと視線を送ってそれだけ言うと、また背中を向けて包丁の音を立てた。ガスコンロには鍋がひとつ火にかかっている。
母は袖をたくし上げて祖母の隣に立った。
「何を作ってるの?」
「ポテトサラダを作るつもり。そろそろ茹で上がってると思うけど」
「わかった」
母は鍋の蓋を取ると、菜箸を鍋の中のじゃがいもに突き立てた。そして火を止めるてザルに取り出し、「あちっ」と言いながら今茹で上がったばかりのじゃがいもの皮をすべて剥き、ボールに入れてそれを潰した。
「風花、マヨネーズ入れて混ぜて」
「はーい」
冷蔵庫から風花はマヨネーズを取り出し、たっぷりと絞り出して潰したじゃがいもと一緒にボールの中で混ぜた。母の大好きなポテトサラダの完成だ。
「13日にお父さんも来るから」
特に派手な会話もなく三人で食宅を囲みながら、母が風花にそう言った。
「本当に? なんで?」
「なんでって……。風花と私が尾道に来てるんだから、お父さんだって来たいって思うわよ」
「まあ、それはそうだけど」
祖母はどうやらすでに聞いていたらしい。特に驚いた様子もない。
風花とて父に会えるのは、正直うれしくないはずがない。だが、自分のせいではあるが、ギスギスした関係の両親の記憶がどうしても頭から離れない。
実は例の事故の前から、風花が水泳で強くなればなるほど母が入れ込んで、逆に父は母が入れ込みすぎていることに、少々うんざりとしていたみたいだった。そんなときにあの事故が起きて、両親の関係が一層悪くなったことを風花でさえも感じていたのだ。
風花の胸の中で、嫌な予感が渦巻いた。
今は風花が使っている部屋は、元々は母の部屋だったという。
「こんなに狭かったっけ」
母はそう言いながら、閉めてあったカーテンを開けた。すでに暗くなった尾道水道に、赤や黄色の小さな灯りがたくさん点っている。
「海が見えた。海が見える。15年ぶりに見る尾道の海は懐かしい」
母が少し芝居がかったように海を見ながらそう言った。そういえば、初めてミオがこの部屋に入ったときにも、同じことを言ったなと思い出した。ミオのときと違うのは、母は林芙美子よりも10年ほど長い時間がかかったことだろう。
「今頃になって、やっと林芙美子の気持ちがわかるわ」
母が照れくさそうに笑った。
「昔は分からなかったの?」
「うん。こんな古い家とか急な坂道とか、なんで私はこんな所に住んでるんだろうってずっと思ってた。あの頃はこの景色が大嫌いだったんだよね」
母は開け放った窓枠に腰掛けて暗い海を眺めている。
「私は——ここから見える尾道の海の景色が大好き。坂道も大好き」
風花がそう言うと母が振り返り、「よかった」とポツリとつぶやいた。
「どこ行くの?」
次の日の朝、風花が静かに着替えていると母が目を覚ました。最近は目覚まし時計がなくても同じ時間に目が覚めるようになった。
「毎朝、坂道を走ってるの」
「あなたも物好きねえ。何を好き好んであんな坂道を走るのよ」
母がムクっと体を起こした。
「いいトレーニングになるの、あの坂」
「何よ。せっかくお母さんが来たときぐらい休みなさいよ。つれないわねえ」
冗談めかして母が風花のトレーナーの裾を掴んで引き留めた。
「もう。話ぐらい帰ってからいっぱいしてあげるから。友達が待ってるからもう行くよ」
母が摘んでいる裾を風花はつんと振り切った。
「はっ。こんな朝早くからあの坂道を走りたいっていう変わった子、あなたの他にもいるの? どんな子よ。あっ、もしかして彼氏? もう、そんな人がいるなら紹介しなさいよ。ねえ、どんな子? かっこいい?」
「ああもう、しつこい。行ってきます」
風花は部屋を飛び出した。
「あーもう。ずっと嫌だったのよ、この坂が。なんでこんな所に生まれちゃったかなあって、いっつも思ってた」
母は途中で立ち止まって大きく肩で息をしている。
「お母さん、運動不足だね。ほら」
母のキャリーバッグを手にした風花が軽やかに足踏みをして見せた。
「私だって……はあ……あなたの頃は……はあ……あなたよりもっと軽やかに上がってたわよ」
強がりを言っている母の背中に風花は回り込んだ。
「ほら、もう一息。がんば」
そして背中を押すと、仕方なくまた登り始めた。
風花が古びた玄関のガラスの引き戸を開けて先に中へ入ると、母は中に入るのを躊躇うように手前で立ち止まり、少し唇を噛んで屋根の方を見渡してから、おもむろに玄関の中へ足を踏み入れた。
「ただいま」
誰にいうともなく小さな声で母が言うが、何も返事がない。
「お婆ちゃん、着いたよ」
先に上がった風花はキャリーバッグを居間に置くと、台所に背中が見えた祖母に声をかけた。その後ろから、土間で靴を脱いだ母が上がってきて、台所へ入ってきた。
「お母さん、ただいま」
母が祖母の背中に声をかけた。
「ああ、お帰り」
祖母はチラリと視線を送ってそれだけ言うと、また背中を向けて包丁の音を立てた。ガスコンロには鍋がひとつ火にかかっている。
母は袖をたくし上げて祖母の隣に立った。
「何を作ってるの?」
「ポテトサラダを作るつもり。そろそろ茹で上がってると思うけど」
「わかった」
母は鍋の蓋を取ると、菜箸を鍋の中のじゃがいもに突き立てた。そして火を止めるてザルに取り出し、「あちっ」と言いながら今茹で上がったばかりのじゃがいもの皮をすべて剥き、ボールに入れてそれを潰した。
「風花、マヨネーズ入れて混ぜて」
「はーい」
冷蔵庫から風花はマヨネーズを取り出し、たっぷりと絞り出して潰したじゃがいもと一緒にボールの中で混ぜた。母の大好きなポテトサラダの完成だ。
「13日にお父さんも来るから」
特に派手な会話もなく三人で食宅を囲みながら、母が風花にそう言った。
「本当に? なんで?」
「なんでって……。風花と私が尾道に来てるんだから、お父さんだって来たいって思うわよ」
「まあ、それはそうだけど」
祖母はどうやらすでに聞いていたらしい。特に驚いた様子もない。
風花とて父に会えるのは、正直うれしくないはずがない。だが、自分のせいではあるが、ギスギスした関係の両親の記憶がどうしても頭から離れない。
実は例の事故の前から、風花が水泳で強くなればなるほど母が入れ込んで、逆に父は母が入れ込みすぎていることに、少々うんざりとしていたみたいだった。そんなときにあの事故が起きて、両親の関係が一層悪くなったことを風花でさえも感じていたのだ。
風花の胸の中で、嫌な予感が渦巻いた。
今は風花が使っている部屋は、元々は母の部屋だったという。
「こんなに狭かったっけ」
母はそう言いながら、閉めてあったカーテンを開けた。すでに暗くなった尾道水道に、赤や黄色の小さな灯りがたくさん点っている。
「海が見えた。海が見える。15年ぶりに見る尾道の海は懐かしい」
母が少し芝居がかったように海を見ながらそう言った。そういえば、初めてミオがこの部屋に入ったときにも、同じことを言ったなと思い出した。ミオのときと違うのは、母は林芙美子よりも10年ほど長い時間がかかったことだろう。
「今頃になって、やっと林芙美子の気持ちがわかるわ」
母が照れくさそうに笑った。
「昔は分からなかったの?」
「うん。こんな古い家とか急な坂道とか、なんで私はこんな所に住んでるんだろうってずっと思ってた。あの頃はこの景色が大嫌いだったんだよね」
母は開け放った窓枠に腰掛けて暗い海を眺めている。
「私は——ここから見える尾道の海の景色が大好き。坂道も大好き」
風花がそう言うと母が振り返り、「よかった」とポツリとつぶやいた。
「どこ行くの?」
次の日の朝、風花が静かに着替えていると母が目を覚ました。最近は目覚まし時計がなくても同じ時間に目が覚めるようになった。
「毎朝、坂道を走ってるの」
「あなたも物好きねえ。何を好き好んであんな坂道を走るのよ」
母がムクっと体を起こした。
「いいトレーニングになるの、あの坂」
「何よ。せっかくお母さんが来たときぐらい休みなさいよ。つれないわねえ」
冗談めかして母が風花のトレーナーの裾を掴んで引き留めた。
「もう。話ぐらい帰ってからいっぱいしてあげるから。友達が待ってるからもう行くよ」
母が摘んでいる裾を風花はつんと振り切った。
「はっ。こんな朝早くからあの坂道を走りたいっていう変わった子、あなたの他にもいるの? どんな子よ。あっ、もしかして彼氏? もう、そんな人がいるなら紹介しなさいよ。ねえ、どんな子? かっこいい?」
「ああもう、しつこい。行ってきます」
風花は部屋を飛び出した。
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