【新編】オン・ユア・マーク

笑里

文字の大きさ
66 / 68

尾道の子 前編

しおりを挟む
 ある日の昼下がり、小柴美織は尾道市郊外にある大型家電量販店にいた。高校は春休みに入ったばかりで、千光寺の桜の便りも聞こえ始めたが、春というにはまだ少し風が冷たい。
 新学期から受験生となる美織だったが、相変わらず競技かるた中心の生活を送っている。悔しいことに、1年の冬は中堂秋穂、2年の冬は床田千佳にクイーン戦予選西日本大会決勝で敗れ、本戦への出場は叶わなかった。しかも、今年勝ち上がった床田千佳は本戦で見事クイーン位を勝ち取っている。
 今年の冬は受験生ではあるが必ず床田千佳にリベンジすると誓いを立てた。今日もスマホで流す百人一首を聞くためのイヤホンを買い替えるつもりだ。
 店舗に来てみると、イヤホンがたくさん棚にぶら下がっていて、どれにしようか悩みどころだった。もともと百人一首の微細な音を聞き分けたいので、できるだけ高性能なものを選びたいのだが、同じような性能を謳うものが多いので目移りがする。
 商品がぶら下がっている棚の端から端までゆっくりと見ていた美織は、突然左の二の腕あたりを掴まれた。
 人はあまりにも驚くと言葉を失うらしい。悲鳴も上げられないまま美織が驚いて振り向くと、腕を掴んでいたのはなんと孝太だった。
「孝太、いきなり何をするん」
 それが孝太とわかってやっと強気な言葉が出た。
「来いよ」
 だが孝太は何も応えず、美織の腕をしっかりと握ったままズカズカと歩き出し、美織は引き摺られるように孝太のあとを追うしかなかった。

 風花と喧嘩したあの日、美織は孝太の部屋に通じる窓も鍵を閉めてしまい、あれから一度もあの窓が開けられたことはない。
 最初は幾度か孝太が何か話しかけようとしていたのはわかったが、美織が避けていることを感じたのだろう、いつしか孝太からも話しかけることもなくなっていた。

 孝太に連れて行かれたのは、店内にずらりと並んだテレビの前だった。その中心にはおそらく百型と書いたひときわ大きなテレビが据え付けられている。その真ん前に立たされた。
 店舗にあるテレビの全てでは、人気お笑い芸人の番組をやっていた。
「なんね! いきなり!」
 そこまで来て美織はやっと我に返り、孝太が掴んでいる腕を強く振り解いた。
「いいから、そこにいろよ」
 孝太はその大型テレビに近づくと、そこに置いてあるリモコンを手にして、チャンネルを変える。どうやら今はコマーシャルの時間らしい。おそらく新人と思われる若い女優が汗を額に浮かべながら、ペットボトルのスポーツ飲料を一気に飲み干している。
「ああ、ちょっと。勝手にチャンネルを変えないでね」
 すぐに近くにいた販売員が近づいてくるが、そのタイミングでスポーツ飲料のコマーシャルが終わり画面が切り替わった。

 画面にはキラキラと光る水。そこにはプールが大写しになっていた。
 ——さて、競泳の全日本選手権、先ほど行われた男子平泳百メートル決勝は、前評判通り順当に北橋涼介選手が勝って二度目のオリンピック代表を決定づけました
 アナウンサーの言葉に、解説者が「さすがですよね」と言葉を添えた。

「君、勝手にチャンネルを変えたらいけんよ」
 販売員がリモコンを手に持った。
「今から尾道の子が二人、オリンピック代表をかけて泳ぐんです。お願いします」
 孝太がその手を両手で掴んで止めた。
「尾道の子? これから?」

 ——さあ、次は女子自由形百メートル決勝となります。解説の田口さん、このレースの見どころは。
 ——そうですね。高校生になって、この2年間で一気に頭角を現した坂本莉子選手を中心としたレースとなりそうですね。彼女は前回のレースでオリンピック標準記録を突破してますので、今回もかなり期待できそうです。

「はい。オリンピック候補なんです。だから、このレースだけでも見せてください」
 孝太が必死に頭を下げる。販売員は少し考えている様子だったが、そのうちにその場を離れたかと思うと、店舗にあるテレビをすべてチャンネルを水泳に変えたのだった。

 ——さて、選手の入場です。

 順番に選手が入ってくる。

 ——田口さん、他の注目選手はいかがでしょう。
 ——そうですね。5コースを泳ぐ夏目麦《なつめむぎ》選手も日本記録にあとコンマ7秒に迫る記録を去年の夏に叩き出しました。あれから成長分の上積みが期待できる選手ですねえ。

「帰る」
 美織は画面から目を逸らし、出口に向かって歩き出そうとした。
「ミオ、もう逃げるな」その瞬間に孝太が強い口調で美織に言い、再びその腕を掴んだ。「ちゃんと向き合ってやれよ」
「逃げとらん」
 美織はそう言うのが精一杯だった。

 ——日本記録といえば、2コースを泳ぐ大道風花選手がその記録保持者です。中学3年生で日本記録を出して一気に注目された選手です。田口さん、彼女はその記録を出した時から約2年ほどレースに出場がありませんでしたが。
 ——彼女のコーチに伺ったところ、あの日本記録を出したあと少しスランプになり、しばらく水泳から離れていた時期があったと言ってましたね。もともとのポテンシャルは高い選手なので、どれほど回復してきたのか私も注目してます。

 スイミングキャップを被ったトレーニングウェア姿の風花の姿が映っている。手にしたバッグを置いて、柔軟を始めた。

 ——そういえば、田口さん。レース前に音楽を聴いている選手は大勢いますが、今映っている大道選手が聴いているのは、なんと百人一首らしいですね。

 風花の耳が画面に大きく映し出された。

 ——えっ、そうなんですか。
 ——そうなんです。百人一首を聴くと、今は遠く離れた場所にいる大切な友達からのエールをもらっているようで、勇気が出ると言っていましたね。

 再び出口に向かおうとした美織の足が止まった。
「ミオ、頼むから最後まで見ててやれよ」

 場内では、選手の紹介が始まっていた。
 2番目に呼ばれた風花が高く手を上げた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

痩せたがりの姫言(ひめごと)

エフ=宝泉薫
青春
ヒロインは痩せ姫。 姫自身、あるいは周囲の人たちが密かな本音をつぶやきます。 だから「姫言」と書いてひめごと。 別サイト(カクヨム)で書いている「隠し部屋のシルフィーたち」もテイストが似ているので、混ぜることにしました。 語り手も、語られる対象も、作品ごとに異なります。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

処理中です...