34 / 97
待ってる
しおりを挟む
「私、小さかったけど覚えてる。アンクル・トムとメリンダはいっぱい愛してくれたの」
サスペンダー氏に肩を抱かれ、小さい頃を思い出したのだろう、その頬に一筋の涙を流しながら圭はそう言った。するとサスペンダー氏は急に顔を上げて、
「あの寒い夜、神様がケイに引き合わせてくれたんだ。ケイの母親は帰ってこなかったけど、彼女はとても優しい人だった。この子をとても大事にしていたよ。きっと帰ってこられない何かがあったんだろう。だから、この子を託されたこと、それがわしら夫婦の運命だと思ったさ。だから、神様からこの子がわしらに託された日をこの子の誕生日とすることにした。それが神が決めた日だからさ」と圭司の目を見て真顔でそう言った。
——まさか、彼は記憶が完全に戻ってるのか……?
さっきまで世捨て人のように黙っていると感じていたサスペンダー氏は圭司の意に反して今度は饒舌だった。
「わしらがハウスから出ていかなければならなかったことも、すべて神が決めたことなんだよ。君はケイが預けられた日のことを聞きたいと言ったな。母親を探す気なのか?」
サスペンダー氏は強い視線で圭司に言う。
「そのつもりです。圭と出会った日、あなた方がそう感じたように、それが僕の運命ではないかと思ったんです。だからこの子を引き取ったんです」
「この子には言わなかったが、実を言うとわしらも探したんだよ。日本の大使館にも行った。彼女は日本からこの子を連れてきたと言ったが、だが、ケイ・タカハシという子供がアメリカに来た記録はどこにもなかった。——そうさ、どこにも、だ。おそらくそれが全ての答えさ。この子は神様が連れて来た子供だ。だから、神様のやったことを人間が探り出そうなど、わしら夫婦はしょせん無理なことだと悟った」
サスペンダー氏が深いため息をついて視線を地面に落とした。
神様の子供などいるはずもないと思う。サスペンダー氏にそう言うことは簡単なことかもしれない。だが、もしも「なぜそう思う?」とあらためて聞かれてどう答えればいいだろう。返事を探している圭司に、サスペンダー氏は続けた。
「もし君がケイの母親を探すなら、あとはもう神様の指先を辿ってみるしかないんだよ。君にその覚悟があるのか? そうでないとケイがかわいそうだ」
「かわいそう、ですか」
——何もしないほうがかわいそうではないのか?
「ああ、そうだ。生まれたばかりの赤ん坊だ。大人ならいざ知らず、赤ん坊の顔など写真を見せられても誰も顔も知らない。入国記録もない。パスポートもない。でも、君が必ず探すと言われると、この子は希望を持つだろう。それでももし見つからなかったら? 見つかりませんでした、で済むのか? この子は一生そのたどり着けない希望という心の着地場所を探して生きることにならないか。そういう生き方が本当にこの子の、ケイの幸せだと言えるのかね」
突き刺すような視線を受けながら、圭司は答えようと試みる。
——これは、宗教問答なのか。
「では、もう探すなとあなたは言うのですか」と問うてみる。
するとサスペンダー氏は少し笑いながら言う。
「それももう無理だな。そう。もう無理だ。ケイは知ってしまったからな、君が探そうとしていることを。君はもう絶対探すしかない道へ踏み込んだ。あとは残念ながら神様が微笑んでくれることを期待するしか残された道はない。なあ、メリンダ。そうだろ」
そこまで言うと、サスペンダー氏はキョロキョロと首を動かして——おそらくメリンダ夫人を探しているように見えた。そしてそこに彼女はいないことを悟り、がっくりと項垂れたのだった。それから出会った時のように、まだ黙ってしまったのだった。
——確かにそうだ。俺はここへはひとりで来るべきだった。
サスペンダー氏の言葉に全て賛同できるわけではないが、確かに母親を探すことはまだ圭には言わないでおくべきだったかもしれない。圭司は圭を連れて来たことを激しく後悔した。しかも、もう少し聞きたいこともあったが、サスペンダー氏はもう口を開きそうにないほど顔色が悪かくなり、近くにいた介護士が話を止めてしまった。
——さっきの彼は、正気だったのだろうか。
そんなことを思いながら、圭司が介護士に頭を下げて帰ろうとしたとき、圭が車椅子に座る「アンクル・トム」の前に立ち、軽く目を閉じて深呼吸をした。そしてもう一度目を開けて彼を見つめ、静かに歌い出した。
圭は感情を爆発させるような激しい曲が好きだ。それはソウル、ブルース、ロック、カントリーなどのジャンルに囚われない。だが、今歌っている曲は、ひたすら美しかった。こんな曲を圭が歌うところを圭司は初めて聴いた気がする。
——アメージング・グレイス
神の施しに感謝する讃美歌が、圭の感情を込めた伸びやかな声でマサチューセッツに吹く風になってゆく。少しずつサスペンダー氏と圭の周りにホームにいた人が集まり出し、人々は黙ってその歌声を心地良さそうに聞いていた。
歌い終わると圭は恭しく礼をする。人々が微笑んで拍手を送った。そしてサスペンダー氏を見ると、閉じた瞼から涙がほろほろと流れていた。
「私、思い出したの。あの曲は小さい頃、メリンダが私に歌ってくれたの。だから、きっとメリンダが大好きな曲だったと思うの」
帰りの車の中で、圭はそれだけ言うと黙って窓に流れる景色を見ていた。
——君にその覚悟があるのか。
サスペンダー氏が言ったあの言葉が圭司の頭から離れなかった。
サスペンダー氏に肩を抱かれ、小さい頃を思い出したのだろう、その頬に一筋の涙を流しながら圭はそう言った。するとサスペンダー氏は急に顔を上げて、
「あの寒い夜、神様がケイに引き合わせてくれたんだ。ケイの母親は帰ってこなかったけど、彼女はとても優しい人だった。この子をとても大事にしていたよ。きっと帰ってこられない何かがあったんだろう。だから、この子を託されたこと、それがわしら夫婦の運命だと思ったさ。だから、神様からこの子がわしらに託された日をこの子の誕生日とすることにした。それが神が決めた日だからさ」と圭司の目を見て真顔でそう言った。
——まさか、彼は記憶が完全に戻ってるのか……?
さっきまで世捨て人のように黙っていると感じていたサスペンダー氏は圭司の意に反して今度は饒舌だった。
「わしらがハウスから出ていかなければならなかったことも、すべて神が決めたことなんだよ。君はケイが預けられた日のことを聞きたいと言ったな。母親を探す気なのか?」
サスペンダー氏は強い視線で圭司に言う。
「そのつもりです。圭と出会った日、あなた方がそう感じたように、それが僕の運命ではないかと思ったんです。だからこの子を引き取ったんです」
「この子には言わなかったが、実を言うとわしらも探したんだよ。日本の大使館にも行った。彼女は日本からこの子を連れてきたと言ったが、だが、ケイ・タカハシという子供がアメリカに来た記録はどこにもなかった。——そうさ、どこにも、だ。おそらくそれが全ての答えさ。この子は神様が連れて来た子供だ。だから、神様のやったことを人間が探り出そうなど、わしら夫婦はしょせん無理なことだと悟った」
サスペンダー氏が深いため息をついて視線を地面に落とした。
神様の子供などいるはずもないと思う。サスペンダー氏にそう言うことは簡単なことかもしれない。だが、もしも「なぜそう思う?」とあらためて聞かれてどう答えればいいだろう。返事を探している圭司に、サスペンダー氏は続けた。
「もし君がケイの母親を探すなら、あとはもう神様の指先を辿ってみるしかないんだよ。君にその覚悟があるのか? そうでないとケイがかわいそうだ」
「かわいそう、ですか」
——何もしないほうがかわいそうではないのか?
「ああ、そうだ。生まれたばかりの赤ん坊だ。大人ならいざ知らず、赤ん坊の顔など写真を見せられても誰も顔も知らない。入国記録もない。パスポートもない。でも、君が必ず探すと言われると、この子は希望を持つだろう。それでももし見つからなかったら? 見つかりませんでした、で済むのか? この子は一生そのたどり着けない希望という心の着地場所を探して生きることにならないか。そういう生き方が本当にこの子の、ケイの幸せだと言えるのかね」
突き刺すような視線を受けながら、圭司は答えようと試みる。
——これは、宗教問答なのか。
「では、もう探すなとあなたは言うのですか」と問うてみる。
するとサスペンダー氏は少し笑いながら言う。
「それももう無理だな。そう。もう無理だ。ケイは知ってしまったからな、君が探そうとしていることを。君はもう絶対探すしかない道へ踏み込んだ。あとは残念ながら神様が微笑んでくれることを期待するしか残された道はない。なあ、メリンダ。そうだろ」
そこまで言うと、サスペンダー氏はキョロキョロと首を動かして——おそらくメリンダ夫人を探しているように見えた。そしてそこに彼女はいないことを悟り、がっくりと項垂れたのだった。それから出会った時のように、まだ黙ってしまったのだった。
——確かにそうだ。俺はここへはひとりで来るべきだった。
サスペンダー氏の言葉に全て賛同できるわけではないが、確かに母親を探すことはまだ圭には言わないでおくべきだったかもしれない。圭司は圭を連れて来たことを激しく後悔した。しかも、もう少し聞きたいこともあったが、サスペンダー氏はもう口を開きそうにないほど顔色が悪かくなり、近くにいた介護士が話を止めてしまった。
——さっきの彼は、正気だったのだろうか。
そんなことを思いながら、圭司が介護士に頭を下げて帰ろうとしたとき、圭が車椅子に座る「アンクル・トム」の前に立ち、軽く目を閉じて深呼吸をした。そしてもう一度目を開けて彼を見つめ、静かに歌い出した。
圭は感情を爆発させるような激しい曲が好きだ。それはソウル、ブルース、ロック、カントリーなどのジャンルに囚われない。だが、今歌っている曲は、ひたすら美しかった。こんな曲を圭が歌うところを圭司は初めて聴いた気がする。
——アメージング・グレイス
神の施しに感謝する讃美歌が、圭の感情を込めた伸びやかな声でマサチューセッツに吹く風になってゆく。少しずつサスペンダー氏と圭の周りにホームにいた人が集まり出し、人々は黙ってその歌声を心地良さそうに聞いていた。
歌い終わると圭は恭しく礼をする。人々が微笑んで拍手を送った。そしてサスペンダー氏を見ると、閉じた瞼から涙がほろほろと流れていた。
「私、思い出したの。あの曲は小さい頃、メリンダが私に歌ってくれたの。だから、きっとメリンダが大好きな曲だったと思うの」
帰りの車の中で、圭はそれだけ言うと黙って窓に流れる景色を見ていた。
——君にその覚悟があるのか。
サスペンダー氏が言ったあの言葉が圭司の頭から離れなかった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる