69 / 97
シング
しおりを挟む
東京のラジオの仕事が終わり、もう夜の十一時を過ぎて横浜へ向っていた。隣では圭が夜景を見ながら時折首がカクンと落ちるのがわかる。最近の彼女は昼間は学校へ行き、夕方からテレビやラジオ、そしてその日のうちにまた横浜へ帰る生活が続いている。若いとはいえ疲れも溜まることだろう。
これを電車を使っていたら、と思うとゾッとする。車を買ってよかったな。そんなことを考えながら圭太はハンドルを握っていた。
突然、隣で圭がムクッと体を起こすと前屈みにダッシュボードに両手をかけてフロントガラス越しに暗い空を見上げた。
「どうした?」
圭はすぐには返事をせずに黙っていたが、しばらくして、
「最近、思いっきり空に向かって歌ってないなあって……」
と呟くように言う。確かにここのところずっと、アルバム発売のキャンペーンが続いていて、しゃべることばかりで歌うことが少なくなっていた。
「ああ、そうだな。実は俺もちょっとつまらないと思ってた」
「じゃあさ、どっか大声出せるところに寄り道なんてどう?」
チラッと助手席を見ると、圭はこれからすごく楽しいことが起こるかもという顔で圭太を覗き込んでいる。
「そうしたいけど、流石にもう遅くないか」とちょっと苦笑いだ。
「ねっ、ちょっとだけ。ラジオが伸びたとか言って。お願い!」
「いや、でも圭のお父さん、なんかいつも怒ってるし……。俺のこと嫌いなんだろうかと思うくらい」
「気のせい、気のせい。それより、えっとねえ、ホンモクってところ行きたい」
本牧? ああ、本牧埠頭か。ベイブリッジのあるとこな。
「じゃあ、本当にちょっとだけだぞ」
やった、と声を出して圭はまた空を見上げた。
もう深夜になろうかという時間にも関わらず、埠頭にはポツリポツリと間隔を置いて車が止まっている。ほとんどが大方デート中なのだろうと想像はできる。
圭太は人目につかないようにそんな車と離れた街灯のない場所へ車を停車させた。一応世間から顔を知られるようになり、こんなことにも気を使うようになった。きっと圭もこんな息苦しい毎日に溜息をついているのかもしれない。
躊躇いもせず圭がドアを開けて外に出たので、圭太も仕方なく外に出ると「うっ、寒い」と思わず声が漏れた。冷たい十一月の風が頬に突き刺さるようだ。
圭がそのまま岸壁に向かって走って行くので、圭太は周りを気にしながら離れないように後ろをついて行く。歩く度に吐きだされる息が白い。
「なあ、本牧に何かあるのか」
そう言えば、圭はベイブリッジに行きたいとは言わなかった。岸壁の端に立った圭は顔だけくるっと振り向くと、
「ニューヨークにいた時から、ずっとここに来たかったの」
と言い、また海に向かうと辺りを気にせずに歌い出した。
本牧辺りのサムの店も——
やけに横浜のネオンが似合うような渋いブルースだった。圭の隣に立って、圭太は黙って聞いていた。いつもよりハスキーがかった圭の声。
「誰の曲だ?」ワンコーラス歌い終わるのを待って聞く。
「レイニーウッドよ。本牧綺談って曲なの」
——レイニーウッド? へえ、柳ジョージさんか。
「雨に泣いている、とかなら聞いたことあるけど、今の歌は初めてだ。かっこいい曲だな。今度ちゃんと聴いてみよう」
それにしても、この子はどんな音楽を聴いて育てば、しかもアメリカ育ちのはずなのに、なぜこんな俺も知らない曲を知ってるんだ。まだやっと十七になろうかってぐらいなのに——
圭太はその取り合わせが妙におかしくて笑い出しそうだった。
「雨に泣いている、Weeping in the Rainね。日本語にちゃんと訳すと、本当は『雨の中で泣いてる』だけど」
圭は「知らなかったでしょ」と言うような「したり顔」ですまして笑い、そして「雨に泣いている」を歌い出した。
アカペラじゃもったいない。俺がクラプトンよりギターを泣かせてみせるのに——
暗闇からパチパチと数人の拍手が聞こえた。音のする方に振り向くと、いつの間にか何組かのカップルが少し離れたところで圭の歌を聴いていたらしい。
「あの、まさかとは思うけど、もしかしてOJガールの……」
その中の一人が恐る恐る聞いてきた。街灯の少ない場所なので、顔ははっきり見えないが、まだ若いカップルみたいだ。
「ああ——、はい。まあ」圭太が曖昧に返事をする。
「うわあ、マジっすか。俺、ファンなんです!」そう言いながら、彼が近寄ってきた。「あの、あ、握手、いいっすか」
彼は右手を着ている服で拭いて、差し出してきた。圭と圭太は顔を見合わせ、頷くと、圭から彼と握手をした。
「こんなとこで会えるなんて、夢みたいです。新しいアルバム、もう予約してるんですよ」彼はそう言って、握手した右手をしげしげと眺め、「俺、もう手が洗えない」と呟いた。
それからそこにいたカップルもみんな近寄ってきて、スマホやシャツにサインをして、ようやく二人は帰路についた。
「まあ、色々しんどいけど、もう少し頑張ろうか」
圭太がそう言うと、「うん」と圭も笑った。少しはストレス発散できただろうか。
圭の家に着き門の前で圭を下ろす。入れ替わりに恵を連れて帰ろうと圭太も車から降りると、圭が「今日はありがとう。おやすみ」と言い圭太にハグをした。「おやすみ。また明日な」そう言って圭太がふと上を見ると、二階から圭司——圭の父親——がすごい顔をして睨んでいた。やっべえ——、いや、何もしてないっすから。慌てて言い訳を呟いた。
入れ替わりで酔っ払いの恵が玄関から出てきた。一応OJガールのマネージャーを名乗るくせに、今日などは自分に全てお任せなのが、どうも納得いかない圭太であった。
これを電車を使っていたら、と思うとゾッとする。車を買ってよかったな。そんなことを考えながら圭太はハンドルを握っていた。
突然、隣で圭がムクッと体を起こすと前屈みにダッシュボードに両手をかけてフロントガラス越しに暗い空を見上げた。
「どうした?」
圭はすぐには返事をせずに黙っていたが、しばらくして、
「最近、思いっきり空に向かって歌ってないなあって……」
と呟くように言う。確かにここのところずっと、アルバム発売のキャンペーンが続いていて、しゃべることばかりで歌うことが少なくなっていた。
「ああ、そうだな。実は俺もちょっとつまらないと思ってた」
「じゃあさ、どっか大声出せるところに寄り道なんてどう?」
チラッと助手席を見ると、圭はこれからすごく楽しいことが起こるかもという顔で圭太を覗き込んでいる。
「そうしたいけど、流石にもう遅くないか」とちょっと苦笑いだ。
「ねっ、ちょっとだけ。ラジオが伸びたとか言って。お願い!」
「いや、でも圭のお父さん、なんかいつも怒ってるし……。俺のこと嫌いなんだろうかと思うくらい」
「気のせい、気のせい。それより、えっとねえ、ホンモクってところ行きたい」
本牧? ああ、本牧埠頭か。ベイブリッジのあるとこな。
「じゃあ、本当にちょっとだけだぞ」
やった、と声を出して圭はまた空を見上げた。
もう深夜になろうかという時間にも関わらず、埠頭にはポツリポツリと間隔を置いて車が止まっている。ほとんどが大方デート中なのだろうと想像はできる。
圭太は人目につかないようにそんな車と離れた街灯のない場所へ車を停車させた。一応世間から顔を知られるようになり、こんなことにも気を使うようになった。きっと圭もこんな息苦しい毎日に溜息をついているのかもしれない。
躊躇いもせず圭がドアを開けて外に出たので、圭太も仕方なく外に出ると「うっ、寒い」と思わず声が漏れた。冷たい十一月の風が頬に突き刺さるようだ。
圭がそのまま岸壁に向かって走って行くので、圭太は周りを気にしながら離れないように後ろをついて行く。歩く度に吐きだされる息が白い。
「なあ、本牧に何かあるのか」
そう言えば、圭はベイブリッジに行きたいとは言わなかった。岸壁の端に立った圭は顔だけくるっと振り向くと、
「ニューヨークにいた時から、ずっとここに来たかったの」
と言い、また海に向かうと辺りを気にせずに歌い出した。
本牧辺りのサムの店も——
やけに横浜のネオンが似合うような渋いブルースだった。圭の隣に立って、圭太は黙って聞いていた。いつもよりハスキーがかった圭の声。
「誰の曲だ?」ワンコーラス歌い終わるのを待って聞く。
「レイニーウッドよ。本牧綺談って曲なの」
——レイニーウッド? へえ、柳ジョージさんか。
「雨に泣いている、とかなら聞いたことあるけど、今の歌は初めてだ。かっこいい曲だな。今度ちゃんと聴いてみよう」
それにしても、この子はどんな音楽を聴いて育てば、しかもアメリカ育ちのはずなのに、なぜこんな俺も知らない曲を知ってるんだ。まだやっと十七になろうかってぐらいなのに——
圭太はその取り合わせが妙におかしくて笑い出しそうだった。
「雨に泣いている、Weeping in the Rainね。日本語にちゃんと訳すと、本当は『雨の中で泣いてる』だけど」
圭は「知らなかったでしょ」と言うような「したり顔」ですまして笑い、そして「雨に泣いている」を歌い出した。
アカペラじゃもったいない。俺がクラプトンよりギターを泣かせてみせるのに——
暗闇からパチパチと数人の拍手が聞こえた。音のする方に振り向くと、いつの間にか何組かのカップルが少し離れたところで圭の歌を聴いていたらしい。
「あの、まさかとは思うけど、もしかしてOJガールの……」
その中の一人が恐る恐る聞いてきた。街灯の少ない場所なので、顔ははっきり見えないが、まだ若いカップルみたいだ。
「ああ——、はい。まあ」圭太が曖昧に返事をする。
「うわあ、マジっすか。俺、ファンなんです!」そう言いながら、彼が近寄ってきた。「あの、あ、握手、いいっすか」
彼は右手を着ている服で拭いて、差し出してきた。圭と圭太は顔を見合わせ、頷くと、圭から彼と握手をした。
「こんなとこで会えるなんて、夢みたいです。新しいアルバム、もう予約してるんですよ」彼はそう言って、握手した右手をしげしげと眺め、「俺、もう手が洗えない」と呟いた。
それからそこにいたカップルもみんな近寄ってきて、スマホやシャツにサインをして、ようやく二人は帰路についた。
「まあ、色々しんどいけど、もう少し頑張ろうか」
圭太がそう言うと、「うん」と圭も笑った。少しはストレス発散できただろうか。
圭の家に着き門の前で圭を下ろす。入れ替わりに恵を連れて帰ろうと圭太も車から降りると、圭が「今日はありがとう。おやすみ」と言い圭太にハグをした。「おやすみ。また明日な」そう言って圭太がふと上を見ると、二階から圭司——圭の父親——がすごい顔をして睨んでいた。やっべえ——、いや、何もしてないっすから。慌てて言い訳を呟いた。
入れ替わりで酔っ払いの恵が玄関から出てきた。一応OJガールのマネージャーを名乗るくせに、今日などは自分に全てお任せなのが、どうも納得いかない圭太であった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる