シング 神さまの指先

笑里

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ピース

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「帰ろうとは何度も促したんです。でも、なかなか車に乗ってくれなくて。歌い終わるのを待って腕を取ろうとしただけど、なんか何度も上手くスルッとかわされたというか」
 ——すみません。こんな時間まで。
 圭太はボソボソと申し訳なさそうに何回か頭を下げた。
 だが圭司の心は騒めきが収まらなかった。圭がジョン・レノンを、しかも「マザー」を歌ったなんて。
 俺の勘違いだ。やっぱりあの子の気持ちは全然落ち着いてなかったんだ。まだ話すべきじゃなかったのに、紗英のお母さんの十七年間の苦しみを少しでも和らげてあげたかったばかりに——
 圭司はひたすら自分に、浅はかな自分に怒った。

「あの……」
 気がつくと、真剣な顔で圭太がじっと見ていた。
「ああ、ごめん。送ってくれてありがとう。気をつけて帰りなよ」
 動揺を悟られないように水を向けたが、圭太は帰ろうとはしなかった。
「あの——」食いつくような顔。「聞かせてもらうわけにはいきませんか。圭がマザーを歌いたかった理由を」
 本当の両親がいないことは聞いているんで、なんかいつもと違ってて——
 圭太はそう付け加えた。

 この圭太という男も圭の小さな感情の変化に気がついていたのか。
「君は圭の何を知ってる? そんな深い付き合いなのか」
 ついきつい口調で探りたくなる。——わかってるよ。みっともねえな、俺。
 圭太はしばらくポカンとして、やがてゆっくりと口を開いた。
「あの、それってどういう……」
「君は何歳だ? まだ十六歳の圭と付き合ってんのか」
 昨日から自分がおかしい。最低だ——。
 だが、そんな圭司に圭太は意外な答えを返した。
「圭は、僕の希望——です」
「希望?」
「彼女と知り合う前の僕は、デビューするという夢は叶わなかったけど、好きな音楽の世界で生きていければいいと、これからもずっとスタジオミュージシャンとして音楽と関わっていければいいと——」
 真っ直ぐに、目を逸らさずに白い息を吐いた。だいぶ冷えてきたようだ。
「だけど、あの子と出会って、やっぱり自分も作る側にいたいと、そう思ったんです。夢を諦めようとしていた僕は、まだあの時たった十五歳の子にガツンと頭を殴られたようだった。僕はあの子に恩返しがしたい。あの子の音楽をもっと、もっと高いところへ連れていくことが、僕のギターならできる自信があるんです」
 そこまで一気に圭太がしゃべった。そして少し下を向いて笑いながら言った。
「俺たちって、そんなふうに——ははは、今の今まで、全然そんなこと思いもしてなかった」
 圭司は返事ができなかった。圭太はひとしきり笑うと、ぴょこんと頭を下げ、
「すみません、笑っちまって。でもそうですよね、考えてみれば、普通そりゃそう思いますよね」という。「でも僕らはなんというか——、 ジグソーパズルのピースなんですよ」
「ピース?」
「ええ、お互いの音楽というジグソーに欠かせないピース。五線譜には必ずお玉杓子が必要なように、圭の歌と僕のギターはシンクロしてるんですよ」そこで圭太はニヤリと笑った。「それに僕はもうすぐ三十になるんです。まだ十七歳の子と恋愛などしてる暇は今のところないから安心してください」
 圭司は自分が恥ずかしかった。親バカだな。どうやら心配し過ぎたようだ——
「明日は何時から仕事だ?」
「十二時前に渋谷に行く予定ですけど」
「ちょっと飲みに行こう。知り合いの店が近くにあるんだ」
「自分、車っすよ」
「うちに泊まってけよ。それとも何か? 俺とは飲めないってのか?」
 ——昭和流の最低親父だな。一人でにやけてしまう。
「わかりましたよ。だけど明日の朝、車に乗れる程度で解放してくださいよ」
 明日のことなんて考えながら男が酒が飲めるかよ——

 昔馴染みのバーのカウンターに座り、圭司は圭との出会いから、今日までのことを圭太に話した。ただし父親のことだけは伏せた。圭太は注がれたビールには手を付けず、圭司の話を黙って聞いていたが、全部話が終わると、そこでやっと一杯ビールを飲み干して言った。
「今日、埠頭で歌ったマザーを聞かせたかったですよ。俺、心が震えたんすよ、マジで」
 わかるような気がする。きっと横浜のネオンの夜空を漂うような——
「それにしても、どこでマザーという曲を覚えたんだろうな」
 水割りを舐めながらぽつりと圭司がいう。
「僕もあの時初めて圭が歌うのを聞いたんで。でも、昔から知ってたみたいでしたよ」と圭太。「で、あの曲には父親も出てくるじゃないですか。圭の父親のことはわからないんですか」
 さて、どう答えよう。
「いや、はっきりとは圭は知らないが、多分、圭が世界中で一番嫌いな男になってんじゃないかな。だから、それはできるだけ触れないようにしてくれ」
 圭太は何回か小さく頷いて、「わかりました」とだけ答えた。
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