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4話 一炊の夢
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「話を整理すると君は家族も職も失い希望を失っていると。そういう事で合っているかい?」
「は、はい。そうなります......かね?」
先ほどまで自分が言っていた事なのだが、いざ他人から発言をまとめられるとあまりに卑屈すぎて笑えない。
「そうかい。それなら話は簡単だ」
「......え?」
「ウチの会社で働く気はないかい?」
「............」
一瞬、円佳の父、円也の発言の意味が分からずポカンとした男だったが遅れて言葉の意味を理解する。
心が揺らぐ。月松自動車といえば言わずとしれた大企業。男が元々勤めていた会社とは比べ物にならないほどの規模の会社だ。だが客観的に見れば明らかなコネ入社なのも事実。これではあの木場と大して変わらない。自らの信念を捨てて益を手にしたとして、その後の人生を誇りを持って生きられるか。
しかし男よりも遥かに人生経験豊富な円也はニヤリと口元を緩める。
「なに、別に娘を助けてくれたお礼として君を誘っている訳ではない。いや、娘を助けてくれた事には勿論深く感謝しているのだがね」
しかし、と前置きをしてから円佳の父は更に続ける。
「別にお情けで言っている訳ではない。無論、こちらにも打算あっての行動だ」
「打算......ですか」
「そう、打算だ。私は君の事を以前から知っている」
「ねえお父様」
「ん? なんだい?」
「鹿治劉星って?」
「え? まだ自己紹介とかしてなかったの?」
「そういえば......まだしてませんでしたね」
これまで長々と話してきたのに、思えば円佳は目の前の男の名前すら知らない状態だった。
「じゃあ私から彼の自己紹介をしておこうか」
「お父様がしたらそれもう自己紹介じゃないと思う」
──────
円佳の父、月松円也は部下からあがってきた報告を受けていた。自動車を作る円也の会社だが、自動車を作るためにはガソリンから効率よくエネルギーを取り出し動かすためのエンジン一つとっても多くの部品を必要とする。必然的に自動車というものは一つの会社だけで作る事ができるものではなく他の会社への発注を必要とする。すなわち裾野が広いのだ。
報告とは、その部品を作るための契約に関連しての事である。
「もう契約がまとまったのか?」
まだ商談を始めてから少ししか経っていない。あまりの仕事の早さに円也は一瞬悪いものを想像してしまう。
「はい。向こうの担当者はとても話が早い方で。こちらがその文書にございます」
が、その想像は良い意味で裏切られる。円也は部下から契約合意の文書を受け取って中身に目を通してみるが──さっと見た限り、問題は感じない。
「(ここまで早く交渉を終えるためには......会社の現状と数字を正しく把握し、また交渉力に長けていなければならない。それなら......)」
「あの件についてはどうだった?」
契約が無事結べた事を確認した上で、円也は最も気になる事を確かめる。
「はい。向こう側から触れられました。そしてこちらに対して著しく不利益になるという理由で向こうからその部分については破棄の提案を受けました」
「そうか......!」
円也の言った「あの件」とは、円也達が他社と契約する際にその相手方を見極めるために仕掛ける罠を指す。こちらから提案する内容に、敢えてこちらに著しく不利益な項目を盛り込んでそれに対する反応を確かめるのだ。
円也は他者と契約する際、何より信頼関係を大切にしている。一方だけが利益を享受する上下関係によるものではなく対等なパートナーでなければならないと考えている。が、それは綺麗事からくる思想ではなく、人の悪感情の力を何より恐れているからだ。
パートナーとはお互いに信用しなければ成り立たない。互いの腹の中をひたすら探り合う関係に未来などない。相手に対して著しく不合理な項目を敢えて見逃し、そして気づかないように策謀を用いて関心を逸らすなどの動きが見られれば即座に契約の話はなかった事にする。それが円也の仕掛けた罠だ。
「(積極的に目先の利を取らずとも話題に出さず、あくまで此方の判断に任せ、消極的にあわよくばと狙う者が多い中、敢えて話に持ち出してくる者が一体どれだけいるだろうか)」
それはまさしく円也が待っていた理想の取引相手だ。
「少し興味を持った。次回の最終打ち合わせ。私が直々に向かおう」
この目ではっきりとその男を見極めたくなる衝動に円也は駆られる。だがその願いが叶う事はなかった。
「初めまして今回担当させて頂く木場と申します」
既に鹿治は会社を解雇されており、後任の木場がその担当となっていたからだ。
──────
「それじゃあ、今日から頼むよ」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
結局鹿治は円也の提案を受け入れた。職場を失った状態で文句の付け所もない会社からのスカウト。しかも自分の能力を買ってくれてからという経緯まである。大企業の円也の弁舌力による部分も無論あったのだろうが、この会社のために全力で頑張りたいという気持ちにいつの間にかなっていた。
「君には調達部門に入ってもらう。仕事は......彼に聞いて欲しい。面識は既にあるね?」
「はい。よろしくお願いします」
交渉力を買われた鹿治は他企業との部品交渉を担う調達部に配属された。所謂かつてとは逆の立場。円也に紹介された上司とは──かつての取引相手の担当者だ。
「流石。交渉に関しては特に言う事はありませんね」
新入社員ではあるが新卒社員ではない鹿治は一から研修を仕込む必要がないほどに即戦力の力を持っていた。企業固有の報告形態等を学べば明日にでも業務に加われるほどに。
ただしこれまでしてきた事と、これからしていく事には──致命的に異なる点が一つだけある。
「我々は契約を受け入れる側ではなく契約を持ちかける側です」
特段上下関係がある訳ではない。ただ立場が逆になる事で業務の性質が大きく異なる部分がある。持ちかけられた契約を精査し、最終的に受け入れるかどうかを判断すれば良かったこれまでと違ってこれからは契約を作らなければならない。
「契約に不備があった場合、後々に甚大なる損害をもたらす場合があリます。そしてその不備は往々にして相手方が指摘する事はありません」
敢えて不利な状況を自ずから申告する会社などない。それこそかつての鹿治くらいなものだろう。故に、契約を持ちかける側は完璧で究極の、穴のない契約を作成しなければならない。この点に関しては鹿治は素人同然であり業務を執行していくために新たに学ぶ必要がある。
「一通り作ってみました。如何でしょう?」
一通りの説明を受けた後、鹿治は試しに契約書を作ってみる。雛形がある程度定められているとはいえ初めて作ったにしてみれば外形は整っているように見える。契約書を作る事は初めてであるが契約書自体は何度も見てきたからであろう。
が、それはあくまで外形のみ。男が作った契約書には重大な欠陥があった。
「契約の期間が明記されていません。一応期間のない契約というのも民法では認められていますしそれに対する対処も定められてはいますが現実の実務では異なります。期間が定められていない契約は当事者双方の行動を縛る事なく実務的に無効な契約だと考えた方が妥当です」
「契約の期間......か。分かりました」
上司のアドバイスを元に男は自らの契約書を作り直し──今度は合格判定を貰う事ができた。
──────
「鹿治さん、これ頼めますか?」
「どれどれ......。分かった。後は任せてくれ」
「よろしくお願いします!」
鹿治が転職してから数年が経った。彼は地道に仕事を積み重ね昇進、調達部の部長にまで上り詰めた。直属の部下もでき、数年前に抱いていた悩みなど無かったかのように生き生きとしていた。
部下から預かった仕事に目を通す。それは明後日行われる調達先との交渉だった。相手は中々の頑固者であり交渉を円滑に進める事ができていない。だとしても作るモノはいいため調達部の事情だけで簡単に切る事はできない。部長たる鹿治の元にはこういった厄介な案件が割り振られる。
「(だとしても明後日で良かった。明日や......それこそ今日だったらどうなっていたか......)」
そう考えていると時計の針の進みに気がつく。まだ出社してきてから数時間しか経っていないがもう行かなければならない。
「部長、頑張って下さいね」
「......うるせ」
事情を知る部下から揶揄いが込められた野次が飛ぶ。そんな野次の中、鹿治は会社を出てタクシーに乗り込む。
「藤ノ宮高校まで」
男の言葉を受けてタクシーは走り始める。
藤ノ宮高校。そこはこの辺りの地区においての最高峰の偏差値を誇る私立高校で、所謂お嬢様学校の側面も併せ持つ学校だ。
鹿治が合格だけした高校も藤ノ宮高校と同等の偏差値で、この地域では双璧を成しているが──公立と私立の差と言うべきか、お嬢様学校か否かの違いと言うべきか、授業料から建物の綺麗さといったところまで偏差値以外の共通点を見出す事は難しい。
まだ時計の針が頂点を向くより少し前、時間に余裕を持ってタクシーに乗り込んだ鹿治は午後に半休を使い、その高校に向かっていた。今日は大事な式典が控えていたから。
──今日は卒業式だ。彼の恋人である円佳の通う高校の。尤も、恋人と言っても「仮の」という枕詞が必要ではあるが。
「好きです、私と付き合って下さい」
それはまだ鹿治が部長に昇進するより前の事。毎日、円佳の学校が終わった後の放課後、二人は彼の病室で、或いはリハビリ室で時を共に過ごしていた。数える程しか年も違う二人だったが既に社会に出ている彼の話は円佳にとって同学年のどの者よりも刺激的で、一方の鹿治も自分が通う事ができなかった高校の話は興味がそそられるものであった。
そして長いリハビリ期間を終えて円佳の胸に宿った感情は──恋心だ。
元々自分の命を救ってくれた存在。そしてその負い目すら肯定してくれた存在。放課後の一時がいつしか一日で最も楽しみな時間に変わるのにそう長い時を必要としなかった。
一方の鹿治も円佳に対して熱い想いを抱き始めていた。彼にとって円佳は、どん底から救い出してくれた存在。これが初恋という訳でも無かったがこんなに心が揺れ動かされたのは初めてだった。だが鹿治は成人したばかりとはいえ円佳はまだ高校生。社会的風聞が許さない。加えて円佳の父は大企業のトップ。一労働者でしかない自分に許されるのか? と言った現実思考もあった。故に鹿治は猶予を願い出ていたのだ。
「円佳が高校を卒業して、その時でもまだ気持ちが変わっていなかったら......その時、俺から伝えさせてくれ」
それから男は、少しでも円佳に釣り合う者になろうと日夜身を擦り減らしながら働いた結果──部長にまで昇進するに至ったのだ。
──────
桜散る卒業式。卒業生の多くが級友や先生達と最後の別れを楽しむ中、一人の少女は周囲の喧騒から離れた場所にいた。周囲の喧騒が微かに耳に届くほど離れた場所で目を閉じ、想い人を待っていた。
恵まれた出自の影響か生まれた瞬間から枷を嵌められていた少女。しかし周囲より恵まれている事によってその枷を理解してくれる人はほぼいない状況。そんな中で彼女を枷から解き放ってくれた存在を。
「ごめん。少し遅れた。......待った?」
「......待ったよ。二年間」
「......だよな」
今日を以て円佳は高校を卒業する。社会的なしがらみの一つが解き放たれる。
「2年前に言われた言葉......あの時は返せなかったけど──凄く嬉しかった」
「うん」
「それまでの俺の人生は灰色だったから。君のおかげで、君に釣り合う人間になるために努力した結果──俺の世界に彩りが生まれた。君が俺の世界に色を与えてくれた」
男はギュッと拳を強く握ってから言葉を紡ぐ。
「俺の全てを君に捧げる。だから......これから一生、俺を照らし続けてくれないか?」
強い風が吹く。校庭に咲いていた桜の花びらが風に釣られて舞う。その風に耐えるように手で目を覆った男が次に見た光景は──
「こちらこそ。これからもずっと、あなたの側に居させて下さい」
女神のはち切れん馬かりの笑顔だった。
──────
P.S.
ここまで読んで頂きありがとうございます。
なんか完結みたいな雰囲気ですが普通に続きます。
「は、はい。そうなります......かね?」
先ほどまで自分が言っていた事なのだが、いざ他人から発言をまとめられるとあまりに卑屈すぎて笑えない。
「そうかい。それなら話は簡単だ」
「......え?」
「ウチの会社で働く気はないかい?」
「............」
一瞬、円佳の父、円也の発言の意味が分からずポカンとした男だったが遅れて言葉の意味を理解する。
心が揺らぐ。月松自動車といえば言わずとしれた大企業。男が元々勤めていた会社とは比べ物にならないほどの規模の会社だ。だが客観的に見れば明らかなコネ入社なのも事実。これではあの木場と大して変わらない。自らの信念を捨てて益を手にしたとして、その後の人生を誇りを持って生きられるか。
しかし男よりも遥かに人生経験豊富な円也はニヤリと口元を緩める。
「なに、別に娘を助けてくれたお礼として君を誘っている訳ではない。いや、娘を助けてくれた事には勿論深く感謝しているのだがね」
しかし、と前置きをしてから円佳の父は更に続ける。
「別にお情けで言っている訳ではない。無論、こちらにも打算あっての行動だ」
「打算......ですか」
「そう、打算だ。私は君の事を以前から知っている」
「ねえお父様」
「ん? なんだい?」
「鹿治劉星って?」
「え? まだ自己紹介とかしてなかったの?」
「そういえば......まだしてませんでしたね」
これまで長々と話してきたのに、思えば円佳は目の前の男の名前すら知らない状態だった。
「じゃあ私から彼の自己紹介をしておこうか」
「お父様がしたらそれもう自己紹介じゃないと思う」
──────
円佳の父、月松円也は部下からあがってきた報告を受けていた。自動車を作る円也の会社だが、自動車を作るためにはガソリンから効率よくエネルギーを取り出し動かすためのエンジン一つとっても多くの部品を必要とする。必然的に自動車というものは一つの会社だけで作る事ができるものではなく他の会社への発注を必要とする。すなわち裾野が広いのだ。
報告とは、その部品を作るための契約に関連しての事である。
「もう契約がまとまったのか?」
まだ商談を始めてから少ししか経っていない。あまりの仕事の早さに円也は一瞬悪いものを想像してしまう。
「はい。向こうの担当者はとても話が早い方で。こちらがその文書にございます」
が、その想像は良い意味で裏切られる。円也は部下から契約合意の文書を受け取って中身に目を通してみるが──さっと見た限り、問題は感じない。
「(ここまで早く交渉を終えるためには......会社の現状と数字を正しく把握し、また交渉力に長けていなければならない。それなら......)」
「あの件についてはどうだった?」
契約が無事結べた事を確認した上で、円也は最も気になる事を確かめる。
「はい。向こう側から触れられました。そしてこちらに対して著しく不利益になるという理由で向こうからその部分については破棄の提案を受けました」
「そうか......!」
円也の言った「あの件」とは、円也達が他社と契約する際にその相手方を見極めるために仕掛ける罠を指す。こちらから提案する内容に、敢えてこちらに著しく不利益な項目を盛り込んでそれに対する反応を確かめるのだ。
円也は他者と契約する際、何より信頼関係を大切にしている。一方だけが利益を享受する上下関係によるものではなく対等なパートナーでなければならないと考えている。が、それは綺麗事からくる思想ではなく、人の悪感情の力を何より恐れているからだ。
パートナーとはお互いに信用しなければ成り立たない。互いの腹の中をひたすら探り合う関係に未来などない。相手に対して著しく不合理な項目を敢えて見逃し、そして気づかないように策謀を用いて関心を逸らすなどの動きが見られれば即座に契約の話はなかった事にする。それが円也の仕掛けた罠だ。
「(積極的に目先の利を取らずとも話題に出さず、あくまで此方の判断に任せ、消極的にあわよくばと狙う者が多い中、敢えて話に持ち出してくる者が一体どれだけいるだろうか)」
それはまさしく円也が待っていた理想の取引相手だ。
「少し興味を持った。次回の最終打ち合わせ。私が直々に向かおう」
この目ではっきりとその男を見極めたくなる衝動に円也は駆られる。だがその願いが叶う事はなかった。
「初めまして今回担当させて頂く木場と申します」
既に鹿治は会社を解雇されており、後任の木場がその担当となっていたからだ。
──────
「それじゃあ、今日から頼むよ」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
結局鹿治は円也の提案を受け入れた。職場を失った状態で文句の付け所もない会社からのスカウト。しかも自分の能力を買ってくれてからという経緯まである。大企業の円也の弁舌力による部分も無論あったのだろうが、この会社のために全力で頑張りたいという気持ちにいつの間にかなっていた。
「君には調達部門に入ってもらう。仕事は......彼に聞いて欲しい。面識は既にあるね?」
「はい。よろしくお願いします」
交渉力を買われた鹿治は他企業との部品交渉を担う調達部に配属された。所謂かつてとは逆の立場。円也に紹介された上司とは──かつての取引相手の担当者だ。
「流石。交渉に関しては特に言う事はありませんね」
新入社員ではあるが新卒社員ではない鹿治は一から研修を仕込む必要がないほどに即戦力の力を持っていた。企業固有の報告形態等を学べば明日にでも業務に加われるほどに。
ただしこれまでしてきた事と、これからしていく事には──致命的に異なる点が一つだけある。
「我々は契約を受け入れる側ではなく契約を持ちかける側です」
特段上下関係がある訳ではない。ただ立場が逆になる事で業務の性質が大きく異なる部分がある。持ちかけられた契約を精査し、最終的に受け入れるかどうかを判断すれば良かったこれまでと違ってこれからは契約を作らなければならない。
「契約に不備があった場合、後々に甚大なる損害をもたらす場合があリます。そしてその不備は往々にして相手方が指摘する事はありません」
敢えて不利な状況を自ずから申告する会社などない。それこそかつての鹿治くらいなものだろう。故に、契約を持ちかける側は完璧で究極の、穴のない契約を作成しなければならない。この点に関しては鹿治は素人同然であり業務を執行していくために新たに学ぶ必要がある。
「一通り作ってみました。如何でしょう?」
一通りの説明を受けた後、鹿治は試しに契約書を作ってみる。雛形がある程度定められているとはいえ初めて作ったにしてみれば外形は整っているように見える。契約書を作る事は初めてであるが契約書自体は何度も見てきたからであろう。
が、それはあくまで外形のみ。男が作った契約書には重大な欠陥があった。
「契約の期間が明記されていません。一応期間のない契約というのも民法では認められていますしそれに対する対処も定められてはいますが現実の実務では異なります。期間が定められていない契約は当事者双方の行動を縛る事なく実務的に無効な契約だと考えた方が妥当です」
「契約の期間......か。分かりました」
上司のアドバイスを元に男は自らの契約書を作り直し──今度は合格判定を貰う事ができた。
──────
「鹿治さん、これ頼めますか?」
「どれどれ......。分かった。後は任せてくれ」
「よろしくお願いします!」
鹿治が転職してから数年が経った。彼は地道に仕事を積み重ね昇進、調達部の部長にまで上り詰めた。直属の部下もでき、数年前に抱いていた悩みなど無かったかのように生き生きとしていた。
部下から預かった仕事に目を通す。それは明後日行われる調達先との交渉だった。相手は中々の頑固者であり交渉を円滑に進める事ができていない。だとしても作るモノはいいため調達部の事情だけで簡単に切る事はできない。部長たる鹿治の元にはこういった厄介な案件が割り振られる。
「(だとしても明後日で良かった。明日や......それこそ今日だったらどうなっていたか......)」
そう考えていると時計の針の進みに気がつく。まだ出社してきてから数時間しか経っていないがもう行かなければならない。
「部長、頑張って下さいね」
「......うるせ」
事情を知る部下から揶揄いが込められた野次が飛ぶ。そんな野次の中、鹿治は会社を出てタクシーに乗り込む。
「藤ノ宮高校まで」
男の言葉を受けてタクシーは走り始める。
藤ノ宮高校。そこはこの辺りの地区においての最高峰の偏差値を誇る私立高校で、所謂お嬢様学校の側面も併せ持つ学校だ。
鹿治が合格だけした高校も藤ノ宮高校と同等の偏差値で、この地域では双璧を成しているが──公立と私立の差と言うべきか、お嬢様学校か否かの違いと言うべきか、授業料から建物の綺麗さといったところまで偏差値以外の共通点を見出す事は難しい。
まだ時計の針が頂点を向くより少し前、時間に余裕を持ってタクシーに乗り込んだ鹿治は午後に半休を使い、その高校に向かっていた。今日は大事な式典が控えていたから。
──今日は卒業式だ。彼の恋人である円佳の通う高校の。尤も、恋人と言っても「仮の」という枕詞が必要ではあるが。
「好きです、私と付き合って下さい」
それはまだ鹿治が部長に昇進するより前の事。毎日、円佳の学校が終わった後の放課後、二人は彼の病室で、或いはリハビリ室で時を共に過ごしていた。数える程しか年も違う二人だったが既に社会に出ている彼の話は円佳にとって同学年のどの者よりも刺激的で、一方の鹿治も自分が通う事ができなかった高校の話は興味がそそられるものであった。
そして長いリハビリ期間を終えて円佳の胸に宿った感情は──恋心だ。
元々自分の命を救ってくれた存在。そしてその負い目すら肯定してくれた存在。放課後の一時がいつしか一日で最も楽しみな時間に変わるのにそう長い時を必要としなかった。
一方の鹿治も円佳に対して熱い想いを抱き始めていた。彼にとって円佳は、どん底から救い出してくれた存在。これが初恋という訳でも無かったがこんなに心が揺れ動かされたのは初めてだった。だが鹿治は成人したばかりとはいえ円佳はまだ高校生。社会的風聞が許さない。加えて円佳の父は大企業のトップ。一労働者でしかない自分に許されるのか? と言った現実思考もあった。故に鹿治は猶予を願い出ていたのだ。
「円佳が高校を卒業して、その時でもまだ気持ちが変わっていなかったら......その時、俺から伝えさせてくれ」
それから男は、少しでも円佳に釣り合う者になろうと日夜身を擦り減らしながら働いた結果──部長にまで昇進するに至ったのだ。
──────
桜散る卒業式。卒業生の多くが級友や先生達と最後の別れを楽しむ中、一人の少女は周囲の喧騒から離れた場所にいた。周囲の喧騒が微かに耳に届くほど離れた場所で目を閉じ、想い人を待っていた。
恵まれた出自の影響か生まれた瞬間から枷を嵌められていた少女。しかし周囲より恵まれている事によってその枷を理解してくれる人はほぼいない状況。そんな中で彼女を枷から解き放ってくれた存在を。
「ごめん。少し遅れた。......待った?」
「......待ったよ。二年間」
「......だよな」
今日を以て円佳は高校を卒業する。社会的なしがらみの一つが解き放たれる。
「2年前に言われた言葉......あの時は返せなかったけど──凄く嬉しかった」
「うん」
「それまでの俺の人生は灰色だったから。君のおかげで、君に釣り合う人間になるために努力した結果──俺の世界に彩りが生まれた。君が俺の世界に色を与えてくれた」
男はギュッと拳を強く握ってから言葉を紡ぐ。
「俺の全てを君に捧げる。だから......これから一生、俺を照らし続けてくれないか?」
強い風が吹く。校庭に咲いていた桜の花びらが風に釣られて舞う。その風に耐えるように手で目を覆った男が次に見た光景は──
「こちらこそ。これからもずっと、あなたの側に居させて下さい」
女神のはち切れん馬かりの笑顔だった。
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なんか完結みたいな雰囲気ですが普通に続きます。
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