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1巻
1-2
2 奥さん、すんっとなる。
朝目覚めた時に、ベッドから抜け出すのが辛くなってくると、冬の始まりを実感する。ピンと張り詰めた、冷たい空気。二度寝しそうになる体を無理やり起こして、背筋を伸ばした。
「とうとう言っちゃったぁあ……っ!」
昨晩の自分の言動を思い返して、思い切り頭を掻きむしった。興奮が薄れ冷静な思考を取り戻した途端、後から後からなんとも言えない感情がやってくる。
昨晩の私はとにかく興奮し過ぎだった。改めて、父の会社や家族のことを考えると、頭を抱えて唸り声を上げてしまう。
彼に思っていることを言ったこと自体は全く後悔していない。彼との間にコミュニケーションは必須であるし、間違ったことを言ったとは思わない。家事をさせてくれない理由を教えてもらえないことに腹を立てているし、暇ぽかーんは嫌だし、無視すんな、返事くらいしろとも心の底から思っている。
そう、やっと言えてよかったのだ。なのに、それと同じくらい湧き上がってくるこの気持ち。これは多分……罪悪感だ。家族に対する、罪悪感。
寝室の壁に掛けられている、なんともスタイリッシュな時計に視線を走らせる。時刻は朝六時。のそのそとベッドから抜け出した。
パジャマを脱ぎ捨て、黒のコットンパンツに足を通す。合わせるのは、襟ぐりが大きめに開いているニットのセーターだ。
気持ちと一緒に下がってしまう肩に手をやりながら洗面所へ向かい、洗濯物を洗濯機の中へ放り込んだ。洗剤と柔軟剤と衣料漂白剤をそれぞれの投入口に流し入れ、こんな時でも浮かぶ喜びと共に、ニヤと唇の端を上げる。
どうして、と聞かれても非常に困るけれど、私は衣類関連の家事、とりわけ洗濯機を稼働させるまでの一連の動作が、めちゃくちゃ好きだ。掃除や料理は大して得意ではないけれど、これだけは胸を張って得意だと言い切れる。全く苦にならない。それだけでなく洗濯物を干すのも、畳むのも、アイロンをかけるのも、もう全部好きだ。
(書類上の)旦那様は私の洗濯技術やアイロン技術を信用していないのか、ワイシャツはすべてクリーニングに出してしまうし、入籍して一ヶ月ほどはパンツも洗わせてくれなかった。
パンツについては恥らっていたのかもしれないとも推察しているので、なんとも言えないところだけれど。私は自分のパンツを堂々と浴室に干していたので、その推察に至るのにもだいぶ時間がかかった。
パンツはパンツでそれ以上でも以下でもない、日々大活躍してくれる下着だ。洗濯機に放り込んでしまえばみな同じなのに、彼の価値観を探るのはパンツひとつとっても難しい。
……頭の中でパンツを連呼しているのは、現実逃避を脳が願っているせいだろうか。もうパンツの話はこのくらいにしておこう。
「あれ……?」
洗面所を出ようとしたところで、見慣れない踏み台があることに気付いた。置かれているのは収納棚の真下だ。ちょうど私が、棚の物を取るのに苦労していた場所である。
まただ、と、淡いピンク色の踏み台を見て目を瞬かせる。これで三つ目になるだろうか。一体、彼はいつどのタイミングで見ていたのだろう。
ぱたぱたと長い廊下を駆けてリビングに顔を出すと、すでにスーツを着込んだ彼が、コーヒーを飲みながらソファで新聞を読んでいた。毎朝の光景だ。
「おはようございます」
いつもなら声をかけても、目線を新聞に落としたまま、小さな声で「ああ」と言うだけ。
けれど今日の彼はご丁寧に新聞を閉じてから顔を上げ、私と目を合わせた。
いつもと違う態度に、心臓が嫌な音を立てる。
しかし彼はそのまま、新聞を膝の上で畳み、どうしてか動きを止めてしまった。
私の顔に、なにかおかしな点があるのだろうか。なんとなくぺたぺた自分の顔に触れて確認していると、(書類上の)旦那様は突然立ち上がった。それはもう驚くべき俊敏さで。それから、いそいそと仕事用のバッグを手に取り、私の横を通り過ぎていく。
その際に、とてもとても小さな声で「おはよう」と言ったのが聞こえたのは、多分、恐らく、空耳ではないと思う。
「お、おはようございます!」
昨日までは「ああ」を連発していた彼が、挨拶を返してくれるだなんて!
一晩たっても、まだ私の訴えを行動に反映させてくれているようだ。驚きに目を見張ってしまう。
「あのっ、洗面所の踏み台ありがとうございました」
足早に玄関へと向かう彼を追いかけながら、彼が新たに用意してくれた踏み台について、お礼を述べた。
悲しいかな、私は背が低いので、洗面所に限らず高い位置にある大抵の収納棚に手が届かない。
そういう時はジャンプしたり、ダイニングの椅子を運び込んで取ったりしているのだが、その姿を見られていたのかもしれない。理由はよくわからないが、彼がいつの間にか用意してくれる踏み台の存在は大変ありがたいのだ。
最初に踏み台を発見したのは、キッチンだった。次がシューズクローゼットで、今回が洗面所。
正直、ひとつを使い回せばいいよねと思ったりもするけれど、ありがたいことに変わりはない。
すっかり身支度を整えた彼が、革靴に足を入れる。
「あれ? 燈哉さん、待って下さい」
無言でドアノブを掴んだ彼を慌てて引き止めた。
近くで見た彼の顔色が異常すぎる。真っ青を通り越した土色だ。
「体調が悪いんじゃありませんか?」
私が割と強く引っ張ったせいで、よろけながら再度振り向いた彼の顔色はやはり優れない。優れないというか、おかしい。いくら「書類上の」とはいえ、様子がおかしければ私だって妻なのだから心配になる。
近付いて顔を覗き込むと、土色だった彼の顔色が今度は真っ赤になった。
「もしかして熱があるんじゃ……ちょっと、失礼します」
体温の確認をするために、彼のおでこに触れる。短めの前髪が手の甲に当たって、少しくすぐったい。
私が触れた途端に――と言ったら大袈裟かもしれないが――彼のおでこが急にしっとりした。人間こんなにも瞬間的に汗をかけるんだな、と驚いてしまうほどだ。
「ご、ごめんなさい、大丈夫ですか?」
不用意に触れるべきじゃなかったのかも。慌てて彼の額から手を離し、タオルを取りに急ぎ足で洗面所へ向かう。
玄関に戻って(書類上の)旦那様に手渡すと、まるで壊れたロボットのような動きで汗を拭い始めた。
「た、体調は、悪くない……」
小さく首を横に振る彼を見て、仕事に行くために誤魔化しているのだと気付く。そういえば父もそうだったな。うちの場合は、熱を出してもなかなか仕事を休まない父に、母が度々タックルをして通勤を阻止していたっけ。
実家の両親のように、気心の知れている間柄ならタックルしてでも熱を測りたいところだ。しかし今の関係性では、とてもじゃないけど無理だろう。本格的なDV妻になってしまう。これからどんどん寒くなるし、こじらせないといいけれど。
「いってらっしゃい。無理しないで下さいね」
精一杯の想いを込めてそう告げると、目の前に突然手が伸びてきた。彼の左手だ。
驚いて頭を引くと、その手の動きがぴたりと止まる。綺麗な形の唇が薄く開き、音にならない声でなにかを呟いた。残念ながら全く聞こえなかったけれど。
「……いってきます」
私が目を白黒させているうちに、(書類上の)旦那様はそう言って家を出て行った。
――なんですか、あれは。あれは、なんなんですか。
「いってきます」の前にも、なにかを発言したようだけど、なんだったんだろう。
もっと頑張って喉を使ってくれれば、聞き取れたのに……!
私はため息を吐き出しながら、自分の朝食を作るべくキッチンへ向かった。
そしてその日の夕方。いつもよりかなり早い時間に、彼から帰宅を知らせるメールが届いた。
慌てて食事の支度をし、掃除をしようとお風呂場に駆け込んだところで、洗剤が切れていることに気付く。
買いに行こう、そう思ってすぐに、万が一彼より帰宅が遅くなったらまずいと思い直し、メッセージを送った。お互い用事がある時に送り合うだけで返信はないから、どうせ今日も来ないだろうと思いながら。
そして、スマホと財布を手に家を出ようとしたタイミングで、メールの受信を知らせる陽気な音楽が鳴り響く。
なんと、彼から返事がきたのだ。届いたメッセージはたった一言。
『もう着くから』
「もう着くから、一体なんだと言うのだね……」
私はスマホの画面を見つめながら無表情で呟いた。鼻白んで、全体的にすんっとなった。
〝もう着くから〟のあとにくると予想できる一般的な言葉は、〝行くな〟だろうか。考えてみるけど、答えはわからない。
――だから言葉が足りないんだって、圧倒的に!
ふてくされながら靴を脱ぐのとほぼ同時に、背後でドアを開錠する音が響く。驚いて振り向くと、そこには(書類上の)旦那様が。
「お、かえりなさい……」
すぐって、本当にすごくすぐだったらしい。
「車、出すから」
「はい?」
彼は靴も脱がずにビジネスバッグを玄関へ置くと、すぐさまドアノブに手をかけた。そしてそのまま玄関の扉を押さえ、ただただ視線を送ってくる。
〝もう着くから〟のあとに続くのは、〝待っていろ〟だったのか。まるでクイズをしている気分だ。
「大丈夫ですよ、ひとりで行けますから。雨宮さんにも悪いですし」
彼にはお抱えの運転手さんが付いており、毎日の通勤も車で送迎してもらっている。
一応私も送迎を頼んでいいことになっているけれど、どうにも世話をかけるのは忍びないと思ってしまう。
しかし、彼は玄関の扉を押さえたまま、ゆったりと首を横に振った。そしてスーツのポケットから鍵を取り出し、チャリチャリと鳴らす。
「あ、燈哉さんが運転して連れて行ってくれるんですか?」
つまり、運転手さんはもう帰ったのか。
運転手さんが送迎に使う車とは別に、彼個人で所有している車もあるので、そちらで送ってくれようとしているのだろう。
クイズのあとは連想ゲームだ。だから喉を使おうよ、とまた思った。
「いえいえ、燈哉さんは休んでいて下さい。本調子じゃないでしょう? ドラッグストアはすぐそこですし、わざわざ車を出してもらわなくても大丈夫ですから」
ぶんぶんと、彼が大きく頭を振る。それから何度か攻防が続き、結局私が折れた。彼がぽつりと呟いた言葉に、どう返したらいいのかわからなくなってしまったのだ。
「もう遅いし、危ないだろ」
空は暗くなっているとはいえ、まだ七時過ぎ。この時間ならば習い事帰りの小学生だって道を歩いているだろう。
「……行くぞ」
一応心配してくれているらしい。かなり過保護だと言いたいところだが、さすがに口を噤んだ。
こうして気遣ってくれるのに、どうして家事のこととなると私の意見を聞いてくれないんだろう。会話してくれないのはなぜ? 蔑ろにされてるわけじゃないと感じるけど……謎は深まるばかりだ。
扉の外へ出ると、ひんやりとした冷たい空気が頬を撫でた。エレベーターに乗り込み、会話もないまま地下駐車場へと向かう。駐車場へと続く重い扉を開けてくれた彼に小声でお礼を言うと、それよりももっともっと小さな音量で、頭上から囁き声が降ってきた。
「……ただいま」
言い終えてから、わざとらしく咳払いをした彼が、無表情でくしゃくしゃと頭を掻く。
タイムラグのある帰りの挨拶と、思いの外かわいらしい呟き方に、私は思わず大笑いしてしまった。
かわいい。彼をそんな風に思ったのは、初めてだった。自分で自分に驚いた。
「おかえりなさい」
燈哉さんって、基本的には素直な人なのかも。結婚して半年もたつというのに、ほぼコミュニケーションゼロのままここまできてしまったので、実際のところ彼がどんな性格なのかよくわからないのだ。
でも今、目の前にいる彼は「いたただきます」だけじゃなく全部の挨拶をちゃんとしようと努力してくれている。
――今度はパズルかな、と胸の内で呟いた。
〝水嶋燈哉〟という人を形成するピースを一つずつ集めて、彼がどんな人なのか、知りたいと思う。たとえそこに愛がないとしても、日常生活を円滑に送るために。
前向きな気持ちで車に乗り込み、ふたりでドラッグストアとスーパーを回った。
頼んでもいないのに、彼がわざわざいつものスーパーへ立ち寄ってくれたのだ。
――これは一歩前進かも、と上機嫌でいたのも束の間。
買い物中、私が投げかけたいくつかの質問に、彼はひとつも答えなかった。
それだけではなく、反応してもらえない質問に私が自分で答えたら、ご丁寧にため息までつかれる始末だ。
さっきまで、せっかくいい気分でいたのに。スーパーからの帰り道、私は彼と同じくらい無表情で助手席に座っていた。
――私はその日、げらげら笑いのどん腹立てな一日を過ごした。締めくくりが、どん腹立てな出来事だったのはいただけないが、こんな日も悪くないと思えたのだった。
3 奥さん、友人を招く。
「お邪魔しまーす」
「カナ、久しぶりっ!」
数日後、土曜の昼下がり。右手に私の大好きなシュークリームを、左手にワインをぶら下げて、あらゆる意味で最強の友人がマンションを訪れた。
「おーおー、お嬢様生活に逆戻りね」
都心の景色を一望できる大きなガラス窓から外を眺めて、カナが笑う。
最強の友人こと上原カナとは幼稚園の頃からの付き合いで、今でも心を通わせてくれる大切な存在だ。
カナとは価値観がぴったり重なるわけではないけれど、私の性質や好みに理解を示してくれる。そして愛情いっぱいの文句を言いながら、なんにでも付き合ってくれるのだ。
結婚する前は週に一度必ず顔を合わせていたのに、今回は随分間が空いてしまった。
「あれ、件の旦那は?」
「仕事だよ。今朝、突然休日出勤になったの」
「なるほど」
「いきなり呼び付けてごめんね」
「なに言ってるのよ。ずっと桜に会いたかったし、新居も見てみたかったの。ちょうどよかったわ」
私こそ、完全なるカナ欠乏症に陥っていたのでやっと会えて本当に嬉しい。
自分のこの行動は彼にとって感じ悪いことこの上ないと気付いた時、大変申し訳ない気持ちになった。ごめん、(書類上の)旦那様。
「ねぇ、このマンション、丸ごと旦那の持ち物?」
「ううん、燈哉さんのお父さんの持ち物」
「へー! じゃあこの部屋は結婚祝いってわけか。インテリアコーディネーターを雇ったの?」
「そうみたい。よくわかるね」
「どう考えても桜の趣味じゃないもの」
相変わらずの鋭い指摘に、私は「ははは……」と乾いた笑いを返した。
確かに、リビングにもキッチンにも、私の大好きなポップな色合いのものはほとんど存在しない。あるのは彼が用意してくれた踏み台くらいだ。
私が初めてこの部屋を訪れた時には、すでにすべての家具が完璧に配置されていた。家具も食器も家電も装飾品も、一級品ばかり。いいものばかりなのだとは理解しているけど、ちょっと落ち着かない。ここに少しでもポップななにかが混ざれば、少しは居心地がよくなるのかな……と、半笑いで考えてしまう。
「しっかし随分いい部屋をもらったのね。このリビングに、あんたが住んでたアパートの部屋が五つくらい入るんじゃない?」
「それを言わないで! 鍋が恋しくなるから!」
ソファに腰を下ろしたカナが、くすくすと笑いながら、細く綺麗な指で座面を一撫でする。これいいわね、と、目の肥えている彼女が評価を下した。
「桜、ワイングラスを出して」
「あ、やっぱり今から呑むんですね」
「当たり前でしょう? そのために持って来たんだから」
「はいはい」と返事をしながら、ワイングラスと簡単なおつまみを用意して、私も彼女の隣に腰を下ろす。
「それで? 無口すぎる旦那に盛大に怒り狂ったあとはどうなってるの?」
「狂うほど怒っては……ないと思う……」
「そう?」
カナには逐一愚痴メールを入れているので、私が大暴走してしまったことも、もちろん報告済みだ。
普通の生活を目指して、彼とコミュニケーションを図るべく躍起になっていることも。
「挨拶はしてくれるようになったよ。『ああ』って言うだけの返事もなくなった。あと私が開き直った」
「そう。開き直ったのはいいことだと思う。そうするべきよ」
「でも相変わらず家事は阻止される。なんで?」
「私に聞かれても」
苦笑いをしながら、カナがグラスにワインを注いだ。
……さて。果たして(書類上の)旦那様が休日出勤中に嫁が酒盛りをして、いいのだろうか。私の価値観では、そこはかとないうしろめたさを感じるのだけど、でもカナと呑める機会なんてこれを逃したら当分ないかもしれない。
まだ日が高いし、彼が帰ってくるまでには、多少なりともアルコールが抜けるだろうか。抜けると、いいな……!
うむ、と、ひとつ頷いて、結局カナからワイングラスを受け取り、すぐに乾杯をする。
「家事を阻止されるって言っても、旦那がいない間に掃除とかはできるわけでしょ?」
「掃除はね、ほら。ほぼあの子がやってくれちゃうから」
ウィーン……と、控え目なモーター音を響かせながら、忙しそうにフローリングを駆け抜ける丸い物体。すべての部屋に完備されているお掃除ロボットは、私よりも上手に部屋中を綺麗にしてくれる。彼は家電にこだわりがあるのか、うちにあるのは良品質で最新のものばかりだ。キッチンに鎮座している、彼愛用コーヒーメーカーもそのひとつ。冗談みたいな値段のドイツ製の代物である。
コーヒーも掃除も、機械の性能には敵わないので落ち込んだりもするけれど、君たちのことは好きだ。いつもありがとう。
「……なるほど」
「燈哉さん、休日以外は朝ご飯を食べないから日中に片付ける食器も出ないし、買い物は日用品だけなの。紙類の消耗品は定期便で、食材はインターネットで頼む宅配サービスに入っちゃってるからほとんど必要ないんだ。やることって言ったら洗濯とお風呂掃除と、せいぜい埃取りくらい。あ、夜ご飯も作るけど。ため息で文句言われないのは洗濯だけだよ」
「そう。洗濯も取り上げられてたら、桜はもっと早く爆発してたかもね」
「ええ、私もそう思います」
「パンツ洗わせてもらえるようになってよかったわね。おめでとう」
「ありがとうございます」
私は真顔のまま何度も頷いた。
「桜が異常な洗濯好きなこと、旦那は知ってるの?」
「さあ。言ったことないから知らないと思うよ。そもそも会話が成立しないもん」
「んー……。定期便とか宅配はうちの実家もそうだし、仕方ないんじゃない? そんなに暇なら、下の階のジムで体を鍛えたり、ヨガの先生を呼んだり、エステティシャンを呼んだり……したらどう? 旦那の金で思う存分買い物して回るとか。うちの母や桜のお母様みたいに」
「私がそういうの性に合わないって、わかっててわざと言ってるよね……?」
「ま、そうよね。桜には無理でしょうけど。それでも、ハウスキーパーやコックを雇ってない分、結構やることはあるのね。よかったじゃない」
「いや、よくない! よくないんだよ!」
カナの言葉に、拳を握って反論する。それからおつまみに出したチーズを口に放り込んで、ワインを呷った。
「それが三日前からさぁ! 燈哉さん、出勤前にお風呂掃除して行くようになっちゃったんだよ!」
私がぶーぶー文句を言うと、カナはグラスをテーブルに置きながら豪快に笑った。私はすかさず話を続ける。
「有り得ないと思うんだ。そっっんなに私の洗い方が気に入りませんかと。悔しいから今日は五時起きしたのに、すでにお風呂ピカピカでしたよ。いつ寝てるんだろうね、あの人。私がベッドに入る時、大抵まだ仕事してるんだよ? 早く寝なさいよ、と。そんで無駄に早起きしてくれるな! と、声を大にして言いたい!」
「すでに大きいから。うるさい」
顔をしかめたカナに、「ごめん」と肩を竦める。
「なに、旦那と寝室別なの?」
「寝室? 一応一緒だよ。ベッドは二つあるから別だけど。ただ、燈哉さんはベッドで寝たことないんじゃないかなぁ」
「はぁ!?」
「あ、やっぱり体に悪いよね? 燈哉さん、毎晩このソファで寝てるんだよ。仕事しながら眠っちゃうみたい」
そう、そうなのだ。私が眠りに入る時、彼は大抵このソファでパソコンと睨めっこをしている。にも拘わらず、平日は私よりも早く起床している。土日だけは朝寝坊をすると決めているようだけど。
ベッドで眠ったほうが疲れもとれますよ、と言ってみたことはあるけれど、例によって華麗に無視されたので、結局そのままになっているのだ。
「そんなに私と同じ部屋で寝るのが嫌なのかねー。あー、こうやって話してみると……やっぱり嫌われてるのかなぁ? でもなぁ……」
「疑問には思うけど確信ではないって口調ね。つまり、嫌われているわけではないと思う要素が多いってことかしら」
その通り! と私が手を叩くと、カナが話の先を促す。
「なんていうかね、これだけ無視されてるのにおかしな話なんだけど……、嫌われてるとか、邪魔だと思われてるんだろうなって感じることが、一切ないんだよね」
そう言って私は、ぽんぽんと、革張りのソファを叩いた。今、私が座っている場所は、本来彼の定位置だ。
「どういうこと?」
カナが怪訝な表情を浮かべるのも無理はない。どう説明すれば彼の不思議さが正しく伝わるか、少しの間、黙って考えた。
例えば、彼には自室もあるのに、ほとんどの時間をリビングで過ごす。
私がテレビをつけると、なにをしていても必ず手を止めて一緒に見る。テレビ画面を見つめながらうっかりなにかを「かわいい」と言おうものなら、後日確実にその品物が宅配される。
仕事が終わったらほとんど毎日まっすぐ家に帰ってくるのも、乗り物好きで多趣味なはずなのに休日ずーっと家にいるのも、買い物に付き合ってくれるのも。
自意識過剰かもしれないけど、嫌われてたら、そんな行動は取らないんじゃないかと思う理由だ。
それらすべてをカナに話して聞かせた後で、頭に浮かんだ出来事を更に追加する。
「あとね、なんて言うのかな、家の中で困ったなぁってことがあると、必ず数日以内に解消されてるの。いつの間にか各所に踏み台が設置されてたりとか! 私、別に燈哉さんにいちいち言ってるわけじゃないんだよ。むしろ、滅多なこと口にしたらいけないなって最近は心がけてる」
「ふーん。ああ、お土産もそうじゃない? まだ続いてるの?」
「あ、そうだね。続いてるよ」
「それって彼が買って来てるの? 頂き物とか、秘書とかに用意させてるんじゃなくて?」
「黙って手渡されるから最初はもらい物なのかなって思ってたんだけど、燈哉さんのお父様が電話で教えてくれたの。あいつ、桜ちゃんのためにケーキ屋に並んでるらしいぞって。ちょっと見てみたいよね、ケーキ屋に並ぶ燈哉さん」
深い深いため息を吐き出したカナが、なぜか呆れ果てた視線を送ってくる。
「なになに?」
「なにも」
(書類上の)旦那様は私が家事をするとため息で文句は言うけど、そこに強烈な嫌悪を乗せているわけではない。私が猛烈に鈍くて、気付いていないだけなのかもしれないけれど。
だからこそ、不思議でたまらないのだ。私が家事をすることをなぜ嫌がるのか。
不思議と言ったら、彼が私と結婚したこと自体も謎である。
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