カオルの家

内藤 亮

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 男女のことなど分からない歳だったが、綾の口調から馨が何か好ましくないことをした、ということだけは宥己にも分かった。綾の話を聞くたびにモヤモヤとした気持ちになるのだが、当の本人が駆け落ちした後の生活を刺激に満ちた冒険譚として話すものだから、馨と会ったとたん、そんな気持ちはたちまちリセットされるのだった。
 電車から降りると空気がすっかり変わっていた。樹々の息吹がそのまま溶け込んだような冷涼で湿度の高い空気が小さな駅舎を柔らかく包んでいる。宥己は何度も深呼吸をして東京の空気を肺から追い出した。
 改札口は階段を上るとすぐだ。その短い距離でさえもどかしく、宥己は大きなリュックサックをものともせずに階段を駆け上がった。
「馨ちゃん!」
「宥!」
 長い髪を束ね手製のワンピースを着た馨が改札口で大きく手を振っている。改札口を出ると、馨が待ち構えていたように抱きしめた。
「久しぶり!」
 馨がリュックごと力いっぱい抱きしめるものだから、馨とリュックの間に挟まって息が苦しい。ついでに胸も詰まってきて涙が勝手に頬を零れ落ちた。
 馨はトートバッグからタオルハンカチを取り出して宥己に手渡した。
「ほら、汗拭いて」
 馨は何も聞かないで男のプライドを守ってくれる。硬く絞って冷やしてあるタオルハンカチが火照った頬に心地いい。東京で何があったのかなど、もう話す必要はない。馨はみんな分かってくれる。
「サンキュー」
「大人っぽくなったわねえ。背、伸びた?」
「ちょっとだけね」
 宥己は気障っぽくちょいっと肩をすくめてみせた。泰明に背を抜かれてしまったが、馨に似ているからだ、と思うとちびなのも誇らしく思えてくる。
 駐車場までくると、
「ジャジャーン! どうよ?」
 真新しい軽自動車の前で馨が誇らしげに胸を張った。周囲の緑に溶け込むような深緑色の小さな車がちょこなんと停まっていた。
「おお、かっけえ!」
 宥己が感嘆すると馨は嬉しそうに笑った。
「フフフ。いいでしょ。さあ、乗って」
「馨ちゃん、お金持ちになったの?」
 綾の話によると、父親からの仕送りとスーパーマーケットのパートで馨は生活しているはずだった。確かに馨の生活はごく質素で、去年までは宥己が来るたびにレンタカーを借りていたのだ。
 「よくぞ聞いてくれました。山本さんがね、閉店した喫茶店を貸しギャラリーにしたいそうなの。で、試しにやってみないかって声をかけてくださったのよ。個展をやったら結構絵が売れたのよ!」
 山本は工務店を経営していて別荘の管理もしている。仕事の合間には一緒に遊んでくれる、熊のように大きなおじさんだ。
「師匠、さすが!」
「まだ続きがあるの。山本さんが昔画塾をやっていたって話してくれたらしくて。絵を見に来てくれた方々が、自分にも絵を教えてほしいって。あの個展の先生だぞ、って皆さんが宣伝してくださったの。そうしたら老若男女、生徒がどんどん集まっちゃって。今は公民館で週に四日も絵を教えてるのよ」
 馨はほっそりとした指を四本立てて、嬉しそうに大きな目をくるりとまわした。
「さすが師匠! 俺もさ、区の水彩画展で小学生の部の金賞を貰ったんだよ!」
「宥は私の一番弟子だもの。当然よ」
 馨がハンドルを切ると、車は幹線を離れ木立の中へと入っていった。
 馨の祖父が建てたという別荘は、別荘というよりも山小屋と言ったほうが正しい。丸太を組んで作った素朴な造りで頑丈なだけが取り柄の無骨な建物だ。初めて山小屋を訪れた時は、鬱蒼とした木々が覆いかぶさるように茂り、屋根から蔦が垂れ下がったお化け屋敷のようで、宥己は肝をつぶした。夜はトイレに行くのが怖くて、いつも馨と一緒にいったものだ。
 訪れるたびに山小屋は綺麗になっていて、今では灌木は綺麗に剪定され、敷地の入りの双子の樅ノ木は門番のように家を守っている。下草は短く刈られ緑の絨毯となって敷地に広がり、落ち葉と泥で埋まっていた目の前の小川は、掘り直されて清流が流れている。去年はスレートの屋根に綺麗なペンキが塗られていた。
「あ、窓が新しくなってる!」
 枠が歪んだ窓からは、隙間風が容赦なく吹き込んで、厚手のカーテンがゆらゆらと揺れていたのだ。
「よく気が付いたわね! これでいつ冬将軍が来ても大丈夫!」
 今でこそ別荘地で寒さを楽しむという過ごし方も当たり前になっているが、避暑のため、という昔の考えで建てられた山小屋の冬の寒さは半端ではなかった。室温が零下となるのもざらで、冬くらいは両親の許へ帰ればいいものを、馨は厳冬の中でもこの山小屋に住み続けていた。居間の薪ストーブをトロトロと焚いたままにして布団を並べて寝るのだが、それでも寒さがしのげなくなると、馨は猫の子でも呼ぶように布団の隅をちょっと開けて宥己を中に招き入れる。
「宥の足、氷みたい」
 馨のしっとりとした柔らかな足が自分の足に触れる。宥己は馨の胸の中でいつの間にか眠りにつくのだった。
 今度の冬は一緒の布団で眠らなくて済む、と思うとほっとしたような残念なような気持になってくる。
「どうしたの?」
「な、なんでもない」
 馨はクスリと笑うと、大きな湯呑にたっぷりといれた麦茶を持ってきた。
「喉、かわいたでしょ」
「ありがと」
 薄鼠色の地に藍色の渦巻き模様が洒落ている。
「水が流れてるみたいだ。麦茶が美味しく感じるね!」
 湯呑をしげしげと眺めていると、
「いい感覚してるじゃない。それね、今年の陶芸展で新人賞を取った方の作品よ。ね、絵を見せてよ」
「うん」 
 馨は黙ったまま破れ目をそっと指でなぞると、丁寧に絵を広げた。
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