カオルの家

内藤 亮

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「母さん、見て! 僕の絵、金賞をもらったんだよ!」
 何を着ていくべきか泰明と相談していた綾が怪訝そうに振り返った。
「なあに、大きな声を出して」
「僕の水彩画が最優秀賞になったんだよ……」
 綾の冷やりとした視線に臆して声が段々と小さくなる。
「画家にでもなるつもりなの? たかが小学生の展覧会でしょ。絵描きは馨さん一人でもうたくさん。勘弁してちょうだい」
 思いがけない返事が返ってきて、宥己は言葉に詰まった。ただ母親に褒めてほしかっただけなのだ。画家になるなど、思ってもいなかった。
「ええと、明日は何時に家を出るんだっけ?」
 宥己は金色の札が貼ってある絵を後ろ手に隠し、急いで話題を変えた。
「もう忘れたの? 全く貴方は。しっかりしてちょうだい。朝の九時って言ったでしょ」
「あ、そうだったね」
 へらっと笑うと、宥己は早々に自分の部屋に引き上げた。
 明日は全国展開をする学習塾の成績優秀者の表彰式がある。式典は、毎年、夏休みに首都圏の大きなホールを貸し切って行われ、全国から選ばれた小学生から高校生までの精鋭が集まるのだ。
「どうしてこんな簡単なことができないの」
 一つ下の弟が無邪気に尋ねる。学習塾のシステムは、計算や読み書きを中心とした教材を学習し、学年とは関係なく生徒の能力によって課程を進めていくのが特徴だ。学習塾に入ったのは兄弟同時だったが、宥己は弟の泰明にあっという間に追い抜かれてしまった。宥己の出来が悪いわけではないのだが、弟の出来が良すぎた。泰明はここ数年、毎年表彰されていたのだが、今年は数学部門でとうとう小学生の部で最優秀賞を受賞したのだ。
 見た目の方でも宥己は分が悪かった。背丈は同じくらいだったが、いつも腹を壊している宥己は痩せてひょろりとしている。一方の泰明はいかにも運動神経のよさそうなしなやかな身体つきをしていて、兄に先んじているという自負も手伝ってか、常に勝ち気なオーラが溢れて出ていた。なんとか兄のメンツを保っていた背丈も、この夏にはとうとう泰明に追い抜かれてしまったのだ。
「一緒に行かなくてもいいのよ」
 思いやりなのか、三人だけで心置きなくお祝いをしたいのか。突き詰めて考えるのは止めにして、
「泰明の晴れ姿、僕も見なくっちゃ」
 少なくとも卑屈にはなるまい、と言ってしまったのだ。
 こんなもの。
 誇らしく思えた絵が急にくだらないものに思えてくる。破り捨てようと十センチほど破いたところで、ふと馨の顔が目に浮かんだ。宥己は破きかけた絵を丸めて輪ゴムで止め、机の引き出しの奥のほうにしまった。
 覚悟をしていたつもりだったが、舞台でスポットライトを浴び、一人では抱えられないような大きなトロフィーを受け取る泰明はやはり眩しく、客席に座っている自分が情けなかった。歯を食いしばっていないと涙がこぼれそうになる。誇らしげな顔で大きく拍手をしている両親は、泰明だけを見ていたから、顔を見られずにすんだ。
「さすがだね、泰明! よっ、日本一!」
 表彰式の帰りに家族で寄ったレストランでは、幇間さながらにお道化てしゃべり、いつもなら腹いっぱいで食べられないデザートのフルーツパフェまで平らげてみせたのだが、味は全く分からなかった。
「お前はいつもへらへらしている。そんなことだから弟に負けるんだ」
 帰り際、いらいらとした口調で義明は言った。へらへらしてようやく守っていた最後の砦が今にも壊れそうになる。宥己はこみあげてきた鉛のような塊をごくり、と腹の中に押し込めた。
 レストランでトイレに行っておくべきだったと後悔したがもう遅い。キリキリと腹が痛み冷汗が流れてくる。やっと家に着いた。宥己は車から転がるように降りると、トイレに駆け込んだ。さっき食べたばかりのスパゲッティとパフェがあっという間に排出された。 
 間に合った。
 宥己の口から思わず安堵のため息がもれた。このうえ粗相までしでかしては目も当てられない。
 やっとのことでリビングに戻ると、三人がトロフィーを囲み、興奮冷めやらぬ様子でしゃべっている。泰明の自慢話はもう聞きたくなかった。
「ごめん、ちょっとお腹痛いから。先に寝るね」
 泰明がちらり、と目をあげた。
「食べすぎるからよ」
 綾が呆れたように言う。
「全く。お前は何をやっているんだか。少しは泰明を見習え」
 義明がやれやれ、とかぶりをふった。
「エへへ。おやすみなさい」
 宥己はいつもの下痢止めの黒い丸薬を飲み、シャワーを浴びて部屋にひきあげた。
 今日がやっと終わった。明日は馨に会えるのだ。迷ったが、水彩画もリュックに入れることにした。真ん中が破れてしまったが、やはり師匠に報告するべきだろう。
 その夜、夢を見た。
 王様の耳はロバの耳! 
 床屋になった宥己は自分が掘った穴に向かって力いっぱい叫んでいた。
 年子の子供、それも男児を二人も育てるのは相当にエネルギーがいったのだろう。物心ついたころには、休みに入ると宥己だけ馨の所に預けられるのが慣習になっていた。馨と過ごした毎日を嬉々として報告すると、
「馨さんはねえ。ちょっと変わった人なのよ」
 綾はたった一人の姉なのに他人のような言い方をして、馨にすっかり心酔している宥己にやんわりと釘を刺すのだった。
 綾はすぐに飽きて早々に画塾を辞めたのだが、馨は高校生になっても熱心に画塾に通っていて、ローカルなコンクールでちょいちょい賞をもらうようになっていた。画塾に姉妹を通わせたのは、あくまでも情操教育の一環で、娘を画家にするためなどではない。勉強そっちのけで画業に打ち込む馨に、両親は即刻画塾を辞めるよう言い渡した。
 馨が画塾を開いていた男と共に姿を消したのはそれから間もなくだった。いつものように画塾に行った馨は、そのまま帰ってこなかったのだ。両親が慌てて画塾に行ってみると、画塾はとっくに閉鎖されていて、ドアにはアパートの管理をしている不動産会社の広告が貼られていた。
 一家には厳しい緘口令がしかれた。馨と綾の父親は、ちょっとした土地持ちで地元では名士だったから「馨は療養のために保養地にやった」という話を、近所の者は殊勝な顔をしてきいていた。
 とはいうものの、この手の噂は格好の好餌に違いなく、あっという間に噂は尾ひれがついて広まっていった。近所の者たちは親に詳細を尋ねるわけにはいかないから、「ちょっと綾ちゃん、いいかしら?」と学校帰りの綾をつかまえてはあからさまな質問をぶつけた。綾が馨を良く思わないのも当たり前なのだ。
 数年後、馨から便りが届いた。画塾を開いて生計をたてているからご心配なく。と、葉書きに一行だけ記した至極簡単な報告書だった。
 丁度その頃、綾の婚約が調って、馨が行方知れずのままでは都合が悪かった。父親は人と金を使い、消印を手掛かりに馨を探し出した。再会した馨は、ただ一人、ぼろ屋で子供たちに絵を教えながら呑気に暮らしていた。男は病気で亡くなったのだという。馨は男と共に過ごした思い出の地を離れるつもりはなかったのだが、母親に泣きつかれ、とりあえずはその地を離れることにしたらしい。両親は馨を綾の結婚式に参加させ、その後は半場無理やり別荘に住まわせて世間から長女の存在を抹消した。
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