カオルの家

内藤 亮

文字の大きさ
上 下
3 / 32

しおりを挟む
 金曜日の夕方、大手アパレルメーカーの倒産が一斉に報じられた。あの会社の軽快なCMソングを知らない人はいないだろう。
 大きなゴシック体の文字が踊っている記事の片隅に、宥己が勤める会社の倒産もオマケのように小さく報じられていた。市場が荒れるから大企業の倒産記事は金曜日の夕方に報道される、ということを初めて知った。
 携帯が鳴った。宥己は深呼吸をして通話ボタンを押した。
「これからどうするつもりなんだ!」
 耳元で義明の怒声が響いた。
「就職サイトに登録はしてあるよ」
 宥己は携帯を耳から離しながら答えた。
「会社が潰れるまでお前はじっとしていたのか」
「後任が決まるまで少し待ってくれって上司に言われて……」
 そう言った上司本人は、会社がつぶれるのを待つことなく早々に転職したのだが。
「それでお前は、はい、そうですかと言いなりになったのか」
「言いなりってわけでもないけど……。でもさ、俺が最後に設計したマンションはちゃんと建って人が住むんだよ」
 マンションは、整理機構が後を引き継ぎ、販売の手筈を整えるとのことだった。負債の足しとなる案件は次々と実行に移され、資金回収が進められている。利潤は銀行をはじめとする融資元に補填される。会社は返済計画が終了したら消滅するのだ。
 こんな結果になってしまったが、連日の徹夜が無駄にならずにすんだ。中間所得層をターゲットにした廉価なファミリータイプのマンションだが、少しでも住みやすくなるよう、細部まで検討を重ねて設計したつもりだ。初めてマイホームを持つ若い家族を想定して、子供の成長、独立とライフスタイルの変化に合わせて部屋の形を変えられるよう、可動式の壁を取り入れた。マンションのパブリックスペースには子供たちが雨天でも階下への音を気兼ねしないで遊べるようプレイルームを作った。敷地の傍には思いきり走り回れる公園も作った。自分の設計したマンションから、たくさんの子供たちが育ち、巣立っていくのだ。
「くだらない。何を呑気なことを言っているんだ」
 宥己の話が終わらないうちに、義明が吐き捨てるように言った。次は泰明が電話に出てきた。
「兄さん、やらかしたなあ。だから俺が言ったじゃないか。今からでも間に合うぜ。三橋に頼んでやろうか?」
 泰明の声は憐憫と軽蔑が絶妙にブレンドされていた。
「心配してくれてありがとう。あ、キャッチだ。電話一旦切るよ。また連絡する」
 電話口で金切り声を上げている母親と話をする気力は残っていなかったから、宥己は適当な理由をつけて早々に通話を終わらせた。
 ま、なるようになるだろう。
 携帯の電源をオフにすると宥己は大きく伸びをした。規定額には満たなかったが、一応、退職金も支給された。失業保険と貯金を足せば半年は優に食べていかれる。野郎一人が食っていくのに必要な金など、たかがしれているのだ。
 週末は必ずここに泊まるまでの仲になっていた明美は、給料が上がらなくなり残業代が出なくなると、三年間付き合ったことなどまるでなかったかのように早々に別れ話を切り出してきた。
 沈みかけた船に乗っていたらいかんよな。
 賢明な女だったと今更ながら感心する。とにかく忙しくて、休日は泥のように眠り、家と会社を往復するだけの毎日だった。少しくらいのんびりしてもバチは当たらないだろう。誰に迷惑をかけるでもなし。何もない休日を過ぎせると思うと、失業中にもかかわらず気持ちが軽くなってくる。
 敷きっぱなしの布団の周りには乱雑に物が置かれ、壁を囲むように置かれた本棚からは雑多な本や雑誌が崩れ落ちそうになっている。くたびれたスーツがずらりと窓枠に掛けたままになっている。乱雑なせいで、ただでさえ狭い部屋が余計に小さく見えた。 
 いい仕事はまず掃除から。馨の声が蘇ってくる。いい休日は掃除から。勝手に言い換えて、宥己は部屋を片付け始めた。今頃の時間は押しつぶされそうな満員電車に乗って労働に従事しに行くべきなのに、自分だけ呑気に掃除をしていると思うと鼻歌の一つでも歌いたくなってくる。
 布団をベランダに干し、汚れているのかどうかもよく分からなくなっている服と、イロイロと滲みこんでくんなりとした寝具類を洗濯機に放りこむ。この時期、ベランダは二時間しか太陽が照らないが、外の風に当てるだけでも部屋干しよりはましだ。狭いベランダが大量の洗濯物にたちまち占拠された。
 次は本棚の整理だ。先日の地震で本が頭から降ってきて夜中に飛び起きる羽目になったのだ。あの時できたこぶがまだ痛む。その手の雑誌はなるべく控えめな表紙の雑誌の下にして資源ごみへ。売れそうな本は段ボールに入れていく。
 あらかた片付いた本棚と壁の間にスケッチブックが挟まっていた。馨のスケッチブックだった。手元に残る唯一の遺品だ。忙しさにかまけているうちに、いつの間にか見当たらなくなって、そのうちスケッチブックのことも馨のこともすっかり頭から抜け落ちていたのだ。
「久しぶり、かおちゃん……」
 宥己は日に焼けて茶色くなった表紙を指先でそっと撫でた。
 スケッチブックにはあの頃の思い出とのままの馨が入っているから、中を見るのには心構えが必要だった。
 宥己は掃除機をかけ、水回りまで磨き上げて掃除を済ませると、部屋の真ん中に胡坐をかき、スケッチブックを繰り始めた。
 馨のスケッチブックに書かれているのは絵だけではない。水道料金の引き落とし日や、買い物のリストまで書いてあって、何かの覚書にでも使ったのかページの一部が破り取られている箇所もある。いつの間にスケッチしたものか、宥己が丸くなって寝ている姿や、パンツ一丁で川遊びをしている姿も描かれていた。このスケッチブックのなかで馨は今も生きているのだ。
しおりを挟む

処理中です...