カオルの家

内藤 亮

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 新幹線に乗るとあっという間に目的地についた。在来線でここまで来ていた子供の頃とは隔世の感がある。駅のそばには大きなアウトレットモールが出来ていて、平日だというのに新幹線からは人々がぞろぞろと降りてくる。駅舎はすっかり綺麗になって自動改札口が完備されていた。
 駅舎の外に出た宥己は目を丸くした。駅の前には大きな駐車場が広がっていて、近県からだけでなく、首都圏ナンバーの乗用車がずらりととまっている。観光バスも次々と駐車場に入ってきて、客がぞろぞろとバスから降りてくる。山登りやハイキングの格好をしているものなど誰もいない。どの客も洒落た格好をしていた。ここに来る観光客はアウトレットモールにいくつも入っているブランド店が目当てなのだ。
 駅の傍にあるレンタカーの店で車を借りることにしてある。手続きを済ませ、芳に教えられた住所を入力した。
 公道に出ると、右に曲がれ、左に曲がれと早速ナビゲーターが指示し始める。車を運転するのが久しぶりの宥己はそろそろとアクセルを踏んだ。免許を取ったのは学生時代だが、ほとんどペーパードライバーなのだ。
 幸い運転は身体が覚えていたらしい。車の操作に余裕がでてくると、周りの風景が目に入ってきた。道路は舗装され、幾分広くなっているが、周囲の風景はあの頃のままだ。冷房を切って窓を大きく開けると、子供の頃と同じ、腐葉土と、樹々の香りをたっぷりと含んだ湿っぽい風が頬を撫でた。初夏の空の下、高原特有の柔らかな葉をつけた高木が今を盛りと輝いている。前方に見えてきたあの信号を右折すると、幹線道路を離れて馨の山小屋へ続く山道に入っていく。もちろんカーナビは黙ったままだ。宥己はそのまま直進して目的地を目指した。
 市街地に入り暫く車を走らせると、古ぼけた団地が見えてきた。車が数台止まっているきりで、だだ広い駐車場は閑散としている。共同駐車場の車一台分の区割りを示す白線はすっかり薄くなっていて、来客用と書かれた文字がようやく判読できた。
 宥己は縦列駐車の車庫入れをなんとかすませ、芳の住む東棟を目指した。
 建物は五階建て、昔ながらの二戸一にこいち階段でエレベーターなどもちろんついていない。ずらりと並んだポストに結城の名があるのを確かめ、宥己は階段を上り始めた。
 日頃の運動不足がたたって、五階まで上がると息が上がる。約束の時間まであと五分ある。ドアの前で呼吸を整えていると、勢いよく扉が開いた。
「水道菅が破裂したの!」
 雑巾を片手にした女は頭からずぶ濡れだ。
「失礼します。どこの水道管ですか」
 挨拶もそこそこに靴を脱ぎ、部屋の奥へ向かうと、
「台所!」
 と背中から声が返ってきた。シンクの下の扉が開け放されていて、水が勢いよく溢れ出している。シンクについている蛇口の下にもう一つ、元栓の役割をしている蛇口があるのだが、水はその下の鉛菅の継ぎ目から勢いよく噴き出していた。宥己はもう一度外に駆け出し、水道メーターの扉を開け、水道菅全体の元栓を閉めた。これで水は止まるはずだ。
「あ、止まった!」
「よかった。あくまでも応急処置ですけれど」
「助かったわ! ありがとう」
「どういたしまして。あの、僕は……」
「宥己さんね。初めまして。芳と申します」
「初めまして」
 二人とも頭から水を滴らせたまま、挨拶をした。
「ちょっと待ってて」
 芳はそう言うと、洗面所に駆け込みタオルを片手に小走りに戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 顔を拭いて目をあげると、やはり顔を拭き終わった芳と目が合って、どちらからともなく笑みがこぼれた。頭から水をかぶって化粧がすっかり落ちているが、芳は切れ長の瞳と抜けるような白い肌の持ち主で、まさに水も滴るいい女、だった。
「今、お茶を淹れますね」
 水道をひねった芳は、あら、と蛇口を開けたり閉めたりしている。
「元栓を閉めたから。この家全体の水が出ないんです」
「水道全部?」
「そう、全部です。洗面所もトイレも」
 宥己がそういうと、あらまあ、と芳は目を丸くした。
「牛乳、トマトジュース、炭酸水、何がよろしい?」
 冷蔵庫を開けながら芳が振り返った。
「どうぞお構いなく。あの、まず水道の修理を頼んだほうがいいですよ。そこ、電話番号がたくさんあるじゃないですか」
 冷蔵庫には水道局指定と書かれた修理屋のマグネットシートがペタペタと張られ、メモが挟まっている。
「あらやだ、そういえばそうね」
 芳は一番大きなマグネットシートを冷蔵庫から剥がし、電話をかけ始めた。
「お昼前には来て下さるって」
 嬉しそうな顔をして芳が振り返った。
「それは良かった。片付け、手伝います」
 床には米びつや醤油、サラダ油のボトル、食器洗剤のストック等々、こまごまとしたものがが乱雑に並べられている。
「あ、芳さん、シンクの下は空っぽのままで。配管を取り替えないとですから」
 水浸しになった床を二人で拭き終わるとチャイムが鳴った。配管を交換し、すぐに修復は終わった。
「奥さん、この蛇口も相当ガタがきてますよ。ついでに取り替えたらいかがです? ちょうどいい蛇口、偶然、車に積んでいるんです。持ってきましょうか」
  商売上手の業者ではあるが、確かにシンクの蛇口は相当古びている。パッキングを替えても中のコマも痛んでいるに違いない。宥己は当然蛇口も交換するだろう、と思ったのだが、芳の返事は違った。
「御親切にありがとう。でも、とりあえず水が漏れなければいいのよ」
 芳がそういうと、業者は残念そうな顔をして帰っていった。
「貴方がいてくださって助かったわ」
「お役に立ててよかった」
「ずっとここに住んでいるけど、水道メーターの場所に元栓があるなんて知らなかったわ。初めていらしたのに、どこを止めれば水が止まるか、なんてよくお分かりになったわねえ」
「設計の仕事をしていたので。建物の構造がだいたい分かるんです」
「建築士さん?」
 少し前に流行った恋愛もののドラマの主人公が建築士だった。今を時めくアイドルが建築士を演じていて、イケメンが図面を引いていると、同じ道具を使っていてもこうも格好がいいものか、とつくづく感心した。明美が家に泊まるようになったのも、あのドラマが影響していたからに違いない。芳もやはり目を輝かせている。
「はあ、まあ。先日、会社がつぶれて。今は就職活動中です」
 失業中だなどと言うつもりはなかったのだが、嘘をついたまま馨の友人である芳と話をするのは気がとがめた。
「あらまあ。お忙しいのに来てくださったのね」
「いやあ。会社に行かないから忙しくはないです。就職サイトに登録して連絡を待てばいいんですから」
「便利な世の中ねえ。にしても、貴方、呑気ね。馨さんに似たのかしら」
 芳の目が可笑しそうに笑っている。
「部屋を掃除していたらあの葉書が出てきて、連絡させていただいたんです」
「馨さんが私たちを引き合わせてくれたのね。俤があるわ」
 馨を思い出しでもしたのか、ふと言葉が途切れ、切れ長の大きな瞳から涙が溢れてきた。女の涙は男を惑わせる。思わず芳を抱き寄せそうになった宥己は急いで話題を変えた。
「引っ越しされていたのですね。手紙が無事に届いてよかった」
「あの住所は実家なのよ。今は弟の家族が住んでいるの。手紙はすぐにこっちに転送してもらったの」
 照れ臭そうに涙を拭いながら芳が答えた。
「伯母とは長い付き合いだったのですか」
「ええ。父が亡くなってからだから。随分になるわ」
「お父様と伯母が何か関係あるんですか?」
「そりゃあ。大ありよ」
 芳は大きな目をさらに見開いた。
「そりゃあって」
 黙っていればとっつきにくいくらいの美人なのに、クルクルと変化する表情が芳を年齢よりもずっと若々しくみせて、宥己は敬語を使うのを忘れそうになった。
「馨さんが一緒に暮らしていた相手のこと、ご存知?」
「いいえ」
 宥己はこくり、と唾を飲み込んだ。
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